忘れられないこと
子供のころ私が住んでいたのは北関東の小さな村でした。
学校へ行く通学路も人家のまばらな山道です。近道だというので舗装もされていない獣道を使っていたのです。
薄暗い獣道が急に開けて明るくなる瞬間。今までの閉じた世界から、広い校庭を見下ろすその気持ちよさは当時はありふれたものだったけど、こうして思い返すととても懐かしいものです。
私が通っていた学校はもう統廃合されてしまいましたが、当時は一学年に2クラスあってそこまで小さな学校というわけでもなかったのです。
2年生の時に転校してきた私ですが、学校には母方の親戚が多くてすぐに打ち解けることができたようです。
できたようです、という伝聞調なのは当の私はそれ以前のことをあまり覚えてなく、小さいころからこの村に住んでいるんだと記憶を書き換えていたからなのです。
当時の私がどんな子供だったか、今と変わらず頭が良いわけでも運動ができるわけでもないごく平凡な子供だったと思います。
休み時間になると校庭でサッカーをしたり、帰り道には木の実や山葡萄をとってみたり、あの経験を除けば、私の子供時代の出来事はどれもこれも周りの人たちとさして変わるものではありません。
私の子供時代の唯一の奇怪な経験、あの経験。
今まで誰にも話してこなかったのは、あまりに荒唐無稽だったからです。
夢でも見たのだろうと、どこかで読んだ本の内容を現実と間違えたのだろうと、誰かに話してもそんな風に言われるに決まっているからです。
でも何度思い出しても、それが夢や妄想だとは思えないのです。むしろ、あの経験こそが、他の私の人生のあらゆる出来事の和よりも現実的に思えてならないのです。
それは私が6年生のときの出来事です。
怪談や怪奇現象が流行っていた時代です。ご多分にもれず私の学校でも七不思議が広まりました。
今思い返せばよく意味の分からないものから、有名な怪談話まで、方々から持ってきたネタをごちゃ混ぜにしたようなものでしたが、私は隠されていた世界の裏側が開示され目の前に現れたような感覚を覚え、七不思議のとりこになってしまいました。
特に興味を持ったのは、稲荷神社の隣にある小さなお寺のお堂から声が聞こえるというものです。
それもただの声でなくて、ときに和歌、ときに俳句、ある時は自由律の詩であったりしたものですから、この不思議は「詩を詠む幽霊」と言われていました。
幽霊は新月の夜に現れるようで、教頭先生はお堂の前でいくつか詩を書き留めたこともあって、そのいくつかを私たちに読み聞かせてくれたこともありました。
幽霊の詩、いかにも怖そう、聞いただけでも呪われそうですが、私には難しい言葉が多くてほとんど内容を理解できませんでした。ただ言葉のイメージとして物悲しい印象を覚えたことだけは確かです。
それは教頭先生の朗読のせいもあるかもしれませんが・・
興味を持った理由はそれだけではありません。そのお寺自身にも私はちょっとした因縁がありました。因縁と表現するのは大袈裟ですが、祖父から何度も聞かされた話が頭にこびりついていたのです。
どんな話かというと、祖父が若いころにあの寺で雪女に会ったという話です。
一つ一つの話は大したことのないものが、私の脳内で結びついて、大きな不思議に成長していきました。
いつからか、詩を詠む幽霊と雪女は深い関連があるに違いないと思い込むようになっていたのです。
冬休みに入って、数人の友人たちと夜の寺に行くことを企てました。最初数人いた仲間も、決行の日が近づくと一人また一人と抜けて行って、最後は私一人になってしまいました。
失望とやるせなさを感じましたが、私は止める気はありません。新月の夜に一人で行くことを決心したのです。
詩を詠うぐらい酔狂な幽霊ですから、それに教頭先生は何度も詩を聞いているんだしそこまで危ないものじゃない。そう何度も自分に言い聞かせていたのですが、実際家を抜け出そうと、明かり一つない外の景色を見たとき、震えが止まらなかったのを覚えています。
