動く歴史と交わる疑惑
おずおずと。逃げ腰の男は顔をあげる。瞬間、老人が放つ空気が変わった。
姿勢は伸び、毅然とした出で立ち。
口を覆い隠すほどに長い髭は、風によって揺らされた。
「──某の名は、姜子牙、しがない仙人だ」
さざ波のような声が空を駆ける。
「姜子牙? ……どこかで聞いたような気がするけど」
全 思風は基本、物覚えはよかった。けれどそれは、愛する子に関することだけに限定されている。それ以外のことには基本、無頓着なほどに興味を示さなかった。
本人はそれでいいと思っているらしい。その証拠に、姜子牙という名前を耳にしてもすぐに興味を捨て去った。
「で? その姜子牙という偉い仙人様が、私たちに何の用なのさ?」
ひらひらと、鬱陶しそうに片手で空を払う。
けれど隣にいる男、爛 春犂は違った。彼は瞳に真剣さを乗せている。物言いたげな表情にもなっていた。
「……? 何、あんた。言いたい事あるなら言ってみれば?」
沈黙する爛 春犂を見、退屈そうにあくびをかく。それでも彼は口を開こうとはせずに、姜子牙と名乗る者を見据えていた。
姜子牙は、爛 春犂の視線に苦く笑む。鋭く射抜く瞳に肩でため息をつき、軽めの咳払いをした。
「某は仙人界の命を受け、ここにいる」
「……あ、それなんだけどさ。仙人界ってどこにあるわけ? ここにいるこいつ……爛 春犂も仙人だけど、普通に人間たちと暮らしてるし」
時代や土地によって違うのだろうか。全 思風は姜子牙を見つめ、子供のような無邪気さで問う。
姜子牙はたじだじになった。それでも真面目な性格のようで、彼の疑問に応えんとする。ゆっくりと空を指し、遠くの山を凝視した。
「ここよりもっと高い場所に、崑崙山脈という山がある。そこに某たちは住んでいる」
「崑崙山脈? ……ああもしかしてあんた、崑崙の仙人だったのか。あれ? 崑崙の仙人で姜子牙って……」
あーと、冷静な彼にしては珍しい大声をあげる。姜子牙を指差し、爛 春犂を見た。
「……そうか。あんた、太公望か!」
爛 春犂に目線だけを向ければ、彼は頷いている。
全 思風からすれば、歴史上の人物などはどうでもよかった。それで愛する子が戻ってくることはないからだ。けれど……
「そんな大物が、何でここにいるのさ?」
姜子牙という男は、紂王を骨抜きにしている仙女を退治する役目を担っている。さらに云うならば、ここは敵地のど真ん中だ。
敵に捕まるであろう行動を取るなど前代未聞だと、注意をする。
「……確かに某は、この國の王、紂王。その男を誑かした妲己を封印するのが目的である」
長い口髭をたなびかせ、真向かった。
「しかしそこでひとつ、予想外の事が起きたのだ」
神妙な面持ちで語る。
「あろう事か、あの女と紂王の間に、血をわけた子がいるという噂が流れてな」
これには、全 思風と爛 春犂は面食らってしまった。
──紂王の正妻になった妲己に子がいた? そんなの初耳だ。歴史書にも記されていない。もしかして、私が知らないだけか?
