浄化
全 思風が腕に抱える愛しい子は、疲れたように眠っていた。すうすうと、待ち望んだ子の寝息、細い髪、そして美しい顔。そのどれもが彼を、彼として繋ぎとめる材料となっている。
──全て解決とは言えない。むしろ、謎が追加されちゃったぐらいだ。それでもこの手にある温もりは、絶対に夢ではない。
心の底から、愛しい子供を取り戻したのだと実感した。己の腕の中で眠る子供の額、右の手のひらへと甘い吐息を落とす。
独占欲の塊であるかのように、子供の全てを目に入れた。
けれど彼の表情は晴れず、むしろ雲っている。
「どんなに君を愛したとしても、私が小猫の両親を殺してしまった事に変わりはない。例え故意じゃなかったとしても、そんなの言い訳でしかない」
ごめんねと、一度は引っこんだはずの雫が、頬を濡らした。
それでも今すべきことは何か。優先しなくてはならないのは自分の感情ではなく、愛しい少年の幸せなのだと、心の中で言い聞かせた。
無理やりこじ開けた蘆笛巌から外へと一歩踏みこむ。淡々とした瞳で黒き階段を造り、空高く登っていった。
空を見れば来たときはまだ太陽が昇っていたのだが、今は月に変わっている。
「──ああ。いつの間にか、夜になってしまったね」
どれだけの時間、再会の喜びに浸っていたのだろうか。気の遠くなるような……けれどあっという間の、嬉しくて哀しい時間だった。
自ら造成した道をゆっくりと進む。やがて近くにある町の上空へと差しかかった。
見下ろした先には死者だけが這いつくばっている。体力や力が自慢であろ黒 虎明は、ふらつきながらも殭屍らを大剣で払っていた。そんな男へ背中を預けるように、瑛 劉偉がおり、彼は札で死者たちの動きを封じているよう。
全 思風は無言で、残忍なまでの冷めた眼差しを彼らに向けていた。このまま彼らを置いて立ち去ろうとする。
そのとき、腕の中で子供の両目が、ふっと開かれた。長いまつ毛に影を落とし、弱々しく呼吸する姿はなんと儚げか。
「……おろ、して」
寝ぼけているのか。それとも語る体力が残っていないのか。どちらともとれる曖昧な声を放った。
彼は子供の望みに逆らうことができず、泣く泣く降ろす。
町の光景を目の当たりにした子供は全 思風の袖を掴んだ。小さな手は震えている。体も同様だ。
彼は子供の隣に立つ。少年がこれからやろうとすることを見守るように、そっと体を支える。
「……ありがとう」
子供は大きく深呼吸し、両手を掲げた。そこから煌めく蛍火のような、たくさんの沫が生まれる。少年の爪の先が少しずつ朱くなっていった。しかしそれは鬱血ではなく、子供が能力を発動する証でもある。
長い銀の髪が絹糸のように揺れ、沫に絡みつた。
やがて指先の朱は、あるものへと姿を変えていく。それは子供が一番多く利用する花、彼岸花であった。
最初は豆粒程度。そして徐々に大きくなっていき、最終的には町の上空を覆いつくすほどとなっていく。
「──教えて、君たちの想いを。僕は、どうすればいい?」
透き通る声は、自然と聞く者の不安を拭っていった。表情には艶びた色香があり、花の蜜のように蠱惑的である。
それは、間近で見聞きしている全 思風の全身が火照るほどだ。
ふと、彼らの眼前を隠すかのように、彼岸花の花びらが大きく開いていく。
雌しべの子房と雄しべがついている花糸が、ひっそりと左右に動いた。かと思えば、夜風に揺られて花粉が飛んでいく。それらは、朱く光る灯籠のようだった。ひとつひとつに意志があるかのように動き、地上にいる殭屍たちに宛てられる。