それでも勇を鼓して窓の外の世界へ、踏み出して夜道を例のお寺に向かって進みます。真っ暗な新月の夜です。だんだん目が慣れてくるにつれ星もよく見えてきて、南の方の空は街の灯りで明るくなっているのも分かります。
お稲荷さんの階段をのぼりながら、前にも夜中にこの階段を登ったことがある気がしたり、暗がりから視線を感じた気がして必死に気を紛らわせたり、その時の階段はいつも以上に長く感じられて、まるで星の世界へのぼっているような錯覚を感じたものです。
登り終えると右に曲がれでお寺のお堂へ向かいます。稲荷神社とお寺の間には遊具がいくつか置いてある小さな公園があります。ときどき遊びに来るのですが、夜ここを訪れるのは初めてです。
夜の誰もいない公園を通り抜け、お堂の前までたどり着いた私の心臓ははち切れんほど高鳴っていました。何か得体のしれないものが、いきなりお堂の中から飛び出して来るかもしれない。
化け物に連れ去られて、二度と家に帰れないかもしれない。
すぐに逃げられるように身構えているのですが、逃げるとしてもまたあの暗い道を帰らなければならないのは憂鬱でした。
何もいないに決まってる、七不思議なんて嘘に決まってる、内心でもそう思っていたのでしょう。でも、私はそこを動くことができずにいました。
私をここまで連れてきたものが、お堂の中でうごめいているような気がしてならなかったのです。
しかし、お堂の中からは何も聞こえてきませんでした。恐る恐る中を覗いてみます、暗くてよく見えないけど人の気配はありません。
そこまで確かめると、ほっとしてため息が出ていました。さっきまでの恐怖がすっかり消えて、笑いがこみあげて来ました。
それは肩透かしを食らったことに対してでしょうか、それとも幽霊を見るためわざわざ夜のお寺にやってきた私自身に対するものでしょうか。
とにかく愉快で、面白くてたまらなくて、声に出して笑っていたようです。
すると、
「何を笑っているの?」
澄んだ鈴の音のような声が私の後ろから投げかけられました。
体に寒気が走りました、文字通り冷や汗をかきました。
誰もいないと思っていたので、体はこわばって後ろを振り向くことも声を上げることもできません。
聞き間違えだ。そう自分に言い聞かせて、ただ時が流れるのを待ちました。
凍り付いたように動かないでいると、肩をたたく感触がひんやりとします。
もう何が何だかわからなくなり、はじけたバネのように振り向くと・・
皎い女の子が立っていました。
長い白髪、白と赤の不思議なドレスを着て、青い瞳で私をじっと見つめています。
私より年上のようです。
そして、彼女の頭上には後光のように満月が輝いています。
「そこちょっとどいてくれる? お堂に入れない」
彼女は冷たい表情をしていますが、声音はどこか暖かさを感じさせます。
最初は死ぬほど怖がっていた私も徐々に氷が解けていって、心も落ち着いてきました。
私は道を譲ると彼女に聞きました。
はじめは「あなたは何者ですか?」と聞くつもりだったのに、実際に聞いたことといえば、
「あの、ついて行っていいですか?」
彼女は何冊かの本を抱えていました。もしかしたらその行く先に、私の知らない、私のこれからの人生を変えてしまうような素晴らしい場所があるんじゃないか、そんな期待が沸き上がってきたのです。
「いいけど、面白いものなんてないよ」
二人でお堂の扉の前に立ちました。
「開けてくれないかしら?」
手が塞がっている彼女の代わりに、私が扉を開けました。
さっき覗いた時には何もなかったその場所が、たくさんの本棚で埋まっていて、どこまでも奥に続いていました。
ろうそく明かりに照らされた道を彼女はどんどん歩いていきます。
私は親ガモを追う子ガモのように彼女の後を追います。
どこまで行くのだろうか?
もう引き返せないかも?
そんな不安が頭を過ります。
なんでついてきちゃったのかな?
