華の舞、そして夔山(ぎざん)へ
夔山へ向かう。
たったそれだけのことなのに、全 思風は全身が鉛のように重たく感じた。
──あそこへ戻るということは、全てを伝えなくてはならないということだ。私の過去はもちろん、小猫の両親についても、だ。
夔山に行けば、今を流れる刻の秘密は暴かれよう。けれど胸にしまい続けている過去も、同時に伝えねばならない。
そうなってしまったら、大切な子の心が壊れてしまわないだろうか。
何よりも、それが一番心配でならなかった。
すると子供が不安そうに眉をしかめる。彼の逞しい腕に触れ、大丈夫かと尋ねた。
「え? ……あ、ああ、うん。大丈夫だよ」
子供の頭を撫で、笑みを落とす。瞬間、ふっと目を細めた。美しい顔に哀しみにも似た微笑みを浮かべる。
「小猫、夔山へ行かないかい?」
「夔山?」
少年の煌めく銀の髪が緩やかに流れた。大きな瞳をまん丸にさせ、きょとんとしながら小首を傾げる。
「……うん、夔山だよ。あそこに行けば、全てがわかるはずだよ。あそこは時代の始まりの地にして、悲劇の始まりの場所でもあるんだ」
音もなく腰を上げた。肩にかかる長い三つ編みを振り払い、黒い焔の先を凝視する。そこには未だに倒れていない殭屍、亡霊がいた。
彼らは全 思風が造りし結界を破らんと、必死に爪や牙などで攻撃をしている。けれど彼の強い護りの力はびくともしなかった。
「小猫の言っていた事を踏まえて、私たちは一度全ての情報を共有する必要がある。ただそのためには、夔山は避けて通る事が不可能なんだ」
いつものように自信に満ちた声ではない。むしろ否定的なまでに弱々しく、何かに怯えている。そんな声だった。
本人もそれがわかっているので、申し訳なさそうに苦く笑むしかない。
すると子供が立ち上がり、一歩だけ彼の前へ出た。
「……誰だって、話したくない事はあるよ。だけどね思」
両手を胸の上で交差させる。長いまつ毛を震わせることなく、ゆっくりと瞳を閉じていった。深呼吸をし、交差させていた腕をほどく。
背中の美しく靡く銀の髪が、翼のように広がっていった。まるで異国情緒の中に潜む、きれいな天使のよう。科を作りはしていないが、それでも妖艶な儚さが押しよせる。
美しいという言葉では足りぬ何かが、子供を塗り替えていった。
「──それでいいじゃない」
見目麗しい少年は、彼に背を向けて囁く。
「哀しみも、悲劇だって、誰もが経験する事だよ。それを克服しろ! なんて、無理じゃないかな?」
両手を器の形にして前方にだした。瞬刻、子供の両手には溢れんばかりの白い花が具現化する。それは鈴のような形をした鈴蘭という花だ。
リン……
リン……
花というのを忘れてしまうかのように、美しい鈴の音が響き渡る。
子供はそれすらも当たり前のように微笑み、両手を空へと掲げた。転瞬、一本の鈴蘭からまた一本と、増えていく。それらは殭屍と亡霊を囲うように、大きな輪を作った。
子供が両手を下ろせば、それは淡い蜂蜜色の光を発光させる。ときおり深支子という、柔らかい橙色を混ぜながら、姿を空気へと溶けさせていった。
「──みんな待ってるよ。帰ろう」
美しく微笑む。すると鈴蘭に変化が現れた。静かな鈴の音から一転、豪快なまでの鐘の響きへと変わる。
けれど不思議と、耳をつんざく音ではなかった。
鐘が鳴り続ける。
優しく、穏やかに。
そのときだった。殭屍や亡霊、それぞれの前や横に、彼らとは違う何かが揺らめく。
それらは人の形を成していき、物言わぬ亡霊の頬へと触れた。心すら持たぬはずの亡霊は震えはじめる。
『……あんた』
人の形をとったそれは朧気に呟いた。弱いけれど怖くない青白い光を放ちながら、ひとりの女性の姿になる。
