【第2部】第1章
鷹ノ科宮家との縁談は、日を追うごとに具体を帯びていった。
宮内省の役人が出入りし、書院には幾度も几帳が立てられ、家同士の調整が進められる。
「殿下、これは吉報にございます」
報告する侍従の声は喜色を含んでいたが、月子の胸は冷えたままだった。
貞仁王が誠実であることは、先日の対面でよく分かっている。
けれど、心はどうしても彼を夫と呼ぶ未来を思い描けなかった。
父・典仁親王は満足げにうなずき、澄子妃は言葉を呑んで袖を握る。
乳母・芙美子は娘の肩を案じるように見つめるが、何も言えない。
「納采の儀の日取りも、近日中に定められましょう」
宮内省の官僚がそう告げたとき、月子の胸に鋭い痛みが走った。
――もう、逃げ場はないのだ。
夜更け、月子は几帳の中でただ一人、燈火を見つめていた。
父の言葉、宮内省の官僚の声、納采の儀の話……。
すべてが胸を締めつけ、息が詰まりそうだった。
「……殿下」
戸口から現れたのは、乳母の藤原芙美子である。
月子は顔を上げ、その姿に縋るように声を発した。
「芙美子……お願いがあるの」
「はい、殿下」
「……どうしても、秀隆に会いたい」
芙美子は一瞬、息を呑んだ。
「な、なんと……。殿下、それは叶えてはならぬこと。もし父上にお聞き及びになれば……」
「分かっているわ!」
月子の声は震えていた。
「分かっているのに……このまま会わずに嫁げと? 私にはできない……!」
芙美子は言葉を失い、目を伏せた。
幼いころから抱きしめてきたこの娘の涙を、どうして見過ごせようか。
「……殿下。せめて人目を忍んで……。蓼科の若君も危うい立場にございます。どうか一度だけ、と心得てくださいませ」
月子は強く頷き、袖口を握りしめた。
「ありがとう、芙美子。……たとえ一度でも構わない。どうしても、彼に……」
その声は熱に震え、涙に濡れていた。
芙美子は胸の奥で「止めねばならぬ」と叫びながらも、その願いを拒むことはできなかった。
* * *
藤蔭宮と鷹ノ科宮の縁談を寿ぐ夜会は、都心の洋館で盛大に催された。
煌めくシャンデリアの下、絹の裳裾が床を滑り、ワルツの調べが響く。
月子は白いドレスに身を包み、慣れぬ微笑を浮かべて賓客の挨拶を受けていた。
――息が詰まる。
胸の奥で叫びながら、月子は隙を見て人波を抜け出した。
外気を求めて裏庭に出ると、夜の風がひやりと頬を撫でる。
そこに待っていた影に、月子は足を止めた。
「……殿下」
低い声。振り向けば、月下の闇に秀隆が立っていた。
学習院の礼服姿、その眼差しは激しい光を宿していた。
「秀隆……」
抑えきれぬ震えが月子の声を震わせる。
二人はしばし見つめ合い、やがて月子が駆け寄った。
「どうして……ここに」
「英介が……取り計らってくれた」
秀隆は短く答え、月子の両手を強く握った。
「殿下、俺はもう耐えられぬ。あなたが他の方に嫁ぐなど……考えられない」
「私だって……! でも、父上は聞いてくださらない。母上も、何も……」
言葉が途切れ、月子の瞳に涙があふれた。
秀隆はその涙を拭うように顔を寄せ、低く囁く。
「……ならば、俺たちで抗おう。たとえ、この命を賭してでも」
月子の胸に、激しい熱が走った。
遠く、夜会の楽団が奏でるワルツが響いていた。
華やかな音の影で、二人の恋は取り返しのつかない道へと踏み出していた。




