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第2章

 学習院を出て神田の街を歩く三雲は、古本屋で新聞を見かけた。

 《藤蔭宮内親王、長らくご静養》

 短い記事を見つめ、彼は紙面を握りしめた。

 (まだ……続いているのか)

 心の奥で疼く悔恨は、年月を経ても癒えなかった。


 冬が訪れるたびに、月子の体は弱っていった。

 膳には手をつけず、芙美子が薬湯を差し出しても、一口飲むのがやっとだった。

 澄子妃は娘の髪を梳きながら、小さかった頃の思い出を語った。

「あなたが初めて歩いた日のことを、覚えているかしら」

 月子は微笑もうとしたが、その顔にはすぐ影が落ちた。


 三十歳を迎えた冬のある夜。

 月子は病床で力尽きる寸前だった。

「……秀隆……」

 その名を呼ぶと、幻のように彼が現れた。若き日の姿で、優しく微笑みながら。

「もう苦しまなくてよい」

「今度こそ……離れませんね?」

「離れない。永遠に」

 安らかな笑みを浮かべて月子は静かに瞳を閉じた。

 外では雪が庭を覆い、凍てついた枝から葉がひとひら舞い落ちた。


 葬儀を終えた夜。

 澄子妃は典仁親王に向かい、胸に積もった思いをぶつけた。


「殿下にとって月子は……ただ家のための駒でしかなかったのですね。」

「宮家を守るために生まれた以上、役目を果たすのが宿命だ」

「駒……! あの子は人でした! 泣き、笑い、愛しました! それを幻と切り捨てるなら、殿下こそ幻のようなお方です!」

「愛など幻だ。現実は“家”を守ることにある」

「ならば私は現実を捨てます。母としての誇りを選び、娘のために祈ります。殿下がどれほど否もうと!」


 典仁親王は最後まで「ならぬ」と言い募った。

 澄子妃は深く一礼し、涙に濡れた顔を上げることなく背を向けた。

 翌朝、彼女は髪を落とし仏門に入った。

 それは母としての誇りを選び、夫との決別を示す道であった。




 ――時は流れ、幾十年。

 大正も昭和も、平成さえも遠く過ぎ去り、世は令和となった。


 春の朝。駅へと続く並木道には桜の花びらが舞っていた。

 大和はコンビニの紙コーヒーを片手に歩きながら、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。

 ニュースアプリには政治、経済、国際情勢が矢継ぎ早に流れてくる。だがどの文字も心には響かない。


 人波に混じりながら駅のホームに立つ。スーツ姿の群衆の中に埋もれる感覚。いつもの一日が始まるはずだった。


 ――そのときだった。


 向かいのホームに、一人の女性の姿があった。

 小柄で華奢な体つき。艶やかな黒髪をハーフアップにまとめ、耳には小さなパールのイヤリング。

 白いジャケットにネイビーのワンピース。派手ではないが、春の光を浴びて立つその姿は、周囲の喧噪の中でひときわ清らかに見えた。


 大和は一瞬、呼吸を忘れた。

「……」


 その日は結局、電車に遮られて彼女の姿を見失った。人波に紛れ、二度と現れないかのように。


 数日後、同じ時間、同じホーム。

 胸の奥に残ったざわめきを拭えぬまま立っていた大和の視線の先に、再び彼女の姿があった。


 今度は、目が合った。


 刹那、大和の胸に幼い声が響いた。

 ――殿下、花が咲いたら、また一緒に見ましょう。


 それは、あどけない少年の声だった。澄み切ったその声は、時を越えて胸の奥を震わせた。

 大和の目尻が熱く滲む。初めて会うはずの女性なのに、どうしようもないほど懐かしい。


 電車が再び轟音を立てて入り込み、視界を断ち切った。彼女の姿は人の流れに消えた。


 駅を出ると、桜並木の下に春風が吹き抜けた。花びらがひらひらと舞い、大和の肩に落ちる。

 彼はそれを掌に受け止め、胸の奥で静かに答えた。


「……ああ。今度こそ、一緒に」


 遠い昔の声と今の心が重なり合い、彼の中に温かな光が灯った。

 舞い散る桜は、約束の続きが必ず訪れることを告げるように、空を覆っていた。

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