ルサンチマン
幕末から明治にかけての騒乱は、人々を近世から近代に覚醒させて、因襲固陋から解放し、利便な機械と道具をもたらしたのかもしれない。あるいは、世界的に逃れることのできない戦争の世紀への入り口に、この国を、やっと立たせることに成功したのかもしれない。
たった10年余りのその期間は、陰惨で血に塗れた数々の事件と変を同時に世間に紹介し、ある者には恐怖を、ある者には歓喜を与えた。後世に喧伝されるほどのことが、その短い時間の中で、シャボン玉の泡のように生まれて消えた。
「ぱん!」
宙を舞うさぼんの玉を指で掴まえて弾いた。
「ぱん!」
着流し姿のその男は、さぼんの玉を掴まえて弾く度に、大きな声を立てる。
「ぱん!」
「うっくやすとぐらしか。」
隣に来た男の声に驚いて、子どもたちは逃げて行った。
「ひんにげていきもしたな。」
「田中さん。おいはてんごのかわしよったわけじゃないき。」
さぼんの玉を弾いて、子どもたちと遊んでいた男は、立ち上がろうとするが、田中と呼ばれた男がそれを制した。
「ムクユはおいの村にもずんばいありもしたな。」
「土佐はヂクノミといいちょりました。」
さぼんの玉はムクロジの実から作る。
「都のこどんはえずいの。」
田中は薩摩の人間だった。薩摩の子どもたちもムクロジからさぼんを作って遊んでいるのは、京都の子どもたちと変わらない。
「宿が行きますか。」
「おいが、岡田どんを呼ばいに来たば、忘るったが。」
着流し姿の二人は、足取りも軽やかに、定宿へ向かった。二人が歩く京の町は、静かだった。今から遡ることひと月程前、四条河原に、九条家の臣、島田左近が梟首された。かといってそれは、官憲による刑罰でもなんでもなく、全くの誰の仕業かも分からない私刑であった。ただ、島田が梟首された青竹には、島田の悪事を述べる斬奸状が挟んであった。京の町の人々が、静かなのは、島田の梟首事件が原因というわけではない。ひと月程経ったこの頃には、人々の中には、島田の梟首を火付強盗の類と捉え恐怖する者、幕府とは異なる勢力による政治事件と捉え憂慮する者、京の町を騒がす不届きな仕打ちであると怒り迷惑がる者、など様々な人たちがいたが、四条河原に押し寄せる見物人の人数はその数を知れなかったという。その中の九割は、見物人の見物人であり、島田が梟首された意味も理由も、直接的には関係のない者たちであった。
「遅くなりもした。」
田中と岡田は宿に着くと、下駄を脱ぐなり、そのまま座敷へ上がって行った。
「岡田は掴まったかな?」
「さぼんで遊んでござった。」
田中と岡田が帯刀を抜いて膝の上に置いた。
「本間を斬ってきてくれないかな?」
「本間というとあの本間にございもすか?」
「ああ。あの本間だ。」
「分かりもした。」
「斬奸状はこれに。本間は島原辺りにいると思う。」
田中と岡田は再び、腰に刀を差して、下駄を履き、宿を出て行った。
「岡田どんは、武市さとなして話しもさん?」
「訛りがでちゅうきに、づかれる。」
島原遊郭は下京にある。
「おいたちも、遊びもはん。」
「おいは本間を探しよる。」
「待ち。」
田中は岡田を無理矢理連れて茶屋へ上がった。
「ごめんやす。」
「ようお越しやす。」
しばらくすると、遊女が二人来た。
「旦那はんは薩摩の人おすか?」
「左様にごわす。」
「お訛りをお隠ししはっても分かりおすえ。」
田中は、酒をいくら飲んでも酔うことはない。
「こちらはんは、えらい無口おすな?」
「訛りがげんねこじゃと言いよるが。」
「おいはめんどい言うとるわけじゃないきに。」
「こちらはんは土佐の人どすな。」
「土佐者も来ゆるかや?」
「近頃、よう見はりおすな。」
言葉というのは何となく通じるものである。
「ほな。これで。」
「また、お越しやす。」
茶屋から出ると、辺りは夕暮れであった。
