第3章
数日後、藤蔭宮邸に静かに客が訪れた。
鷹ノ科宮家の貞仁王――月子の縁談相手である。
陸軍の制服に身を包み、背筋を正した姿は凛としており、二十三歳の若さながら重みを感じさせた。
几帳の内に控える月子は、鼓動の速さを抑えながら姿を現した。
「藤蔭宮内親王殿下にお目にかかり、光栄に存じます」
貞仁王の声は落ち着き、礼節をわきまえていた。
月子は応じるように微笑み、浅く頭を垂れる。
「鷹ノ科宮殿下……お噂はかねがね」
二人の間には形式ばった会話が続いた。
貞仁王は余計な言葉を挟まず、必要以上に視線を向けることもない。
それは彼の誠実さを示していたが、同時に温もりに欠けていた。
月子は几帳の影に座る母・澄子妃の視線を感じながら、胸の奥で密かにため息をつく。
――立派なお方。でも、私の心は微動だにしない。
貞仁王は最後に一言、静かに告げた。
「私は軍務に身を置いておりますゆえ、頻々とお会いすることは叶いませぬが……殿下に恥じぬよう励む所存です」
その誠実な言葉がかえって、月子の胸に鋭い棘となって突き刺さった。
――どうして。
昨日のように甦る笑顔は、蓼科秀隆のものだけだというのに。
貞仁王が邸を辞した後、書院には厳かな静けさが満ちていた。
典仁親王は几帳の内に控える月子を一瞥し、淡々と告げる。
「月子。……今度の縁談は宮家のためでもあり、お前自身のためでもある」
父の声は揺るぎなく、決定を告げる響きを持っていた。
澄子妃は袖口を固く握りしめていたが、一言も口を挟めない。
「鷹ノ科宮の貞仁王は、真面目で信義を重んじる方。お前の伴侶として申し分ない。
これ以上の縁は、二度と巡ってはこぬであろう」
月子は膝の上に手を置き、爪が食い込むほど強く握りしめた。
――お父上は、私を娘ではなく“宮家の駒”としてしか見ておられない。
「……父上、私は」
勇気を振り絞って声を発した瞬間、典仁親王の眼差しが鋭く射抜いた。
「月子。家を背負う者の務めを忘れるな。己の感情に惑うのは、未熟な子供のすることだ」
その言葉は刃のように冷たく、月子の胸を切り裂いた。
澄子妃はその背で密かに涙を落としたが、声を発することはできなかった。
やがて、父の声が再び響く。
「この件、正式に宮内省へ取り計らう。お前は静かに従うのだ」
月子の唇は震え、声にならない吐息が零れる。
「……はい」
それは娘としての返答ではなく、宮家の一員としての無力な承諾に過ぎなかった。
* * *
夜の寄宿舎。静まり返った廊下を抜け、秀隆は中庭に佇んでいた。
頭上には冴え冴えとした月。桜の花びらが夜風に舞い散り、白い光を浴びてきらめいている。
「……また殿下のことを考えているな」
背後から声がし、秀隆は振り返った。三雲英介が腕を組み、苦笑を浮かべて立っていた。
「英介……」
「分かるさ。お前の顔を見ればな。縁談が決まったって噂は、もう耳に入ってる」
秀隆は唇を固く結び、拳を握りしめた。
「分かっている。……だが、俺は諦めぬ」
三雲の目が細められる。
「言っておくが、相手は宮家だ。伯爵家の子息が逆らえば、家が潰れるぞ」
「それでもいい」
秀隆の声は震えていなかった。
「俺にとって月子殿下は……ただの宮家の姫ではない。幼い頃から胸に刻んできた、唯一のひと……」
言葉の先を言い切る前に、三雲は深く息を吐き、肩をすくめた。
「まったく、お前は愚かだ。けれど……羨ましいほど真っ直ぐだ」
夜空に雲が流れ、月が一瞬隠れた。
その暗がりの中で、秀隆の眼差しだけは、確かな光を宿していた。




