お父さん救出大作戦その1、もしくはユータがベルンシュタイン教授を軽くあしらうこと
朝と言うにはかなり早い、まだ日の光も差し込まぬ開闇の出来事。
浅めにまどろむユータはふと違和感を覚え、ベッドの中から抜け出すと窓の方へと忍び寄った。
細めに開いている窓の左端、お父さん、お母さんに言われて、最近就寝前に開けているのだが、理由をたずねてもはぐらかされている。その窓と窓枠の隙間から下に視線を向けると適当に丸められた紙クズがあった。
部屋の照明をつけたユータは、紙クズを拾うと自分の机に持っていき、丁寧にしわを伸ばしながら広げた。部屋の外から投げ入れたのかな、重りとして入れられていた小石を取り除くと、机に押しつけてさらに平らにした。
お父さんピーンチ
さらわれちゃったよ
ユータたすけて
はあ、とユータはため息をついた。
書き方はともかく、内容は前々から言われていたので、嘘ってことはないだろう。
――嘘でもべつにかまわないけど
スキャンしてシワの形まで複製して、あとでお父さんをイジるのに使ってやろうかとも思ったけど。そんなことしても倍でイジり返されそうだし、やるだけ無駄な気がする。
横からいきなり、顔がにゅっ、と出てきた。犬の顔だ。
「ユータ、たいへんだぞ、パパさんがさらわれた。ユータどうする? どうする?」
机の上で騒ぎ立てるパピヨン種のトッペン、ユータのバディであるこの犬は発声器官の改造手術を受けているので普通にしゃべる。
「行くのか、ユータ? ユータ? 行くのか? オレは行くぜ。行くんだユータ。行くぞオレは、ユータ行くんだ。パパさんが大変だ。行こうユータ。行こう。行こう」
発声器官だけではなく、デザイナーズチルドレンと同等の遺伝子操作も受けているのだから、知能が低いということはない。だから、やたら煩く吠え立てて短気なのはトッペンの性格だ。
「ああ、わかった。わかった」ユータはトッペンの頭に手を置いてやさしく撫ぜた「ちゃんと行くよ、お父さんを助けに。準備するから少し待ってて」
トッペンに急かされたからではない。ちゃんと助けに行こうと思っていたのだ。あらかじめ約束もしてたし、なにより、お父さんなんだから、放っておいて良いわけがない。
ユータはパジャマを脱ぐとクローゼットを開けた。ダークネイビーのラバースーツを選び出し、ハンガーから外す。
これにしておこう、最初からあんまり派手でも何だし、そんなことを考えながらツナギのスーツの袖に右腕を通した。ラバースーツを身につけたユータは、姿見の前でクルリと回って衣装を確かめる。
ライフツールジャケットを羽織ってベルトのバックルを締める。ヘッドギアを装着してブーツに手を伸ばした瞬間、室内であることを思いだして躊躇したが、まあ新品だし、と思い直してそのまま履いた。
「おお、すごいぞ。ユータ、かっこいい。行くぞユータ。ユータ、行く前にママさんに挨拶」
それもそうだな、とユータはトッペンを従えて廊下に出てお母さんの部屋に向かおうとした。
「わあ」
後ろから抱きしめられて、ユータは一瞬戸惑うのだが、お母さんはそんなことにはお構いなし、凄い勢いで話し出した。
「ユータ行くのね。お父さん大変なの。助けて、お父さんを助けて、ユータ行くのね。お父さんを助けに。行ってユータ。お父さんよ。お父さんを助けて」
トッペンとあまり変わらない。
「サンドイッチよ。よく噛んで食べるの。ミルクも飲んで。ココアだと眠くなると困るからね。おにぎりも食べる?」
このへんは少し違う。さすがお母さん。
ミルクを飲み干してコップをお母さんに返すと、ユータは玄関に向かおうとした…
…が、
ユータは自分の足下を見つめる。よく考えたらめったにあることじゃないし、もうブーツも履いてる。
ユータは自室にとって返し、窓を大きく開け放った。窓枠に脚をかけ、そのまま外に飛び出す。
「よし行くぞ、ユータ行くぞ、オレも行くぞ」