「本間はどうするつもりかや?」
「さあて。入り口で待ちもすか。」
幸い二人は本間の顔を知っていた。岡田と田中は島原遊郭の入り口戸の所でそれとなく張っていた。
「あそこから来ゆうが、そうじゃなかが?」
向こうから提灯を持ってゆらゆらと歩いて来る長身、長刀の男がいた。どうやら酔っているらしい。
「間違いありもはん。」
二人は手拭いで頬っ被りをすると、本間の後を追った。
「本間至誠先生にござるな?」
1町程の間に、田中が後ろに、岡田が前に回り込んでいた。左右は町屋で逃げ場はなかった。
「何事か。」
それが本間精一郎の最期の言葉となった。本間は夜のうちに、島原遊郭から枳穀邸の横を通って、六条河原に、斬奸状と伴に梟首された。岡田こと岡田以蔵と、田中こと田中新兵衛は、この年と翌年にかけて、このようにして、何十件以上の暗殺事件を起こした。
「岡田どんは、なしけ、尊王攘夷ばしよる?」
六条から少し離れた河原で、本間の血で汚れた刀を洗いながら、田中が尋ねた。
「なしてかいや…。」
岡田に世情の難しいことは分からない。そのようなことは、武市半平太のすることだった。岡田は自分の生きる場所を探して、武市の土佐勤王党に加わった。以蔵の能は、剣の腕だけだった。その後、ただ、武市の言われるがままに、剣を振るっているに過ぎない。それが岡田に衣食住を与え、ときに武市の説く勤王というものの残り滓を味わえるときもあった。
「武市の兄さが言うとるきに、本間は悪人に違いなかが。」
疑問がないわけではないが、それは些細なことである。何が悪人で何が善人かは分からない。岡田にとって、天誅を下す悪人たちの罪状は、武市らによって、あとから加えられるに過ぎないし、同士たちの噂が真実である。ただ、この本間精一郎という人物には岡田も会ったときがある。武市半平太らと伴に、酒席を同じくして、尊王攘夷について雄弁に語り合っていた。しかし、彼は土佐藩の屋敷に寓居して、厄介になっていたと思いきや、いつの間にか、薩摩藩の屋敷にいたり、尊攘派の公家の屋敷にいたりした。
「彼らの勤王の志は低い。未だ武を以て、夷狄を制すること能わず。」
本間が酒席で言う彼らとは、幕府のことであり、土佐藩、薩摩藩のことであり、尊攘派の公家のことであった。
「あのような者を厚顔にして無恥というのだ。」
酒席が終わったあと武市はそう言ったことがある。他人に尊王攘夷を説く割には、本間は島原遊郭で遊んでいるだけであった。しかも、その金は勤王を説いて、土佐藩や薩摩藩からもらった金であった。
「本間は衆人を惑わし、奸謀を企んだ。」
斬奸状にはそう書かれていた。岡田には、漢語は分からない。ただ、岡田にとって、本間は気に食わない者の一人であった。それが今回の相手だっただけである。
「わしらにとって気に食わんもんが、悪人なんじゃなかか。」
そして、その悪人に天誅を下すことが、尊王攘夷である。概ね、岡田の理解はそのようなものであった。
「おいは、船頭をやっとりもした。」
田中は薬種問屋の倅で、店は唐、琉球からの船荷取引を扱っていた。密貿易である。しかし、藩内の騒動で生家が没落し、代わって薩摩の豪商、森山新蔵の所で船頭になった。
「森山どんが株を買てくるりもして、侍になりもした。」
森山新蔵は薩摩藩の西郷や大久保などを資金面で援助して、自らも息子と同じ憂国を士であった。森山自身も士分格であったが、身近な者にも侍株を買い与えて、侍にし、剣術を習わせて、子飼いとしていた。しかし、このときから、遡ることみ月前に、薩摩藩主、島津忠義の父、久光が、京の寺田屋で、挙兵を企てていた薩摩藩、尊攘激派の藩士たちを粛正するという事件が起こった。後に寺田屋事件と呼ばれるその騒動で、森山の息子、新五左衛門も切腹し、当時軟禁中だった森山も、その翌月に自害した。森山の死は、京の町の田中たちのもとへも届いていた。
