空気が読めない友達
「秋の文芸展2025」参加作品です。
高校二年生になって初めてのクラス替え。私は期待と不安を胸に、新しい教室の扉を開けた。知っている顔はちらほらいるものの、親しい友達とは別々のクラスになってしまった。ひとりで席に座り、周りの賑やかな会話を聞きながら、少し孤独を感じていた。
その時、教室の後ろの方で大きな笑い声がした。振り向くと、背の高い男子が身振り手振りを交えて何かを話している。隣にいた女子生徒が小声で言った。
「あれ、中村くんだ。中学の時から有名な『空気読めない』やつだよ」
私は中村というその男子を初めて見た。彼は周囲の微妙な空気をまったく察することなく、自分の話したいことをまくし立てていた。何人かの生徒は呆れたように眉をひそめ、それを見て私は少し気の毒に思った。
それから数日が経った。ある放課後、図書室で課題をしていると、後ろから声をかけられた。
「おっ、物理のレポートか?それ、面白いテーマだね」
振り向くと、中村が立っていた。彼は許可もなく隣に座ると、私のレポートについて延々と語り始めた。最初は迷惑に思ったが、彼の話は確かに興味深く、深い知識に裏打ちされていた。私は感心して言った。
「君、結構物知りだね」
「もちろん!物理は僕のライフワークだから!」
すると彼は満面の笑みを浮かべて、大声で応えた。図書室内の他の生徒が一斉にこちらを見る。私は恥ずかしさで縮み上がった。
こうして、私は中村という「空気が読めない友達」を少しずつ知ることになった。
ある金曜日の午後、クラスメイト数人でカラオケに行くことになった。中村もなぜか一緒について来た。みんなで順番に歌っていると、中村の番が回ってきた。
彼はロックバンドの難しい曲を選び、熱唱し始めた。確かに歌は上手かったが、マイクの持ち方やパフォーマンスがどこか大げさで、場の空気に合っていなかった。一曲終わると、誰もが拍手したものの、その笑顔には少し困惑が滲んでいた。
中村はその反応に気づかず、興奮したまま叫んだ。
「もっともっと歌うよ!次はこの曲!」
彼はカラオケリモコンを握りしめ、次の曲を選び始めた。他の友達が小声で「そろそろ帰ろうか」と言い合っていたが、中村には聞こえていない。私は仕方なく、近づいてささやいた。
「中村、みんな疲れてるみたいだし、そろそろ終わりにしない?」
「え?まだ始まったばかりじゃん!」
すると彼は驚いた顔をして、大声で返した。場の空気が一層重くなった。
月日は流れ、私たちは高校三年生になった。進路について真剣に考え始める時期だ。中村は相変わらず空気が読めないところがあったが、彼のひたむきさと純粋さに、私は少しずつ惹かれていた。
文化祭の準備で、私たちのクラスは模擬店を出すことになった。話し合いの結果、屋台でたこ焼きを売ることになったが、誰もが面倒くさがって準備を後回しにしていた。
そんな中、中村だけがやる気に満ちていた。彼はクラス全員の前で宣言した。
「みんな、しっかり準備しないと文化祭成功しないぞ!」
何人かのクラスメイトは白けた目をしたが、中村は気にしない。
文化祭前日、私たちは遅くまで教室で準備をしていた。途中、何人かの生徒が「用事があるから」と早退し、最後には中村と私、それに数人だけが残された。私はぼやいた。
「あいつら、いつもそうだよな。楽しいことだけ参加して、面倒なことは他人任せ」
すると中村は珍しく静かな口調で言った。
「でも、文句言ってても始まらないだろ?やるしかない」
彼のその言葉に、私ははっとした。中村は空気が読めないのではなく、ただ正直に、そして前向きに生きているだけなのかもしれない。
私たちは夜中までかかって全ての準備を終えた。教室を出る時、中村が言った。
「今日は手伝ってくれてありがとう。君はいい友達だ」
その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
文化祭当日、私たちのたこ焼き屋台は大盛況だった。中村は威勢のいい声で客引きをし、てきぱきと注文を処理していた。彼のその姿を見て、クラスメイトたちの見る目も少しずつ変わっていった。
文化祭が終わり、クラスで最後の集会を開いた。担任の先生が言った。
「今回は皆さんよく頑張りました。特に中村君は準備から当日まで本当に尽力してくれました」
教室中から拍手が湧き起こった。中村は照れくさそうに頭をかきながら、叫んだ。
「みんなで協力したから成功したんだよ!」
その言葉に嘘はなかった。
その後、中村と二人で校庭を歩いていると、彼が突然言った。
「俺さ、空気読めないって言われること、ずっと自覚してたんだ」
私は驚いて彼を見た。彼は続けた。
「でもさ……空気を読みすぎて本音が言えないより、たとえ場違いでも思ったことを言う方がいいと思ったんだ。だって、人生短いしね」
彼の言葉に、私は考え込んだ。確かに中村は時に迷惑なこともある。しかし、彼の正直さと一貫性は、周りの「空気を読みすぎる」人々よりもずっと誠実に思えた。私は言った。
「中村は中村のままでいいよ。それが君らしいんだから」
「ありがとう!」
彼は満面の笑みを返した。
卒業が近づいたある日、中村と屋上で未来の話をしていた。中村が言った。
「俺、将来はエンジニアになりたいんだ。人づきあいが得意じゃないから、ものづくりに没頭できる仕事が向いてると思う」
「それはいいね。でも、中村は人づきあいが下手じゃないよ。ただ、普通の人とは違う方法でコミュニケーションを取っているだけだ」
彼は珍しく黙り込み、遠くを見つめた。彼が少し恥ずかしそうに言った。
「実はな……高校に入って初めて、君のようにありのままの俺を受け入れてくれる友達ができた。みんなに『空気読めない』って笑われるたび、ちょっとずつ傷ついてたんだ」
その告白に、私は胸が痛んだ。今まで中村がどれだけ傷ついていたか、考えたこともなかった。
「ごめん、気づかなくて」
「いや、謝ることないよ。むしろ、君のおかげで、自分を偽らないことの大切さに気づけたから」
中村は笑った。
卒業式の日、中村と別れる時が来た。彼は東京の大学に進学し、私は地元の大学に残る。中村が言った。
「じゃあな。ずっと友達でいような」
「もちろんさ」
私は答えた。彼は大きく手を振り、去っていった。その背中は、三年前に初めて会った時よりもずっと大きく、強く見えた。
中村という「空気が読めない友達」から、私は多くのことを学んだ。周りに合わせることばかりが正しいわけではないこと、時には自分の信念を貫くことも大切なこと、そして、本当の友情とはお互いの違いを受け入れ合うことだということを。
高校を去る時、私はふとあの日の中村の「人生短いしね」という言葉を思い出した。
確かに彼の言う通りだ。ならば、私たちはどれだけの本音を、どれだけの思いを、「空気」という名の枷によって封じ込めてきただろうか。
中村のような人間がもっと増えれば、世界はもっと正直で住みやすい場所になるかもしれない。そう思うと、彼の「空気が読めなさ」は、むしろ貴重な贈り物に思えてきた。
私は新しい人生の一歩を踏み出した。中村から学んだことを胸に、時には空気を読まず、自分の信念を貫く強さを持ちながら。