そんな後悔が胸を締め付けます。
彼女は無言のまま、私は後をついていく。
それで彼女が立ち止まったとき、私はホッとしました。もしかしたらこのまま永遠に歩き続けるんじゃないか、そんな考えが否定されたからです。
彼女は持ってきた本を本棚に戻すと、新しく何冊か選び出して、その時初めて笑顔のような表情を見せました。
「さあ、出ましょう? ここは薄暗くてあまり好きじゃないの」
「は、はい」
あんなに歩いたと思ったのに、お堂の扉にはすぐに着きました。
月の光が支配する外の世界へと出ます。
もうこの段階になると全てをあるがままに受け入れることしかできません。どんな不思議なことが起こってもです。
「ついて来るでしょ、わたしの家に?」
「はい」
怖くはないのに緊張で体がこわばってしまいます。
なぜ緊張してしまうのか、少なくとも理由の一つは彼女について何も知らないからです。
「あの、あなたは何者ですか?」
「わたし?」
彼女は冷たく微笑して、
「わたしはわたし。それ以上でもそれ以下でもないよ」
「答えになってません」
振り向いた彼女の青い瞳が私をじっと見つめました。
「あなた石見さんのところの娘さんよね」
「え? あ、はい」
まさか彼女が私の個人情報を知ってるとは思わなかったので、虚を突かれてしまいました。
「大丈夫。わたしはあなたの全てを知っている。だから、あなたはわたしのことを知らなくていいの」
そんな納得できない答えを残して彼女は歩いて行ってしまいます。
私はまた彼女の後を追うしかありません。
お堂の裏へ、こんなところに道があるなんて知りませんでした。
いや、本来はあるはずのない道です。後で再び行ってみたけど、そこはただの藪でした。
石畳の道が森の中に続いています。月の明かりは木々にさえぎられて直接届きませんが、道沿いにある灯篭のおかげで暗くはありません。
前を歩くのは白髪の女の子。
私のことを全て知ってるらしいけど、私は彼女について何も知らない。
森を抜けたとき、満月の光が世界を照らしました。
満月の明かりって思ったよりも明るいんです。今でも時々思い出します。
「ついたよ」
そこには塀に囲まれた立派なお屋敷がありました。時代劇で見るような、まるで武家屋敷のようなお屋敷です。
私たちが門前に立つと、門はゆっくりと開いていきました。
「帰ったよ!」
彼女がそう叫ぶと、お屋敷の中からたくさんのタヌキやキツネが出てきました。
タヌキやキツネといっても、人並みに大きくて、アニメの中に出てくるみたいな愛らしい姿をしています。
そんなタヌキやキツネたちがかしこまって、
「お嬢さま、お帰りなさいませ」
なんて言うのです。
なんだかおかしくて、でも笑ってはいけないと思って笑うのを我慢しました。
不思議と恐ろしさは感じません。
「来客よ。もてなしの準備をして」
彼女の指示を聞くと、タヌキたちは深くお辞儀をして奥へ戻っていきました。
まるでおとぎ話の世界にいるみたいで、いつの間にかワクワクしていました。
「なんか楽しいですね」
気が付くと私はそんなことを彼女に言っていました。
「そう、楽しそうで何より。さあ、ついてきて」
立派な日本家屋のなかでただ一つ、迷い込んだように洋館がありました。
中へ入りますと、スリッパに履き替えました。
たくさんの家具や小物が、まるで絵本の中みたいにこれでもかと置かれています。
「さ、こっちよ」
私が通されたのは、大きな石でできた暖炉のある部屋。
暖炉には火がともされ、暖かくて心地よく感じました。
私たちは向かい合って椅子に腰かけました。
キツネたちがやってきて、彼女に耳打ちします。
彼女はキツネを一瞥するとうなずきました。またキツネたちは部屋を出ていきます。
「寒かったでしょ? もうすぐ料理ができるらしいの。温かいスープでも飲んで体を温めなさい」
彼女は本を取り出して読み始めました。といっても黙読ではなく朗読です。
いつも朗読してるんですかと聞きたかったのですが、そんなことを聞くタイミングはありません。
どうやら詩集のようです。私には何が何やら意味が分からないのですが、彼女は一つ一つの言葉を慈しむように感情をこめて読んでいきます。
私のすることといったら、彼女の言葉を聞きながら部屋を見回すよりありませんでした。
針のない時計が暖炉の上に置かれています。その時計が鐘を打つとタヌキたちが料理を持ってきました。
ステーキやサラダ、スープや前菜やデザートを一気に持ってくるので、さすがの彼女も少し困った表情を見せましたが、
「これもこれで面白いじゃない」
と言って最後には納得していました。
