第2章
翌日の夕刻、月子は父の呼び出しを受け、藤蔭宮邸の書院に姿を見せた。
几帳を隔てた座には、典仁親王が端然と腰を下ろしている。
その顔は宮家の威厳を背負い、いささかの揺らぎも見せなかった。
「月子」
「はい、父上」
「お前も十八になった。そろそろ将来のことを考えねばならぬ」
低く響く声に、月子は思わず膝の上で指を組みしめた。
父の言葉の先を予感し、心が冷えていく。
「鷹ノ科宮家の貞仁王より、縁談のお話があった。陸軍に身を置き、至って真面目な若者だ。宮家同士の結びつきとしても申し分ない」
やはり――。
月子は胸の奥で小さく息を呑んだ。
昨日の再会の温もりが、一瞬にして遠ざかっていくようだった。
「父上……私は」
勇気を振り絞り、言葉を紡ごうとしたが、典仁親王の鋭い視線に遮られる。
「月子。宮家の娘としての務めを忘れるな。お前の感情ひとつで、家の威信を損なうことは許されぬ」
淡々と告げられる声は、鋼のように冷たかった。
澄子妃が背後で控えていたが、言葉を挟むことはできなかった。
ただ娘の背に目を落とし、静かに涙を忍ぶのみ。
月子の唇は震えた。
「……はい、父上」
その返答は、もはや自らの意志ではなく、家に縛られた一人の姫の声にすぎなかった。
その夜、月子は几帳の内で一人、灯火の揺らめきを見つめていた。
縁談を告げられたときの父の冷徹な声が、耳にこびりついて離れない。
息苦しさに耐えかねて、襖をそっと開け放つと、月明かりが差し込んだ。
「……殿下」
静かに歩み寄った影は、乳母・藤原芙美子であった。
幼いころから仕え、実の母にも劣らぬ慈愛を注いでくれた存在。
芙美子の瞳は娘を案ずる母のそれであり、月子は思わずすがりついた。
「芙美子……私は、どうすればよいの」
震える声に、芙美子は黙って肩を抱き寄せた。
「お心に従えばよろしい、と申し上げたい。けれど、それでは殿下をさらに苦しめることになる……」
月子は袖に顔を埋め、嗚咽をこらえた。
「父上は……家の名ばかりを仰せになる。母上も私を想ってくださっているのに、何もおできにならない。
私は……ただ、誰かのためだけに生きるのでしょうか」
芙美子はしばし言葉を探し、やがて低く囁いた。
「殿下。私ごときが申すのは恐れ多いのですが……人は家のために生きるばかりではございません。
どうか……どうかお心を閉ざされませぬよう」
その言葉に、月子の胸はわずかに熱を取り戻した。
けれど同時に、胸の奥に芽生えつつある想い――蓼科秀隆の姿が浮かび、かえって心を乱した。
月下美人の蕾が開く夜を、再び共に見られるのか。
それとも、咲く前に摘まれてしまうのか。
答えの出ない問いが、月子の胸を締めつけていた。
* * *
学習院の寄宿舎。
夜も更けた廊下を歩き、秀隆は自室に戻ろうとしていた。
昼間の月子の姿が、今も脳裏から離れない。
「おい、どこをさまよってた?」
声をかけてきたのは、同室の三雲英介だった。
机のランプに照らされながら、彼は文集を閉じ、にやりと笑う。
「さっきから上の空だな。まさか……殿下のことか?」
秀隆は立ち止まり、軽く睨む。
「軽口はやめろ、英介」
「軽口? 図星を突かれると人は怒るんだ」
三雲は愉快そうに肩をすくめた。
沈黙ののち、秀隆は静かに息を吐いた。
「……父上が、あの方との縁談を許すはずがない」
「だろうな。伯爵家と宮家では、天と地ほどの隔たりがある」
三雲は真顔に戻り、友を見据えた。
「けれど、お前の目はもう、決まっているんだろう? どれほど無謀でも、進む覚悟があるのか」
秀隆は答えず、窓の外の夜空を見上げた。
白い月が雲間から顔を出し、冷たい光を注いでいる。
その光に照らされた横顔は、揺るぎない決意に満ちていた。
「……あの方は、ただの殿下ではない。俺にとっては……」
言葉は途中で途切れたが、それ以上を語る必要はなかった。
三雲は深くため息をつき、苦笑を浮かべる。
「全く、お前ってやつは。愚かで真っ直ぐで……でも、それが羨ましい」