「おいどんたちは、尊王攘夷の魁にごわす。」
先月の島田左近暗殺も田中の仕業だった。島田暗殺に岡田は関わっていない。田中と岡田が会ったのは、その後のことであった。
同じ、使われる身の上であっても、田中の方が、ほんの少し、思想信条を持っているぶんだけ、岡田には立派に見えた。岡田は、自分を絵双紙に出て来る勧善懲悪の士だと思っていた。
「尊王攘夷とはなんぞ?」
本間精一郎の暗殺の後、しばしば、岡田は田中に、尊王攘夷のことを聞くようになった。
「武市さに聞っもした方がよかなかか?」
「武市兄さの言うことは難しゅうて分からんが。」
武市の言うことは立派である。しかし、その内容は岡田には理解できない。武市も、岡田に理解させようとして話しているわけではなく、武市にとって、岡田は、ただ黙って働いていれば良いだけであった。
「攘夷ともすは、異国をやっつくいことにごわす。」
「それは知っちゅう。」
「尊王ともすは、帝を敬っことにごわす。」
「それも知っちゅうが。」
「何が分かったないじゃ?」
ルサンチマン。『妬み』や『恨み』を意味する言葉である。尊王佐幕、尊王攘夷、勤王討幕。それら、一連の行程が結実して、明治という文明が開化した。その開化行程は、時代思想と行動原理に基づく過程の集成である。しかし、この世には、純粋な思想や行動原理というものがあるわけはなく、田中や岡田が意識的か無意識的か、それに気づくかに関わらず、彼らは一様に感情の奴隷であった。それは、田中と岡田に限らず、後に、明治政府の中枢に至る人物たちも、また同じことである。彼らは、多少言葉が通じなくとも、その心は通じ合えるし、目的を共有することもできる。だが、そこに至る過程と感情までは、なかなか、理解し合えるものではなかった。そして、そこにあるルサンチマンが、また、利害を生み、育てることもあるのかも知れない。
その後、田中が一時、薩摩へ下向したこともあり、京の町を騒がす天誅事件に際しても、二人は顔を合わせることはなくなった。
「都はどげんごわした?」
「やっけもんがのさっといごわすが、のかすのいすったんぼっくんすっど。」
「おやっとさの。けんど、えれよかしひてし、やっけごっが、うこして、のさっごわす。みやくい、ひとんしきいかかっとは、ひといっやむい。」
「攘夷ばどげんすかい?」
「攘夷は、つづくいもんす。ひときいはやむい。小松どんもそういっもんす。」
「分かりもした。」
「えれしも、みやくい、かってにはっいきもしたことは、がっといもさん。」
田中は、小納戸役頭取の大久保利通と話していた。大久保は薩摩藩内にあって、政務に参じながら、上士と下士の橋渡し役として、自ら機能していた。大久保は藩内攘夷派の梁山泊ともいえる精忠組の立役者であったが、彼自身は、藩主を抱いての挙藩勤王を目指していた。一方、田中らは、性急な攘夷の魁を目指し、脱藩上洛した一人であった。
「田中は、どげんした?」
「分かりもした言っごわした。」
「分かっいっもしても、分かっもんじゃごわさんが。」
「いっとかは、こっちで、よしみっみらんならとおもっごわす。」
「下士のにせどんしことは、大久保どんにまかしもす。」
「かいに、小松さは、みやこと御前のことば、たのんもす。」
藩校造士館の一隅で家老、小松帯刀と別れた大久保は、演武館の方へと向かっていた。
「わいは、まだおったが?」
先程、話していた部屋の中に、まだ田中は座っていた。
「攘夷はいっかあやいだすんでごわすか?」
攘夷はいつから始めるのか。田中のこの質問は、世の中の攘夷志士の全てが思っていたことである。
「おまはんは、なしけ攘夷ばしよるか?」
少しだけ、間を置いたあと、顔をしかめつつも、大久保は仕方なくそう言った。
「はよやどさかいっなせ。」