『ひとりぼっちにさせちゃって、ごめんね。さあ、帰りましょう』
『…………』
優しい笑みの女性は亡霊の手をそっと握った。すると亡霊は頷き、女性とともに天と昇っていく。
そしてそれは、ひとりの亡霊に限ったことではなかった。この場にいる全ての亡霊はもちろん、殭屍へと成りはてた死者たち。人とは呼べぬものたちが、次々と誰かを伴って空の彼方へと消えていった。
白氏だったものたちも例外ではない。彼らも誰かに連れられ、泣きながら空の向こうへと昇っていった。
それらを見送った瞬間、鐘の音を鳴らしていた鈴蘭は蛍火となる。地へと種火を落とし、ゆっくりと芽を出した。数刻もたたぬうちに芽は伸び、蒼く美しい彼岸花へと成長をする。
「……これは何とも、幻想的な光景だね」
子供の様子を見守る全 思風たちは驚きながらも、ことのなり行きを目に焼きつけていく。
彼にとってこの美しくも儚い風景は、寝耳に水だった。
蒼い。けれど透明で、冬の風を受けては散っていく。そんな花たちが眼前の地を埋めていたのだ。墓はそのままに花だけがひとつの光景として映っている。
「……小猫? うわっ!」
見事なまでのきれいな花畑に見惚れていると突然、子供が彼へ抱きついた。
彼がどうしたのかと尋ねれば、子供は顔をあげてはにかむ。
「いいんだよ──」
「え?」
子供の体温と、花の薫りが彼の鼻をくすぐった。
「怖くて辛い。そんなの当たり前だもん。苦しむなっていう方が無理だと思う」
大きな瞳を瞬きさせながら彼に語りかける。
少し高めの声が耳に届き、彼は戸惑った。
「苦しみを持ったままだっていいんだ。だって、人なんだもん。考えて、苦しんで、それで立ち直って……そういうのを繰り返すのが人だって、僕は思う」
だからねと、照れ笑いで言葉を綴る。
「だけどね? 前に進むという当たり前の事をやめてしまったら、どうにもならなくなっちゃう。行き場のない哀しみ、悔しさ」
それらがあるからこそ、人は生きる。子供は素直な気持ちで告げた。彼の男らしい鍛えあげられた腰に両腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「そういうのがあるから、僕らは今を生きてる」
彼の三つ編みの先っぽだけを指に絡め、もう一度微笑んだ。
「寄り道したっていいじゃない。いずれは前を向かなきゃいけないのかもだけど……ゆっくりでいいと思う。もしも間違った道に進んじゃったら、直せばいい。だって道という未来は、無限にあるんだから」
「小猫……」
子供の言葉が、彼の胸に突き刺さっていく。
──この子は前へ進もうとしている。急いで大人になるのではなく、ゆっくりと成長していっている。だからこそ、誰かの苦しみに敏感で……転んだとしても、間違ったとしても、無理に正そうとするのではない。
「上手く云えないけど……僕が、受け止めてあげる」
それじゃあだめかなと、かわいらしく小首を左へと傾ける。
「…………」
彼が夔山への道を躊躇しているのは、足をとめてしまったからだ。前へ進むのを後回しに、ひたすら大切な存在を想い続けるだけ。それでいいのだと、彼は思っていた。
──ああ、そうか。私は逃げていたんだ。この子を愛することで、全てから逃げられる。そう決めつけていたんだ。
子供の温もりと優しさに頬を緩める。細くて頼りない腰に手を回し、強く抱きしめた。
「小猫、私が怯えたら助けてくれるかい? 泣いてしまったら……」
そばにいてほしい。
そう願った。
すると子供は両目を丸くしながら、甘えん坊さんだねと彼を背中を撫でる。
全 思風、そして華 閻李。どちらもが目頭を熱くさせ、互いの温もりを確かめあった。