トッペンを従え、庭の芝生をかけていくユータの背中にお母さんがエールを送る。
「ユータ頑張ってねー。お弁当は邪魔になるからあとで届けるねー。ハンバーガーだよー、チーズハンバーガーだよー」
チーズハンバーガー、ユータはちょっと嬉しくなったけれど、振り返らずそのまま前に向かって走った。
浅靄のなか、ユータは走った。訓練はしているから息が切れるということはない。このまま走り続けてもどうということはないが、気になるものは気になる。ユータは併走するトッペンに訊ねた。
「どう思う?」
「どうって言ってもなあ」
ユータは犬がため息をつくのを見たことはないし、トッペンだってため息なんかつくわけはないのだが、なんとなくそんな風には見えた。
「あのジジイ嫌いなんだよな。いつもヘンな匂いするし」
トッペンに施された処置は彼の知能を著しく向上させたが、犬としての機能は損なっていない。どのくらいヘンな匂いなのかは見当もつかない。
「ボクもあまり好きじゃないな」ユータは同意した「予定してた亜空間接続点まではまだあるから、金魚のフンみたいについてこられるのは嫌だなあ」
「蹴散らしてやろうか」トッペンが走りながら唸る。
「いいよ、おかしな言いがかりつけられても困るし」ユータは不意に脚を止めた「ボクの方で相手するよ」
かすかに鳴るその音はバイクのエンジン音のように聞こえた。次第に音が近づくとバイクではないことはすぐに分かる。それは空の方から聞こえてくるのだ。
真っ赤な機体のオートジャイロが土埃を周囲にまきちらして、ユータの目の前に降り立った。オートジャイロから降りもせずに老人が話しかける。
「やあユータ、ずいぶん早起きだな。朝の散歩なんて爺の特権かと思ってたが、どこ行くんだ」
「7キロ先のコンビニまで工作用のセロハンテープを買いに」
「何でまたそんなものを」
「学校で使うんだよ」
「学校で使うモノは学校で用意してもらえ」
「使いすぎたから、自分で家から持って来いって先生に言われた」
「使いすぎたって?」
「500カートンほどね」
「あきれたな」老人はニヤニヤしながらオートジャイロから降り、ユータの傍らに近づいてきた笑っているように見えるが、虹色に輝くサングラスのせいで本当のところはわからない「いったい何に使ったんだ?」
「グラフェンの精製だよ」
「何だって?」
「グラフェンの精製」ユータは大声で繰り返した「グラファイト単層膜の精製に使ったんだ」
ベルンシュタイン教授と会話しながらも、ユータはベルンシュタイン教授ではなく別のものを見ていた。ユータが見ていたもの、それはヘッドギア前面を覆うバイザーに浮かぶ何色もの光点とその軌跡、そして点に被って表示される亜空間座標群だ。
「最近の小学校はそんなことやってるのか」サングラスの上に両手をかざして教授が嘆いた。何もかもわざとらしい。
「最近の小学校のことは知らない。ボクの学校の話」
ユータは何の前触れもなく、横っ飛びに灌木の茂みに飛び込んだ。教授が手をどけてユータがいましがたまでいた位置にのんびり視線を戻す。
「ん? ああ?」
教授が視線を周囲に泳がす。ユータが飛び込んだ茂みに浮かぶ微かな残光に目を止めた。
ああ、と、慌てて近づいた教授は右手の腕時計に模したスキャナーをかざす。
「なんてこった」教授は映画の悪役さながら地団駄を踏んだ「ずいぶん手前で止まったものだから、何だと思って近づいてみれば、こんなところにも亜空間走路があったのか…」
教授は腹立ち紛れにオートジャイロを蹴飛ばす。
「いや、何を言ってるんだレオンハルト・ベルンシュタイン」教授は自分で自分の名を呼びつつ嘆息した「パレアナの子だぞ、亜空間走路に精通していない訳があるか。そうでなくてもセドリックの息子なのに。耄碌したなレオンハルト・ベルンシュタイン、いや、もともと呆けがひどかっただけか…」
次回投稿は01/02 18:00の予定です。