田中の返事には期待せず、そのまま大久保は演武館の方へ歩いていった。田中はしょうがなく、刀を手にして家へ戻っていった。
攘夷はいつから始まったのだろうか。このとき、薩摩藩は公武合体を推進していた。大久保は藩を挙げての挙藩勤王を、国父、久光は公武合体による佐幕勤王を目指していた。彼らは必ずしも攘夷は、過程ではあっても目的ではなく、政治参与が主目的であった。
「(攘夷、攘夷とやかましもやかましか…。)」
演武館で、洋式砲術訓練の様子を見ていた大久保は思った。洋式砲術と言っても、高島秋帆伝習の御流儀砲術である。攘夷という言葉は、夷狄、すなわち、外国勢力を打ち払うという意味である。しかし、実際には、その言葉の意味は、使う人によって様々であった。徳川将軍家による幕府政治に対する反抗の意味で使う人もいたし、開国の対置語として、もとの鎖国政策への回帰の意味で使う人もいたし、単なる現状に対する不満の捌け口の意味で使う人もいた。
おおざっぱに括るとするならば、第一の意味で使う者が、大久保や小松たちとすると、第二の意味で使う者が、時の帝や穏健派の公家たちであり、第三の意味で使う者が、田中や岡田たちであった。しかし、実際、人々の心の間に、そのような区分があるはずもなく、皆の頭の中で、それらは渾然一体となって、分かりにくいものにしていた。だから、攘夷の始まりはいつからかと聞かれても、それは、今から30年程前に出された幕府の異国船打払令であるとも言えるし、3年前の大老、井伊直弼の暗殺であるとも言えるし、昨年の田中による島田左近暗殺であるとも言える。
それらの中で、純粋に攘夷=外国勢力の打ち払いという意味で、その始まりを朝廷と幕府に求めたのが、長州藩の尊攘派志士であった。京の町で武市や岡田、田中らの起こした佐幕派人物の暗殺事件により、朝廷の実質的支配権力を握った彼らは、尊攘派公卿と結び、将軍、徳川家茂の上洛に際して、朝命を以て幕府に攘夷決行を迫ったのである。
「幕府衆は五月十日を攘夷の期日とへずすったとでごわす。」
但し攘夷決行は無益な戦争の始まりである旨を付け加えた上で、幕府からの通達が諸藩に廻って来た。
「どもこも、高崎がいっもすは、勅命はまげもんいっ噂もごわすげな。」
「われ公卿衆がたばかりもしたかや。」
「どげんかせんといきもはん。」
「公卿衆のだいがわれことしたばかりごわすか?」
「高崎のいっよるは、姉小路と三条の二人が奸物いっもす。」
「どっちんか、いっぽ、どげんなりもはんかが。」
「田中にやらせもすか?」
「あいっがうけいるいもすか?」
幕府からの通達を前に、大久保と小松が話し合っていた。二人の前には、幕府の通達と、もうひとつ、京都の薩摩藩邸からの書状が置いてある。
「おまはんは都の藩邸い行っがよか。」
それから、少しして、田中は上洛を命じられた。
「田中さん。都にもんてきちょったがか。」
「たたいまひんもどっとりもした。」
土佐勤王党の居所に行くと、岡田がいた。
「岡田どん。おいは攘夷ばやむい思っごわす。」
「なしてかや?」
「おいは、おいがなしけ攘夷ばしっよるかわするっごわした。」
田中は、大久保に、なぜ攘夷をしているのかと聞かれたとき、即座に返答できなかった。そして、それは今も同じである。尊王攘夷というのが、この時代の思潮であったと言っても、実際にそれを体現する者と追従する者とでは、大きな違いである。今まで田中は、自分が前者だと思っていた。しかし、大久保に質問されたことで、自分は後者であったことに気が付かされた。それと同時に、生家を没落させたり、森山を死に追いやったりした藩政治に対する恨みが、自分を尊王攘夷に駆り立てているということに気付いた。
「いっとばっかいひときいはやむいっ。」
「そいはまっことの話がか?」
