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【第1部】第1章

はじめまして、篠原雪乃と申します。

この作品『月下美人』は、大正時代を舞台にした和風幻想の悲恋物語です。


もともとは高校生の頃に発案し、未完のまま眠っていたお話でした。

年月を経てもう一度向き合い、ようやく最後まで書き上げることができました。


幼少期の小さな約束から始まり、やがて時を越えて令和(発案当初は平成)へとつながっていく物語です。

少しでも楽しんでいただければ幸いです。

 月の光が、藤蔭宮の庭に白く降りそそいでいた。

 十歳になったばかりの月子は、夏の夜のひそやかな宴に紛れ、そっと庭先へ足を運ぶ。

 女官たちが「今宵咲く」と囁いていた花を、自分の目で確かめたかったのだ。


 漆黒の鉢に立つその蕾は、まだ硬く閉じられていた。

 ――月下美人。

 一夜だけ咲き、すぐに散ると聞かされたその花は、幼い姫の心を強く惹きつけた。


「内親王殿下も、花見に?」

 背後からかかった声に、月子は振り返る。

 そこに立っていたのは、蓼科伯爵家の嫡男、秀隆であった。

 同じ年頃の少年で、母方の縁から宮邸を訪れていたのだ。


 月子は驚きに瞳を瞬かせ、やがて恥じらうように微笑む。

 その瞬間、夜の闇に白く浮かぶ蕾が、ふたりの運命を照らすように揺れていた。


「殿下、花が咲いたら、また一緒に見ましょう」

 子供らしいその約束は、やがて記憶の底に沈んでいった――。


 * * *


 八年の歳月が流れ、二人は十八歳になった。

 春の学習院。桜の花びらが風に舞う中、月子は邸を訪れていた。

 病を理由に欠席した父・典仁親王の代わりに、臨時の公式行事に出席するためである。


 白いドレスをまとい、静かに歩を進める月子の前に、一人の青年の姿があった。

 学習院の制服に身を包み、背筋を伸ばして立つその人影――蓼科秀隆。


 互いに一瞬言葉を失い、そして微笑を交わす。

 幼い日の記憶が、同じように胸の奥で息を吹き返していた。


 月子の耳に甦るのは、あの夜の声。

 ――花が咲いたら、また一緒に。



「……殿下」

 最初に口を開いたのは秀隆だった。

 声は少年のころよりも低く落ち着き、月子の胸に不思議な響きを残す。


「蓼科さま……お久しゅうございます」

 月子はわずかに頭を下げ、視線を逸らした。

 久方ぶりに交わした言葉は、あまりにも形式ばっていた。


 互いに何を言えばよいのか分からず、数瞬の沈黙が落ちる。

 その気まずさを破ったのは、後方から駆け寄ってきた一人の青年であった。


「おやおや、これはこれは。内親王殿下と伯爵家のご子息が、桜の下で立ち尽くすなんて。絵になるなあ」

 軽やかな声で割り込んできたのは、秀隆の学友、三雲英介であった。


 月子が少し驚いたように振り返ると、三雲はにこやかに礼をし、からかうように言葉を続ける。

「お二人はご旧知の間柄とか。学習院ではなかなか聞かない美談ですよ。……ねえ、秀隆?」


「英介」

 秀隆が低く名を呼ぶと、三雲は肩をすくめて笑った。

 その場に漂っていた重苦しい沈黙は、いつの間にかほぐれていた。


 月子はそっと袖口を握りしめながら、胸の奥で不思議な高鳴りを覚えていた。

 あの夜の約束は、とうに忘れ去られたもの――そう思っていたのに。

 けれど、彼と目が合った瞬間、月下美人の蕾が今にも開こうとする気配が甦る。


 行事が滞りなく終わり、参列者たちが次々と辞していった。

 春の風に桜の花びらが舞い散る中、秀隆はしばし中庭に佇んでいた。

 心はまだ先ほどの再会に囚われている。


「……殿下は、綺麗だったな」

 口をついて漏れた独り言を、すかさず拾った声があった。


「ほぉ、ついに吐いたな。やっと素直になったじゃないか」

 後ろからひょいと現れたのは、三雲英介であった。

 にやりと笑みを浮かべ、扇子で肩を叩く。


「な、何を聞いていた」

 秀隆が眉を寄せると、三雲はおどけて首を傾げた。

「全部さ。だって声が大きいんだもの。……いや、安心しろよ。俺は口が堅い」


 軽口を叩きながらも、その目は真剣だった。

「けどな、あんた。相手は宮家の内親王だ。軽々しく近づいていい相手じゃない。……それでも、行くのか?」


 桜の花びらが二人の間を舞い落ちる。

 秀隆はしばし沈黙し、やがて小さく頷いた。


「……あの方は、ただの殿下ではない。俺にとっては……」

 そこまで言いかけて、唇を噛み、言葉を飲み込む。


 三雲はため息をつき、そして苦笑した。

「まったく。お前は昔から真っ直ぐすぎる。……だが、そういうところが羨ましいよ」


 桜の木々の向こう、遠ざかってゆく月子の後ろ姿。

 秀隆の胸には、幼い夜に交わした約束がふたたび脈打ち始めていた。



 * * *


 学習院での務めを終え、馬車に揺られながら邸へ戻る道すがら、月子は窓外に流れる桜の花を見つめていた。

 頬にかかる風は柔らかいのに、胸の鼓動はまだ落ち着かない。


「……殿下、顔色が優れませんよ」

 隣に座る藤原芙美子が、心配そうに声をかけた。

 幼いころから母代わりとして仕えてきた乳母の瞳は、今も月子の心を見透かすようだった。


「疲れただけですわ、芙美子。……少し、胸が高鳴って」

 月子は言葉を濁し、唇に微笑を乗せる。


 芙美子は小さく首を振った。

「おいたわしや。殿下のお心の内を、あの方――殿下のお父上はお汲み取りくださらぬでしょうから」


 月子は返す言葉を失い、窓に視線を戻した。

 その胸の奥には、先ほど交わした視線がまだ熱を残していた。

 幼い日の夜、月下美人の蕾の下で交わした約束。

 それが、再び芽吹いてしまったのだ。



 邸に戻ると、澄子妃は几帳の内で香を焚きながら月子を待っていた。

 母の姿を目にした瞬間、張りつめていた心が緩み、月子は小さく礼をする。


「お疲れでしょう、月子」

 澄子妃は娘の手を取り、そっと膝に抱き寄せた。

 その手はいつもと変わらず温かかったが、月子はそこにかすかな震えを感じ取った。


「……母上」

「ええ、分かっております。今日、久しく蓼科の若君とお会いになったのでしょう?」


 月子は思わず顔を伏せた。

 母の穏やかな声色には、全てを見通す柔らかさがあった。


「私は、あなたがどなたを想おうと咎めはいたしません」

 澄子妃は微笑みを浮かべながらも、その瞳はどこか憂いを帯びていた。

「けれど……あなたのお父上は、家の威信を第一とする方。……その想いを貫くのは、あまりにも険しい道でございます」


 月子は唇を噛み、母の胸に顔を埋める。

「母上は……それでも反対してくださらないのですか」


 澄子妃は目を閉じ、娘の髪に手を添えた。

「私にその力があれば、と願わぬ日はございません。けれど私は……男子を産めなかった。

 その負い目のもとにいる限り、あなたの父には何も申せないのです」


 母の声が震え、衣の袖にひそかな涙が落ちる。

 月子はただ、母の温もりの中で胸の痛みに耐えるしかなかった。




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