0 プロローグ
「――ロゼッタ・アディノルフィ。君との婚約を破棄しなければならなくなった」
「……え?」
そらされた目と、口早に告げられた言葉にロゼッタはティースプーンを取り落としてしまった。
美しく整えられた自慢の庭園がよく見える静かな応接間。大きくとられた窓から差し込む光が、婚約者であるカミルの後ろめたそうな顔を照らしていた。
ロゼッタは何を言われたのか最初理解できなかった。
この国の王太子であるカミル・エストレイアとアディノルフィ侯爵家の長女であるロゼッタ・アディノルフィの婚約は、彼女が産まれた時から決まっていたことだった。国王と彼女の父であるアディノルフィ卿が旧知の仲だったこと。そして遡れば王族にも繋がるアディノルフィ家の高貴な血筋、カミルとの年齢差など考慮され、婚約者にちょうど良かったのがロゼッタだったのだ。それからずっと、ロゼッタはいつか国母になるものとを思って厳しい妃教育を受けて過ごしてきた。
ロゼッタは17になり、カミルも来年は20になり成人する。
それを機に結婚することが数か月前には国の議会で決定したばかりだった。
「い、いったい何をおっしゃっているんですの? カミル殿下」
「本当にすまない、ロゼッタ。……もう父も、アディノルフィ卿も了承していることなんだ」
「は……」
「聖女が見つかったんだ」
聖女。
それはこの国にもたらされる災厄を倒すために必要な聖剣を召喚できる聖なる力を宿した運命の乙女。
エストレイア王国に住む者ならば誰でも知っているおとぎ話だと思っていた。ロゼッタも幼い頃乳母に寝物語として聞かされていた。その聖女はこの国の王となる者と結婚し、彼に聖なる剣を与えるのだと。
今ではすっかりおとぎ話になってしまった聖女の物語だが、歴史を遡れば何人か実在するのだ。その時々で災害や戦争から国を救ってきた。
――そのため、エストレイア王国では聖女が現れると必ず王子と婚姻するというバカみたいな法律があった。
聖女が現れるのは国が窮地の時なので、非常時ということでそれまでに婚約者がいても問答無用で破棄できる、という非情なおまけつきで。
「ローレンツ帝国との国境がまたきな臭いことになっている。いずれまた戦争になるかもしれない。わかってくれ、ロゼッタ」
「そ、そんな……。わたくしはなんのために今まで……」
ショックのあまりロゼッタはふらりと立ち上がった。
幼い頃から妃となるため厳しい教育を受けてきた。朝から晩まで勉強漬けの毎日を送り、他の令嬢達に舐められないようにと気位も高く保ってきた。弱音なんてひとつも吐いたことがなかった。
それなのに、ただ聖女が現れた。それだけですべてが無駄になってしまった。
カミルが心配そうに手を伸ばしてくる。
「ロゼッタ」
「触らないで!」
ぱしん、と乾いた音が室内に響いた。
はっとロゼッタは我に返る。カミルの手を払ってしまったのだ。王太子殿下相手になんという不敬。目を見張っているカミルを前にロゼッタは何度か深呼吸して頭を下げた。
「……申し訳、ございません。本日は体調が整わないため失礼させていただきます」
「ろ、ロゼッタ……!」
婚約破棄されてしまったというのに、それでも見苦しい振る舞いをしてはいけないと理性が言う。カミルの声を背後で聞きながらロゼッタは足早に客間を後にしたのだった。
『ねえ、見てロゼッタ様よ』
『あれがカミル様の婚約者の……。この前子爵令嬢を泣かせたという噂は本当?』
『あの方、近寄りがたいのよね。いつもお高くとまっていらっしゃるし』
『ああら、ほんとうに立場がお高いのだから仕方ありませんわ』
好奇の視線と共にクスクスと聞こえる貴族達の笑い声。
だからなんだ、と今まではまったく気にしてこなかった。そんなものはロゼッタにとっては些末なことだったからだ。生まれた時から王太子の婚約者であるロゼッタには、王太子妃となるため毎日やらなければならないことがたくさんあった。
妬みだかひがみだか好奇心だか知らないが、つまらない者達に構っている時間はないのである。
ただし、カミルの婚約者として、アディノルフィ侯爵家としてなめられるわけにはいかない。
だからロゼッタはいつだって胸を張って堂々とふるまってきた。そのうち胸を張りすぎてなんだか居丈高になっていることに気づいたのは、最近になってからだったけれど。
でもそれでもかまわないと思っていた。なぜならロゼッタは将来カミルと、王太子と結婚するのだから。エストレイア王国で一番の女性になるのだと、まあまあ調子に乗っていた。
――そして気づけば、ロゼッタには本音も弱音も打ち明けられる相手がいなくなっていた。
「ろ、ロゼッタ様、大丈夫ですか。お顔の色が……」
「少し一人にしてちょうだい」
客間を出たところで控えていた侍女が心配そうについてくる。けれど今は彼女に対応する余裕がない。