読み止しの本を閉じると彼女は青い瞳で私を見つめました。
「さあ、ディナーにしましょう」
「は、はい」
しかしナイフやフォークがまだ来てないのでしばらく待ちます。
「あの、いつもこんな料理を食べてるんですか?」
「まさか・・こんなご馳走、相当久しぶりよ」
タヌキが食器を持ってきて私たちの前に並べます。
グラスも二つ、赤い液体が注がれます。
「これ、何ですか?」
「ぶどうジュースよ、ぶどうジュース」
「本当ですか?」
鼻に近づけてみますと、明らかに変わった匂いがします。
私の表情を察して彼女は言いました。
「大丈夫大丈夫、そういうジュースなの」
そう言って彼女はグラスの液体を一口で飲み干してしまいました。
タヌキがやってきてまた液体を注ぎます。
私も一口くちにつけてみたけど、渋くて全く甘くないので、それ以後飲みませんでした。
「さあ、遠慮なく召し上がって」
「い、いただきます」
慣れない手つきでナイフとフォークを使って色んな料理を食べていきます。どんな順番で食べればいいのかわかりません。
彼女を見ると、彼女もでたらめな順番で食べています。
なら私もと、アイスクリームを一口食べてみました。信じられないほど甘くておいしいです。
「これすごくおいしいです」
「気に入った?」
「はい」
キツネたちがやってきて、弦楽器で音楽を奏でてくれます。
私たちはその音楽を聴きながらたくさんのご馳走に舌鼓を打ちました。
なんで私はここにいるのか、そして彼女は何者なのか。
すべての疑問は忘却して、私はディナーをすっかり楽しんでいました。
ステーキを一切れ持ち上げると視線を感じました。
青い瞳です。
「ねえ、楽しい?」
「はい、楽しいです」
嘘偽りのない答えでした。夢のような・・いや逆です。まるで今までの人生が夢だったような、今初めて目を覚まして素晴らしい現実の世界にやってきたような、ここでの経験はとても明瞭でリアルで楽しいものです。
「ねえ、幸せ?」
「はい、ずっとここに居たいぐらい幸せです」
「そう・・」
彼女は微笑して赤葡萄酒をあおります。
心地いい音楽とおいしい料理、そして不思議な女の子。
私はここに来るまでの恐怖がすっかりそぎ落とされて、ここに来てよかったと思い。もしお堂に行こうとしなかったら、ここにも来れなかったことを思い出して少し怖くなりました。
もしあの時違う行動をしていたら、今の幸せがない。そのことを思うと自分はこれから何も間違った選択ができないのじゃないか、そんな風に思えてならないのです。
ご馳走を食べ終えて、彼女はタヌキを呼びました。
「タヌ爺。牡蠣あったでしょ、持ってきて」
「しかしお嬢様、あれは加熱用ですよ」
「いいの、大丈夫だから」
タヌ爺と呼ばれたタヌキは少し困った顔をして部屋を出ていきました。
すぐに生牡蠣をたくさん盛った皿を持ってきました。
「あなたも食べるでしょ?」
「えぇと」
「なんでも食わず嫌いはいけない。一つでもいいから食べてみなさい」
と勧められたので一つ食べてみたのですが、あまり私の好みに合わなかったようです。
彼女は私があまり好きでないもの、例えば赤葡萄酒、例えば牡蠣を美味しそうに食べていきます。
とても幸せそうで見ているだけで私も幸せになってきます。
食事を終えて、暖炉の炎を見ながらまどろみます。タヌキもキツネももういません。
薪のはじける音だけが時々聞こえます。
彼女の白い髪の毛はいつもキラキラと光っています。
私はずっと聞きたかったことを聞きました。
「あなたは何者? なんで私はここにやってきたの?」
「難しい質問だよ」
質問に直接答えるでもなく、彼女は再び朗読を始めました。
たださっきと違ってどれも平易な言葉で紡がれていて私にも理解できます。
私を意識していることは明らかで、一つを語り終えるとかならず「どうだった?」と聞いてくるのです。
「面白かった」とか「悲しかった」とかそのたびに答えます。
どれだけの物語を読み終えたのでしょう?
どれだけの世界を、私は彼女の声を通して体験したのでしょう?
そもそもこの部屋の時計には針がありません。窓の外は夜のままです。
そもそも、どれだけの時間が経ったのかすらわからないのです。
ただ一つ言えることは、帰りたいという感情は沸き起こってこなかったことです。
このまま永遠でもいい。彼女の物語るたくさんの話を聞いていたい。
また一つ彼女は物語を読み終えました。
いつもはすぐに感想を聞くのに、彼女は黙ったままです。
彼女が自分から何かを語るまで、暖炉の火を見ていることに決めました。
「ねえ」
「はい?」
「この世界好き?」
この世界って何のことを言ってるんだろう?
