桃源郷(とうげんきょう)
妲己の口から語られた真実は、人間である華 閻李たちからすると眉唾物だった。
けれど冥界を統べる存在でもある彼、全 思風だけは違う。彼は静寂を保ちながら子供を抱きしめ、黒い焔を天へと昇らせていった。
「──桃源郷、か。まさか、その名を聞く事になるとはね」
腕の中で寒さに震えている子の頭を撫でる。優しい笑みを少年へと向け、顔を上げた。ふうーと深呼吸し、狐がいる鏡へと視線を走らせる。
「私の治める冥界でも、桃源郷についての話をチラッと聞いた事がある」
桃源郷は全てを超越した世界そのもの。苦しみはもちろん、憎しみや哀しみといった負の感情は存在しない。
あるのは安らぎと、永遠の命。祝福から始まり、何でも意のままにできた。
「自由に世界を作り替える事ができる。いわば、全ての頂点に立つ世界って云われてるね。人間が住む世界はもちろん、神も当たり前。私の領域でもある冥界も例外ではない」
なぜそんなことができるのか。そもそも、そのような場所が存在しているのか。何もかもが噂でしかなかった。
けれど、扉の先には桃源郷がある。それを信じてやまぬ者がいるのも、また事実であった。
彼はめんどくさそうに、ため息混じりに語る。冷えきった子供の体を暖めるように、ギュッと抱きしめた。
子供はホッとした様子で顔を埋めてくる。そんな少年の愛らしさに頬を緩ませ何度も「可愛い」と、悶えた。
そんな彼を遠い眼をしながら見つめる狐は、やれやれと深いため息をつく。
『扉の鍵とはすなわち、そこへ辿り着くために訪れる数多の試練に必要となる存在。明確な事は妾もわからぬが……こう、伝えられておる』
ひとつ、妖怪と人間の血を分けし存在。
ひとつ、自然に身を委ねる者。
ひとつ、神・人間・あの世。これらの世界に愛されし者。
これらの条件が揃うとき、【冥現の扉の鍵】として機能する。
狐は謳うように語った。話し終わると身体を丸め、前肢で眼をこする。
『妾が知っておるのは、こんなところじゃな』
「……信じられないぐらいに、小猫に当てはまるね」
妲己が伝えゆく条件のひとつひとつに、いとおしい子の姿が重なっていった。
先祖である華 茗沢、彼女は妖怪と人間の血を持つ者である。
子孫となる華 閻李もまた、ふたつの種族の血を有しているのだろう。妖怪の血がどれほど薄まってるのかは定かではない。それでも少しでも残っている以上は、例に漏れず対象となる。
「……妲己、この子の中にある妖怪の血はどのぐらい濃いんだい?」
『うーむ。調べてみなければ正確な事はわからぬが……花の力を使える時点で、妖力を持っている事は確かじゃ』
髪の色がその証拠だと、もふもふな前肢で子供を指差した。
『その髪は銀であり、白。何者にも染まっておらぬ色じゃ。この髪色は妾たち妖怪の中では力の象徴と云われておる。人間側からは、どう伝えられておるかは知らぬがの』
両前肢をうーんと伸ばす。前肢で顎をガシガシと掻いて、かわいらしく一声鳴いた。すると白虎の牡丹が真似をし、妲己は白い獣に怒りをぶつける。
そんな動物たちのかわいらしい姿を見て、子供の頬は少しだけ緩んだ。全 思風に大丈夫だよと教え、牡丹を抱きしめる。
もふもふとした毛並みの虎を両手に収めれば、暖かいと呟いた。宙を浮遊する青龍は『るるる』と、笑顔を示す。頭の上にいる蝙蝠の躑躅は、我関せず眠っているようだ。
『……まったく、呑気な動物たちじゃな。こやつらに好かれるという事も、鍵の条件に含まれておるというのに』
「それは私も知っているさ。と云っても、麒麟に聞いたんだけどさ。……それよりも、銀の髪がどう関係するわけ?」
確かに珍しい色ではある。華 閻李のように子供のときから銀髪というのは、異国の地にも存在していなかった。年をとれば髪の色素が薄くなり、白髪にはなるだろう。
だがそれは自然の摂理であり、必ず人は経験しなければならないことだった。
狐は『ふむっ』と口にする。瞳孔を細め、子供を凝望した。
『銀……白は無じゃ。何にも染まってはおらぬ。桃源郷の中を進むには、様々な色に塗り替える必要があると聞く。それを考えると、無を有しておる銀髪の方が便利じゃろう?』
どうやって塗るのか。そこまではわからないまでも、必要なのは白。それだった。
『仙人たちの住む場所で修行していたときに、それを聞いてしもうてな。まさか妾の子がそれに当てはまるとは、思わなんだ』
全ての条件に当てはまりし存在、それは華 茗沢である。けれど彼女は命半ばでこの世を去った。結果として、扉を開けるための鍵なのかどうか。実行することも不可となっていた。
『あの子には産まれたばかりの子がおっての。妾にとっては孫じゃ。だが……』
ウキウキと子の話をする姿が一転、表情に曇が生まれてしまう。
『孫の髪は黒じゃった。自然を操る力も待ってはおらなかった』
「……みたいだね。私が知る限り、小猫の一族で銀の髪なのは華 茗沢、華 李偉、そして小猫だけ」
腕の中にいる愛しい子の髪を、指に絡めた。けれど細くてさらさらなためか、すぐにほどけてしまった。
『華 李偉? 聞いた事がない名じゃの?』
それはいつの者かと、狐はあくびを交えて尋ねる。
瞬間、子供を包容していた腕を緩めた。腰にかけてある剣の塚に手を置き、無言で立ち上がる。
側にいる爛 春犂は、彼のように腰の剣には触れなかった。けれど懐から札を取り出し、墓全体を凝視する。
冬の風とは違う、鼻を覆いたくなるような臭いが混じる冷気が漂っていた。
周囲の木々を薙ぎ倒す音から始まり、ドスンッドスンッという地響きもする。
『……封印が破られてしもうたか』
淡々と告げる狐を見れば、尻尾をぶわりと太くさせていた。
「封印? 何の事だい?」
『……妾のような者が放つ凍えるほどの冷気は、その場の魂を落ち着かせる効果がある』
「ああ、だから止めろって云っても、ずっと冷気を出し続けてたわけか」
わざとやっていたのではなかったのかと、改めて狐を見下ろす。
妲己は尻尾を太くさせたまま、静かに頷いた。
「ここは、殷……いや。周の皇族が眠る墓じゃからの。いつ、その陰の気が暴走するかわからぬ。妾はそれを見守るためにここにおる……の、じゃがな」
威嚇をし、低い声で『出てくるぞい』と教える。
墓の入り口付近からやってくるのは死人、殭屍たちだ。両腕を胸のところまで上げ、ピシッと伸ばしている。その姿のまま深く、勢いを失わないほどに飛びはねながら向かってきた。
そんな殭屍の気に触発されたのか、墓の中で眠る者たちが土を蹴破って排出を始める。
ほとんどが骨だけという状態ではあるが、たったひとりだけ。大きくて丸い墓から顔を見せた者だけは、黒い袍と呼ばれる立袖の服を着ている。その者は頭に少しばかりの黒髪を残していた。
『……紂王』
狐の瞳は哀しみに暮れていく。尻尾は垂れ、弱々しい姿になってしまった。
『ああ、紂王。そなたも、陰謀の渦のひとつになってしまったのじゃな』
ぽつりと呟く妲己の頬には、一筋の雫が流れていた。




