⭐白き獣
「とりあえず、私は情報収集してくるよ。小猫は宿屋に戻っていてくれ」
体重を感じさせない様子で櫓から飛び降りていく。瞬間、華 閻李の眼前を彼の長い黒髪が横切った。
「宿屋!? え!? 僕、どこにあるか知らないんだけど!?」
櫓の中から全 思風を見下ろし、困惑した声で質問する。すると彼は「ああ」と、頭を掻いた。
「仕立て屋さんがあっただろう? あの通りに[旅宿庵]ってところがあるんだ。緑色の看板だからすぐにわかるよ。そこで待ってておくれ!」
腰にかけてある剣を手にし、地面に突き立てる。するとそこから灰色の煙が現れ、蝙蝠の姿に変わっていった。
蝙蝠をむんずと掴み、華 閻李のいる櫓へと投げる。
「わわ、躑躅ちゃんを投げないでよ! って、ちょっと思!」
華 閻李の説教もむなしく、全 思風は既にこの場から姿を消していた。
彼の行動力に感心し、華 閻李は櫓から降りていく。頭の上に蝙蝠の躑躅を乗せ、言われた通りの場所へと歩んだ。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆
仕立て屋がある周桑区へ到着した華 閻李は、緑色の看板の家を探す。しばらくすると頭上にいる躑躅が、ペチペチと羽で叩いてきた。『キュイ』と、かわいらしい鳴き声と一緒に、とある家へと羽を向ける。
「あ、あった! ここが旅宿庵だね。確かに緑色の看板だ」
小麦色の外装と、朱の屋根。そして旅宿庵と書かれた緑色の看板が目をひいた。
福という文字を逆さまに飾った赤い布があるが、この禿という國では珍しくはない。この店以外にも至る建物で使われいるのを目にし、華 閻李は中へと入っていった。
飲食店もかねているようで、中は人でごった返している。注文を受けて走り回る給女、あれやこれと頼み続ける客など。誰が何を喋っているのか。それすら聞き取れぬほどに騒がしかった。
天井からは、赤い提灯がいくつもぶら下がっている。壁には黄色い看板がいくつも張りつけてあり、それらのひとつひとつは献立表となっていた。
青椒肉絲の、野菜や肉の匂い。カニ玉の玉子のふわふわ具合、中華そばをすする音など。どれもが華 閻李のお腹の虫を直撃していった。
頭の上を陣取る躑躅はヨダレを垂らし、キュウキュウと物欲しそうに鳴く。
「ごめんね、躑躅ちゃん。僕はお金持ってないんだ」
申し訳なさそうに躑躅を抱きしめた。そして人混みを何とか切り抜け、奥にある勘定場へと向かう。
「……あ、あのぉ」
おずおずと、おっかなびっくりに店員へと話しかけた。
「えっと、人と待ち合わせしていて……ここで待ってるように言われたんですけど」
これで伝わるのか。不安を抱えながら、躑躅とともに上目遣いで問うた。
「ああ、はい。お名前をお伺いしてもよろ……し……い……」
店員は一人と一匹を見るなり、言葉を失ったかのように硬直する。顔や耳まで赤くなり、「目の保養、ありがとうございます!」と、華 閻李を拝んでしまった。そしてすぐに咳払いをし、名簿帳を開く。
「……こほんっ! 失礼しました。お名前を伺っても?」
「あ、はい。華 閻李です」
店員がパラパラと帳面をめくっていく。数秒後、ああとだけ口にした。帳面を閉じて笑顔になる。
「全 思風様のお連れ様ですね。失礼致しました。料金の銀銭は既に頂いておりますので、お部屋へご案内いたしますね」
どうぞこちらへと、飲食の場所とは違うところへと案内された。店の奥をさらに進むと、二階への階段が見える。それを登り、左角にある部屋に到着した。
部屋の隅には二台の床がある。入り口近くには茶杯置き場の丸い飾り台、黒檀という、木目がない椅子など。必要最低限の家具が揃った部屋となっていた。
「ここが、お二人様のお部屋になっております。部屋の中の物はご自由にお使いくださって結構ですので。あ、それから……」
お連れ様より言伝てがあります。淡々とした口調で述べていった。
「床の上に、仕立てておいた着替えがあるそうです。それにお着替えください、との事です」
それではと、一通りの説明を終えた定員は持ち場へと戻っていく。
部屋の中に残された華 閻李は、床に近づいた。そこには真新しい木箱が置かれており、【小猫へ】と一筆書かれた紙が乗せてある。
──もう服、できたんだ。早いなあ。
仕事が早いことへの感心を高めつつ、木箱の蓋を開けた。
蓋の中には、下着から上下の上着までもが揃っている。白の下着と中地、その上に着る黒の漢服があった。そして寒い冬を乗り越えるために必要な外套がついている。この外套は他のものとは違い、朱色に金線の刺繍が入っていた。
「……た、高そうだけど。本当にこれ、もらってもいいのかな?」
布の色や見た目もそうだが、手触りが滑らかで優しい。相当高価な布地なのではなかろうか。
華 閻李は遠慮しがちに、袖に手を通していった。
「うわっ! ぴったりだ……」
中にある白の下着と、高級な黒の漢服。それだけでも華 閻李にとっては贅沢な品に感じた。
「えっと……最後は、この外套に腕を通し……ん?」
早く着替えを済ませよう。そう考えた時、外が急に騒がしくなった。
何事かと思い、朱の外套を床へと置く。
窓へと手を伸ばせば、ギイィという音とともに開いた。
部屋からのぞく外は小さな浜辺である。海などの浜辺ではなく、あくまでも街の中にあって人工的に作られたもののよう。お世辞にも大きいとは言えない浜辺だった。けれど潮風が涼しく、新しい服に興奮しつつある華 閻李の心を落ち着かせていく。
「──おい、いたか!?」
「いいや、いない! いったい、どこに行きやがったんだ!?」
そんな安らかな一時をぶち壊すかのように、野太い男たちの声が浜辺に広がった。
華 閻李は無粋だなあと、頬杖をつく。ふと、男たちの声に混じり、かすかだが小さな鳴き声が耳に届いた。周囲を見渡すが、鳴き声の主の姿はない。躑躅がそうなのかもと思ったが、蝙蝠はいつの間にか気持ちよさそうに寝入っていた。
「……気のせい、なのかな? でも何か……あっ!」
その時である。野太い声の男たちが遠退いていくのと同時に、浜辺に白い獣が現れた。
獣はのそのそと、力なく歩いている。しかし……華 閻李が「あっ!」と声をあげたのもつかの間、白い獣はその場に倒れてしまった。
「……っ!」
いてもたってもいられなかった華 閻李は窓から飛び降りる。砂のおかげで衝撃は少ないものの、多少足にきた。けれど獣のことが心配でしかたなかった華 閻李は、それを我慢して駆け寄る。
「大丈夫!?」
抱き起こした獣は、ふわふわな毛並みをしていた。モフッとした毛は、等間隔に横縞模様の黒い部分がある。長く、ふさふさな尻尾は力なく垂れていた。
その見た目はまるで仔猫のよう。けれど耳が丸いという、少し変わった動物であった。