全 思風が右の人差し指で空を指した。黒の瞳に朱を被せていく。
「光栄に思え。小猫が、お前たちのために祈りを捧げるのだから──」
低く、冷めた声が地上へと届いた。指先に黒き渦を生ませ、焔となる。それを地上を陣取る殭屍、一体一体に巻きつけていった。
『おいで』
普段の彼よりも遥かに低く、けれどどこか落ち着く……体の芯を刺激するような声が轟く。
瞬間、死人たちに異変が訪れた。瑛 劉偉の札で動けなくなっていたはずなのに、体のどこかを微動させる。そして効力がなくなったかのように、札がハラリと落ちていった。
当然、札を貼った本人である瑛 劉偉は驚愕する。ともにいる男とともに上空を見上げ、子供に向かって「何をする気だ!?」と、鬼気迫る声をあげた。
そのときだった。
ふわりと、その場にいる全ての殭屍の体が浮く。彼らは抵抗も、拒否もしなかった。叫ぶという行為から始まり、殺意すら感じない。
穏やかとは云えない表情ではあったが、それでも華 閻李という子供を見る瞳には敵意すらなかった。
殭屍たちは瑛 劉偉らの驚愕を無視し、ゆっくりと上空へと飛んでいく。
『…………』
意志を持たぬ彼らは、上空に立つふたりを囲んだ。
「──小猫、私ができるのはこれぐらいしかない。ここから先は、君の出番だ」
全 思風は子供の肩を優しく抱き、倒れないよう支えてあげる。深紅よりも深いけれど、朱よりも薄い。そんな色の瞳で子供を見守った。
子供は彼にありがとうと伝え、両腕をゆっくりと降ろしていく。両目を瞑れば長いまつ毛が影を作った。
細くて頼りない両手を胸の上にそっと乗せる。目を開け、大きな瞳を瞬かせた。
「──大丈夫だよ。僕は君たちの想いを受け止めるから」
儚く、神秘的な美しさで微笑む。
頭上に浮かぶ巨大な彼岸花の花粉が、子供の声に合わせて周囲へと散っていった。
殭屍に花粉がつくと、彼らは各々に涙を流していく。
生きていたい。
死にたくない。
子供だけは助けてほしい。
おじいちゃんと遊びたい。
全ての殭屍たちから、元に戻りたいと願う声が木霊した。
華 閻李は優しくうんと頷き、彼岸花を引きよせる。
大きく深呼吸し、殭屍たちに視線を走らせていった。
「皆、生きていたいだけなんだ。だから、帰ろう」
彼岸花の花びらを一枚だけ抱きよせる。そのとき、子供の背中が暖かな光に包まれた。
あまりの眩しさに、全 思風ですら目を閉じてしまう。
──ああ。この光だ。私は、この光に誘われて目が覚めた。失くしてしまった大切なものの証である、暖かい輝き。
だからこそ、この子供が愛しくてたまらない。
彼は眩しさの中に生まれた、光とは違う何かに物思った。
しばらくすると、光は消えていく。殭屍になってしまった人々は両目を瞑りながら、身を地へと倒していった。
「……お疲れ様、小猫」
光がなくなったそこには、意識を失いながら彼の腕に包容されている子供がいる。彼は子供を横抱きにし、無防備な少年の額に口づけをしようとした。しかし、後数ミリというところで思いとどまる。
首を左右にふり、汗ばむ子供の額を指で撫でた。
「続きは、記憶が戻ってからかな」
そのときのご褒美だと、自分に言い聞かせる。
そして華 閻李を横抱きにしながら地上へと降りていった。その最中、彼はあることに気づく。
──瑛 劉偉の腰のあれ。確か、八卦鏡だっけ? 何であんなに鳴いているんだ?
人よりも耳、そして目もいい彼にとって、八卦鏡は目障り以外の何者でもない。
八卦鏡の持ち主である男は気づいていないよう。ふたりが降りてくることだけを待ちわびているようだった。