少々行儀は悪いがロゼッタは二階への階段を駆け上がった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
聖女が現れたというだけで、十数年の婚約関係をあっさり破棄してしまえるほど、自分はカミルにとって軽い存在だったのだろうか。確かにわがままもたくさん言ったし、一部には気の強さからカミルを尻に敷いているなんて言われていた。
国の法律で決まっているのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、あまりにも残酷だ。
きっとこれから自分はカミルに捨てられたみじめな女として笑いものになるのだ。この国で二人の婚約を知らない者などいない。ロゼッタは絶望した。もう一生屋敷から出られないかもしれない。
「どうし……えっ?」
「ロゼッタお嬢様!?」
いつもはゆっくり上がる階段で急いでしまったのが良くなかったのだろう。長いドレスの裾を足で踏んでしまいロゼッタはバランスを崩した。そのまま視界がぐるりと回転し天井が見える。
――最後に聞こえたのは侍女の緊迫した声だった。
*****
『いらっしゃいませ。本日のおすすめはこちらのくるみのパンケーキです』
……ふわりと鼻をかすめる甘匂い。
白い皿に乗った雲のようなパンケーキ。
そこはロゼッタの知っている世界ではなかった。
一人の少女が楽しそうにウェイトレスをしていた。
(これは……わたくし? わたくしは……)
『〇〇ー。これ運んで』
『はあい、お母さん』
そこにいるのは黒髪の平凡な少女だった。
彼女の両親が喫茶店を経営しているのだ。
そのときカウンターの隅に置いてある小さな四角い箱がピコピコと鳴った。
『なにそれ?』
『友達に勧められて昨日から始めたゲームなんだ。『星と海の輝き』って乙女ゲームなの。今日から新しいイベントが始まるんだー』
(これは……!)
その小さな画面には見覚えのある人物が移っていた。カミルもロゼッタもいる。
意地悪そうな眼つきをした金髪碧眼の美少女が平凡そうな少女を睨んでいる。
『ゲームもいいけど、それより先にそっちの配達の分をお願いね』
『はーい、お母さん』
喫茶店では珍しく配達もやっていた。
カウンターに置かれた紙袋を持って出かける少女の姿を見てロゼッタはすべてを思い出した。
(あの子は前世のわたくしだわ)
*****
「ロゼッタ! よかった、目が覚めたのね」
「お……母様……」
気がつくと、目の前には豪奢な金髪巻き毛のロゼッタの母が心配そうにロゼッタを覗き込んでいた。
見慣れた天井に、今いる場所が自分の部屋だと理解しゆっくりと周囲を見回す。少し離れたところでは侍女も心配そうに見守っていた。
「階段から落ちたのよ。なかなか意識が戻らないから心配したのよ。お医者様は大丈夫だと言ってくださったけれど……」
「……カミル様は」
「先ほどまでいらしたけど用事があるとお帰りになったわ。後日お見舞いに伺うとおっしゃっていたけれど……」
カミルの名前を出すとあからさまに気まずそうにロゼッタの母は目をそらした。
とはいえ今のロゼッタは内心カミルどころではない。
なぜなら、前世の記憶を思い出したからだ。
(わたくしは……いえ、前世の『私』はあの後配達途中に事故にあって……)
そしてこの世界のロゼッタ・アディノルフィとして転生した。
このゲーム『星と海の輝き』に登場する悪役令嬢として――。
「ロゼッタ?」
「お母さまごめんなさい。まだ気分がすぐれませんので少し休みますわ」
「そう……。何かあったらすぐに使用人に声をかけるのよ。ゆっくりおやすみなさい」
母はまだ心配そうだったが、使用人たちと共に部屋を出て行ってくれた。
扉が閉まるのを見届けてからそっとロゼッタはベッドから降りた。
そのまま壁際にある豪奢な姿見の前に立つ。
鮮やかな長い金髪に海を思わせる紺碧の瞳。長いまつげに小ぶりな唇。色白の陶器のような肌にすらりと伸びた手足。そこにいたのは間違いなく、前世のゲームでは悪役令嬢だったロゼッタだ。
ロゼッタはゲームの中でヒロインを敵視し、ことあるごとに邪魔をした。それはヒロインが現れたことでカミルとの婚約が破棄になったのを恨んでのことだった。そしてあげくには敵国の魔王と通じ、ヒロインを亡き者にしようとする。しかしそれはカミル達ヒロインの味方に邪魔され、ロゼッタは反逆罪で処刑されてしまうのだ。
「さ、最悪ですわ……」
ゲームのシナリオを思い出すと、あまりのことに眩暈を起こして倒れそうになりベッドに腰かける。
さんざん努力した挙句に捨てられて、復讐しようとしたら反逆罪で処刑。
これから先の自分の未来にロゼッタは二度目のを絶望した。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったらブクマや下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。