殭屍《キョンシー》なる者たち
行き先が決まって一時間ほどたつと、京杭大運河の頭が見えてきた。
そこで獅夕趙こと黒 虎明と別れを告げ、全 思風たちは再び荷馬車を走らせる。
ガラガラと、荷馬車は砂利道を進んだ。京杭大運河を横に見下ろしながら、川沿いをゆっくりと前進する。
ひと気はなく、あるのは山や草木といった大自然ばかりだ。ときどき鳥の鳴き声が轟くが、平和を絵に描いたような静けさがある。
「──ここ最近の忙しさに比べたら、だいぶのんびりと出来そうだね」
ねえ小猫と、子供へ声をかけた。けれど少年は白い仔猫たちに夢中になっているようで、彼の声など届いていないよう。ひたすら動物たちと戯れ、きゃっきゃっと、楽しげだ。
「ね、ねえ小猫? ほら、私の膝の上に……」
「やだ」
「そ、そんな事、言わないでほら……」
空しいまでに両腕を広げる。けれど子供の興味は、完全に彼から離れてしまっていた。
「…………」
彼は微笑みを絶やさないまま、腕を引っこめる。さらには落ちこんでしまい、部屋の隅で膝を抱えて【の】の字を書いていた。グスッと鼻をすすり、口を尖らせる様には強者の面影は微塵もない。
──動物どもめ! 私の小猫を一人占めしおって! 憎い。あいつらが憎い!
華 閻李へ向けている愛情が深いあまり、思考が一周回って、おかしな方向へと進んでるようだ。
嫉妬以外の何者でもないそれは、あらぬ考えとともに口元を歪ませていく。
「ねえ小猫、動物と遊ぶのもいいけど、私の相手もしてほしい……」
次第に、声が小さくなっていった。しょぼんとなり、情けなく眉が曲がる。寂しいよと甘えた。
見かねた子供は苦笑いをし、落ちこむ彼の膝へと手を伸ばす。
「……思さんは、どうしてそんなに僕に拘るんですか?」
記憶が戻らない状態であったため、さんづけだ。他人行儀な言葉ではあったが、誰かを想う優しさは健在なのだろう。彼に対する記憶がなくとも、無意識のうちに心を預けているようだった。
全 思風は首を左右にふり、子供の小さな手を柔らかく包む。自身の頬にあて、ふふっと微笑した。
「私は、君の事だけを愛している。他に何も要らないし、必要なんかない。君が望むのならば、冥界の王という地位だって捨てる覚悟はある」
揺るぎない瞳はまっすぐ子供を見据える。穏やかで、慈しむ。そんな眼差しを子供へと向けた。
華 閻李は小首を傾げ、やがて顔を伏せてしまう。
「……ごめんなさい。思い出せなくて、ごめんなさい。優しいあなたを思い出せなくて、ごめんなさい!」
幼さの残る声音を吐きながら、涙も溢した。
彼はそっと、それを指で掬う。大きな瞳から溢れる水はとてもきれいで、少しだけ暖かい。
──記憶がなくなった小猫の方が、よっぽど辛いだろうに。それでも私を気遣って……
なんて優しい子なのだろうか。
彼はその優しさに甘えるように、そっと抱きしめた。
「ありがとう。自分の事よりも、私を気にかけてくれてたんだね? 本当に君は、優しくて愛おしい子だ」
※我爱你──
その言葉だけを子供へと囁く。
額ではなく、手のひらに軽く口づけを落とした。子供が泣き腫らした顔で見上げてくれば、彼は再び両腕の中へと少年を収める。
「──どうでもいいのだがな? 私の存在を忘れて、ふたりの世界に入るのはやめてもらえまいか?」
ふと、前方から声がした。
その声の主は馬を手綱でひく、瑛 劉偉である。彼はあきれた様子で振り向き、訝しげに眉根をつり上げていた。額には青筋を浮かばせ、棘のある瞳をしている。
彼の青い漢服の袖が、馬車の動きに合わせて揺れた。
「これから向かう場所は、今までとは違う。心してかかられよ」
それだけ言うと、前を向いてしまう。
「……そうは言うけどさ。夜中に暴れてる亡霊を祓うだけでしょ?」
「……だと、いいのだがな」
あまりにも意味深めいた返答に、全 思風と華 閻李は互いを見合せた。
すると瑛 劉偉は背中を向けたまま、淡々とした口調で語る。
「……これはあくまでも聞いた話なのだが、あの場所には一枚の鏡が捨てられているそうだ」
「鏡?」
全 思風は両目を大きく見開いた。鏡など、どこにでもあるもの。目くじらをたててまで危険視することかと、子供を抱きしめながら言ずった。
胡座をかいて子供をそこに乗せる。袖の中からいくつかのごま団子を取り出し、少年へとあげた。
子供が無邪気にお菓子を頬張る姿に、彼は両目を瞑って「んんっ!」と、幸せの涙を流す。もちもちとした柔らかさのある頬をつつき、瑞々しくてスベスベな手を撫でた。
そんな行為は当然、背中を見せている男にはわからないこと。
ひたすら子供を甘やかし、デレデレになる。そんな彼の姿なのど、知るよしもなかった。案の定、瑛 劉偉は低い声のままに話を続けている。
「鏡と言っても、少し割れたものらしい。ただおかしな事にその鏡は、その場から持ち去る事ができないそうだ」
「うん? ひとりじゃ無理なぐらいに大きいって事?」
彼の意見を否定するように、瑛 劉偉は首をふった。
「いや。大人の男がひとりいれば、十分運べるぐらいの大きさと聞く」
では、なぜ運ぶことが不可能なのか。全 思風はそう問う。
「……わからぬ。運ぼうとすると、奇妙な現象に見舞われるそうだ」
直接見たわけではないようで、これ以上の情報を持ち合わせてはいないようだった。
全 思風はふーんとだけ口にする。
そのときだった。彼の全身の毛が逆立つような……ぞわりとした何かが、一瞬だけ感じる。
──何だ、今のは……
子供と、荷車をひく男を見張った。けれどふたりは、何事もなかったかのように平然としている。
──気づいていないのか?
未だに、全身の毛が逆立つ何かを受けていた。瞳を朱く染め、子供を抱きしめる腕に少しだけ力を入れる。
子供はどうしたのと、小首を横へと動かした。ごま団子を食し続ける姿と相まって、小動物のよう。とてもかわいらしい仕草だった。
そんな子供の頭を撫で、顔を上げる。すっと両目を細め、静かに気配を探った。けれど……
──おかしい。気配がないだなんて。だけど視線は感じる。どういうことだ?
「えっと……思さん、大丈夫?」
上目遣いで彼を心配する。
彼は、子供のあまりのかわいさに言葉を失った。それでも気配探ることだけは止めていないよう。ときおり眉根を寄せては、険しい表情へと変わっていた。
「……ごめんね小猫、多分、気のせい……っ!?」
瞬間、肌で感じる何かが強まる。
これには瑛 劉偉も気づいたようで、急いで馬車を停めていた。
「全 思風殿、周囲を見よ!」
男の叫びに反応し、即座に立ち上がる。そして荷台の扉を開けた。
するとそこには、額に札を貼られた数人が立っている。血管すら見えるほどに青白い肌や、ボロボロの服。小汚ないというには優しいほどの格好だ。
「……あれは殭屍? いや。それにしては何かか違和感が……」
そう彼が呟いた瞬間、殭屍と称される者たちが口を大きく開ける。そして目にも留まらぬ速さで、馬車へと走ってきた。