そう思いましたが、すぐに今この場所だと解釈しました。
「好きです。暖かくて、美味しいものもあって、あなたもいるし。ずっとここにいたいぐらいです」
「ずっとねぇ」
彼女の本当に困った顔を見たのは初めてでした。
「わたしは昔、こう考えたことがある。物語は終わるべきじゃない、永遠に続くべきだ。それができない作者は勤勉じゃないんだってね」
私は彼女が語ってくれた物語たちを思い出しました。
楽しかったです。永遠に続けばいいなと何度も思いました。
物語が永遠なら、彼女も永遠に朗読してくれる。永遠にここに居られる。
でも物語には終わりがあるものだし、一つの物語が終わったらまた新しい物語を読み始めればいい。
私はそう思ったのです。
「でも、それって作者さんが永遠に一つの物語を書くことになりますよね」
「そうね」
「無理じゃないですか?」
「そうね」
そこで私たちの会話はしばらく途切れてしまいました。
彼女はしばらく何かを考えているようでした。
突然彼女は立ち上がりました。
「神様が真面目に創った世界で不真面目に生きる人もいる。神様が不真面目に創った世界で真面目に生きる人もいる」
私には彼女の呟きの意味が分かりませんでした。
青い瞳が私を見つめます。
今までが嘘のような真剣な表情でした。
「わたしは勤勉でないばかりか、この上なく不真面目だ」
彼女は書斎机まで歩いていくと、引き出しから一冊の手帳を取り出して、鉛筆で何かを書き加えています。
「何を書いているんですか?」
彼女は答えられないという意味で首を振ると、パタンと手帳を閉じ引き出しに閉まってしまいました。
寂しそうな青い瞳が私を見つめています。
思えばここに来てから、この瞳を何度見つめたのか。それすらも覚えていないのです。
私はここで、とてつもない時間を過ごしたのではないか?
針のない時計がまた鐘を鳴らします。
彼女は名残惜しそうに言いました。
「さようなら」
別れを告げる言葉。
が、わたしにはその意味が分かりません。
言葉のわけを聞こうとしたとき、彼女は顔を歪ませながら私に倒れ掛かってきました。
「どうしたんですか?」
「お腹が痛い、牡蠣が当たったみたい・・トイレに・・」
「は・・はい」
あの素晴らしい経験が、不真面目極まりない顛末を迎える。
いつ思い返しても悲しいばかりです。
私は彼女をトイレに連れて行きました。彼女は足をふらつかせながら個室に入っていきます。
ガチャっと鍵が閉まる音。
この時、本能的に、もう彼女の声が聞けない。たくさんの物語を聞かせてくれた、鈴の音のように冷ややかだけど暖かさもあるあの声をもう聞けない。
そんな不安を感じて、最後に一声聞こうと、彼女を呼びかけようとした時、個室の中からものすごい音が聞こえてきました。
雷と同じくらいの時差で、ものすごいにおいがトイレに立ち込めました。
いい匂いにはうんこの匂いが入ってないといけない。昔、偉い人がそんなようなことを言いました。
私は嗅覚があまり優れているとは思わないのですがとりあえず同意しておきます。
そして、私は次のような仮説を信じているのです。
『えげつないほど臭いうんこの臭いには良い匂いが入っている。』
トイレを覆っていた悪臭は確かにうんこの臭いでした
しかし、かすかながら良いフレーバーが漂ってくるのです。
焼きたてのトーストに真っ赤ないちごジャムを塗った時の匂い。ブドウやレーズンの匂い。黄色いフルーツのみずみずしい匂い。バニラの匂い、チョコレートの匂い。コーヒー、ココアの匂い。アーモンドの匂い。森の匂い、草原の匂い。
気が遠くなるような臭いです。
実際私は気を失って、気が付くと公園の公衆トイレにいたのでした。
こうして私の忘れられない体験は終わりました。
最悪の終わり方です。でも、あの白髪の女の子と過ごした時間は私にとっての唯一の現実といえましょうか。他のすべてが霞んで見えて、未だ夢から覚めない心地です。
あれ以来、今でも新月の夜に何度もお堂に行くのですが、あの不思議な世界には行けていません。
あの楽しかった物語が終わって、また新しい物語が始まるといったことは、私に限ってはなかったようです。