爛 春犂を見れば、彼も驚愕しているよう。首を左右にふって「歴史に記されてなどいない」と、強い口調で断言した。
「ねえ。それは本当なのかい?」
あんたの勘違いじゃないのかと、再度尋ねる。
姜子牙は服の袖から、長い棒のようなものを取り出した。それで自らの左手のひらをペチペチとし、先っぽを彼らに向ける。
「先ほど、そなたたちが話していた銀の髪をした者がいただろう? あやつが、妲己と紂王の子だ」
「……え?」
ふたりの間に動揺が走った。
互いの顔を見合せ、眉根をよせる。
──華 茗沢が、妖怪と人間の間に産まれた子供? ああ、でも……
「納得いった」
屋根の上に腰を下ろした。片足を上げて胡座をかき、殷王朝の風をその身に受ける。
見上げた空は青く、雲はゆったりと動いていた。太陽はないものの、それでも明るい。名もなき鳥が遠くの空へと消えていった。
ふと、視線を下へとやる。
道は整備されておらず、荒れ放題である。道の両側にある建物は寂れており、壁に穴すら開いていた。
人々を見れば、餓えで死してしまっている者もいる。老人や女性もいるが、彼らは布一枚のみで体を覆っていた。
物乞いのような子供もおり、とても栄えているとは云えない貧しさが垣間見れる。それでもここに住む者たちは懸命に生きようと、笑顔で過ごしているようだ。
「……この町は、貧富の差が激しいんだろうね」
庶民はの中には、明日食べるものさえ困る者もいるのだろう。本来ならば、それは王がなんとかせねばならぬこと。
けれど殷の紂王はそれをしない。いや。妲己の言いなりで、王としての責務を果たそうとしないのかもしれなかった。
その結果、庶民が苦しみを背負うことになってしまう。
「……私がどうこうできる事じゃないけどさ。それでもこの國の有り様は、目にあまるほど酷いと思うよ」
──それに小猫の先祖が関わってるって云うなら、何とかしてあげたいけど。私はこの時間の者ではないから干渉していいものか。
迷うところであった。それでも愛する子を見つける手がかりがあるならばと、瞳を強ばらせる。
「あんたのやる事に、私たちは関与しない。ご勝手にどうぞ」
腰を上げて、お尻をはたいた。木を伝って下へと降りれば、屋根の上にいる姜子牙を見上げる。
「私たちにも目的があるんでね。それを優先させてもらうよ」
じゃあねと、姜子牙が止めるのも聞かず、その場を後にした。どうやら爛 春犂も彼と同意見のよう。華 閻李を探すことを前提とし、ふたりは町の中を偵察していった。
□ □ □ ■ ■ ■
姜子牙と別れたふたりは、町にある大きな建物を見つける。そこは赤い屋根と柱の建物で、中央の扉は開かれていた。
「……ここは?」
建物には看板がない。中をのぞいてみれば、たくさんの人がいた。
彼らないし彼女たちは、座って食事をしているようである。席はほぼ満員、座る場所を無理やり作って食べている者もいた。
店員は急がしそうに、食器を両手で持って動いている。
「食堂っぽいけど……」
一旦外へ出て、看板がないか探してみた。けれど看板はおろか、名前のある何かは見つからない。
「何で名前ないのさ」
あきれたため息が溢れてしまった。ふと、店員が彼らの存在に気づいたようで、献立表を持って近寄ってくる。
「你好。お食事ですか?」
気のいい中年男性が、笑顔をひっさげて話しかけてきた。ヘコヘコとしながら微笑み、ふたりに見定めるような視線を流す。
「いや、別に私たちは……」
お腹は空いていない。そう伝えようとした直後、中年男性に無理やり中へと案内されてしまった。
背中を押されて入った店内は、先ほど見た貧困民たちが暮らす場所にあるとは思えないほどにきらびやかである。
「……あれ? あの人」
そこに違和感を覚えないわけではなかったが、全 思風は見知った顔を見つけた。それは少し前に出会い、あっという間に姿を消した華 茗沢である。
彼か。彼女か。それすら検討がつかない美しい顔立ちのものは、ひとりで食事をとっているようだ。けれど机の上には山積みになっている食器があり、彼はそれを目撃するなり嫌な予感を覚えてしまう。
──まさかと思うけど……あの食器の山、全部あの人が食べた。なんて、言わないよね?
軽く顔をひくつかせた。瞬間、華 茗沢が彼らの存在に気づき、手招きをする。
ふたりは仕方なく、美しい人物と相席した。
「おふたりとも、どうしてここに? あ、お腹空いたんですか? 同じですね! わたしもお腹が空きまして。いーっぱい食べようと思ったんです!」
どうやら、予想を裏切らぬ大食いのよう。
愛する子と同じく大食らいなのかと、全 思風は全身で脱力してしまった。




