限りなくゼロに近づく第1象限の極限、もしくは座標軸上のロンド
バオバブのツリーハウスは、夜であっても世界を見下ろしている。
ベッコウは、ツリーハウスのテラスに寝転んで夜空を見ていた。眼鏡はかけてない。
「何が見える?」
ダンベルスクワットをしながら、コーラルが聞いた。
「星の瞬きは、空気の揺らぎのせいだけじゃないこと。この世は本当に複素空間で、虚数はしっかり実在していること。ワタシの見ている星々の輝きは、実はイカサマで…。でも、星から見たらワタシのほうが、真っ赤な嘘なこと。赤方偏移を向こう側から覗いた者がいないこと。夜が真っ暗だというのは、どう考えても理屈に合わないこと」
「そんな些末なことはいいよ」コーラルはにべも無い「本当のユータは見えないのか?」
「あのユータが偽者だっていうの?」
「いや、本物だろう」
コーラルはダンベルを置いて近寄ると、覆い被さるようにベッコウの瞳を覗いた。
「オレのシンタグマメソドロジーを粉々にした。…連れ出してくれるだけだと思ってたんだ。まさか、ぶち壊すだなんて、想像できなかった」
「ユータにできないことは無いんだって」ベッコウは声を上げて笑った「シノノメが言ってた。あの子が言うんだから間違いはない。ねぇ、コーラル」
ベッコウが挑むように言う。
「ユータがもういるのに…、ワタシたちまで居る理由は何?」
「オレたちを欲しいと思ったヤツと、オレたちを造った人で理由が違う」
「どういうこと?」
「完全遺伝情報再構成のデザイナーズチルドレンが必要だったのは誰だ?」
「ベルンシュタイン教授?」
「教授は欲しがってたけど、必要だとは思ってなかったんじゃないかな。最初の翻訳者だし、執着は凄いけど、まあ当然と言えば当然、二枚も三枚も噛んでたのは確実だろうけど」
「じゃあ、誰よ?」
「知らない誰か」
「何それ?」
「知らない誰かだよ」
コーラルは笑って、ダンベルを持ち直すと、ワンハンドローリングを始めた。
「まあ、個々人は、やったほうが良いかな、ていう程度の事案だけど、自分がやるんなら面倒で嫌だな、て話で、でも成果は欲しい。誰かが進めてくれるんなら、がんばってもらって最後に良いとこ取りしたい…、と。具体的には、各国の特務機関とか、あとアレシボ茶会とかも…」
「ああ、そうだね。そんな感じかも、でも…」
ベッコウが飛び起きた。彼女は軽いので、ツリーハウスはたいして揺れない。
「そんな連中に、ワタシたちは造れない」
「そりゃ、そうだよ」コーラルがダンベルの持ち手をかえる「オレたちを造ったのは、ユータの父ちゃんだし」
「え?」
「だって、他にいないじゃないか。フルスクラッチのデザイナーズチルドレンはもちろん、シンタグマメソドロジーとその封鎖空間、それを維持する装置と莫大なエネルギーだ。その頃、ユータは母ちゃんの腹の中にいたんだから、そんなことできるのは、ユータの父ちゃんしかいない」
「ますます、わからない」ベッコウが叫んだ「ユータがいるんだよ。あのユータがいるのに、ワタシたちが必要な理由なんかないじゃない」
「当事者間の知能に大きな隔たりがある場合には、会話が成立しない」
え? という顔で、ベッコウはコーラルを見つめる。ダンベルを置いたコーラルは、ベッコウの傍らに座った。
「ユータの父ちゃんにはさ、ユータの母ちゃんがいるじゃん。あと、インチワーニ・ガルベストンとリーリオエンダ・エクストライダー。インチとリリオン。それからシルベ先生もそうなのかな。数は少ないけど、いちおう話ができそうな人はいるんだ。でも、生まれる前のユータにはいないじゃん。まあ、生まれる前に友だちなんているわけないけど…。可能性としても、ほぼゼロだ」
「シノノメは?」
「あの子もよくわからん。確かに頭は悪くないけど、そもそもが人間離れしてる」
「アナタがそれ言う?」
「いいんだよ。細かいことに拘ってると本質を見失う」
言ってるのがコーラルでなければ、納得してあげても良い話だ。
「自然に任せたら、ユータに友だちができないんじゃないか、って心配したんじゃないかな。3人ってのも少ない気がするけど」
「友だちかあ」ベッコウは何か一気に抜けて、ふにゃん、となった「ワタシ、最初はさあ、ユータのお嫁さんになるんだと思ってたんだけど…」
「オマエ、喧嘩売ってんのか?」
コーラルのいきなりの剣幕に、むしろベッコウが驚いた「どうしたの?」
「オマエはまだいい」コーラルは膝を抱えて体を前後に激しく揺すっている。コーラルが怒っていることを知らなければ、何かのトレーニングだと思うだろう。
「オマエは…、ベッコウは、まだ女で通るじゃないか。オレなんか、見ろ、こうだぞ」
コーラルは右手を曲げて力を入れた。ちからコブができた。
「オレの遺伝子セットは、筋肉増強用にホルモンバランスを崩して、テストステロンリッチになってる。胸だってペタンコだ。脂肪は考えないからな」
「…ユータは、そんなこと気にしないと思うけど」
「そうだよ、ユータは気にしない。気にしてるのはオレだ。こんなんじゃあ、生殖機能だってあやしいし…」
「どのみち、シノノメがいるんじゃ、ワタシだって、そういうの無理じゃない?」
「当たり前だ。日本中枢の依代100代分の叡智が張り付いてるみたいな女、あんなのと男の取り合いして勝てるわけないだろ」
「そこまで言う?」
「シンタグマメソドロジー内では、符号化シーケンスに対応してリアクションがある。思考速度が7-10倍なら、10年いれば精神年齢で70〜100歳相当だ。その程度じゃ、2000年を超える伝統様式には対抗できない」
「あのさあ」ベッコウは呆れ顔で諭す「そんなこと人前では言わないでよね。ワタシの中身が80歳のババアだとか」
「え? だって、みんな知ってるだろ?」
「そりゃ、知ってるだろうけどさ」ベッコウはため息をついた。コーラルの頭がいいのはわかるし、精神年齢が100歳相当っていうのも、まあまあ頷ける話だ。でも実空間では、ワタシの方が1週間は経験が多いのだ。
「見た目と中身だったら、世間の評判は見た目のほうに引っ張られるの。せっかく10歳の少女の格好してるのに、わざわざ自分でバラすなんてこと、する必要ある?」
「そ、そうかな?」
「そうなの」ベッコウは言い切った「そもそも、アナタにとってのいちばんの問題はシノノメじゃないでしょうに」
「うん、まあ、そう」
コーラルはしぶしぶ同意した。
「ワタシだって、びっくりしたもの。ユータが、あんなに頭良いなんて思わなかった」
「そう、それ。ノーマリィオン、とか反則だよな」
「不公平すぎるんだよ。この宇宙は」
中天にかかる月。その月をベッコウが見上げる。
「見えるのか?」
「見える」コーラルの問いに、ベッコウが答えた「不可視シールドなんてワタシには関係ない」
「アイボリー」コーラルが言う。
「そして、ヒスパニオラ」ベッコウにはヒスパニオラが見えていた「ヒスパニオラは『宝島』の帆船の名。でも、あのヒスパニオラの行先は…」
第1象限完結です。
宇宙大回転マッハシステムーー第2象限、は5/6頃連載開始の予定です。引き続きお楽しみいただければ幸いです。