田中がそう言ったとき、岡田は、まず始めに偽りだと思った。そして、次に、この男は人斬りを止めても生きていけるだけの豊かさを持っているのだろうと思った。そして、最後に、この男は俺には無関係だと思おうとした。しかし、何故かそう思おうとすればするほど、田中に対して怒りが湧いて来た。それは、岡田の田中に対する妬みであり、似ているが故の嫌悪であった。
「おいはいっとか錦小路の藩邸におっ。」
岡田と田中。そして、他数名で島原遊郭へ上がり、酒を飲んでいた。以前に京にいたときは、どんなに酒を飲んでも、酔いつぶれることのなかった田中が、今宵はめずらしく、酔いつぶれて眠っていた。
「こいじゃあ、ただのようたんぽじゃきに。」
座敷の畳の上には、田中とその佩刀が転がっている。
「いうたきいかんちや。」
一緒にいる者の多くは土佐者である。
「そんで、姉小路っちゅう公家はいつぼしきるがや?」
「ほたえなや。隣に聞こゆうが。」
「武市さの言いよるが、姉小路はへごな急に心変わりしよったがと。」
「ぞんがい、おぢたのじゃろう。ずんないのう。」
「薩摩がなにごとか企んじゆう噂もあるぜよ。」
噂というものの多くは人々を納得させる作り話であることが多い。
「田中は、薩摩の間者じゃなかろうぞ?」
「間者にしては、すがたりんのう。」
「どいたち、田中は薩摩の藩邸にいる言うとったやき、ようだい知られゆうは、のうが悪かろうぞ。」
「やんがてまぎるぞな。」
土佐勤王党の連中は、眠っている田中を尻目に話を進めていた。田中の横では、岡田が黙って自分の刀を見つめていた。
その日、姉小路公知は、御所での朝議を終えて、自邸へ帰る途中であった。
「今日の朝議はまた、ずいぶんと長いことかかりおしたな。」
時刻は既に深夜である。下男の一人が提灯を持ち、もう一人は太刀を持って、姉小路に随伴していた。
「あっ!?」
御所の北東の鬼門にある猿が辻に差し掛かったとき、先頭の下男が提灯を落としてうずくまった。
「だんないか?」
姉小路は下男の草鞋の紐が切れたのだと思った。
「ひゃあ!?」
後ろから大声が聞こえたかと思うと、背中に衝撃が走った。振り向くと、暗闇の中で、男が立っている。月明かりに煌めいているのは、白刃だと思った。姉小路が、自らの右肩を触ると、湿っぽかった。鼻先には、血の臭いがしていた。
「無礼者!」
姉小路は咄嗟に御所の壁を背にしたが、太刀を持った下男の姿はない。
「わしを姉小路と知っての仕打ちかいな?」
呼びかけても返答はなかった。傍らでは、下男の一人が刺客と揉み合っている。
「しゃあないわ。これで相手したる。」
姉小路は懐から扇子を一本引っ張り出した。その後、途中で刺客が逃げたこともあり、姉小路は傷を負いながらも自邸の門前まで歩いていったが、屋敷を前にして力尽き倒れ、そのまま息を引き取った。尊攘派公卿の巨頭の一人である姉小路の暗殺事件は、京の町だけでなく、江戸の幕府をも揺るがせた。先だって幕府は、奥州浪人、清河八郎の献策を容れて、将軍護衛の浪士組を結成したが、清河が攘夷決行の兆しを見せたことにより、江戸へ招喚させていた。薩摩藩や土佐藩による公武合体の後押しもあり、政権世論の大勢は、公武合体佐幕勤王に向かっており、長州藩の尊攘派志士と各地の脱藩浪人、公卿の一部が結託して、暴挙を企てているという構図になっていた。昨年から頻発している攘夷浪士による要人暗殺事件を受けて、幕府や各藩も彼らの取り締まりに本腰を挙げてきていた。
「姉小路卿殺害の下手人は不覚にも、その場に佩刀と下駄を置き残していった。」
京都町奉行所は同心や目明を動員して、姉小路暗殺の下手人探索に当たった。土佐勤王党周辺にも、探索の手は及び、前科もある岡田は一時、行方をくらませた。
「こいとは、薩摩の田中が刀じゃなかろうぞ?」
姉小路殺害に使われた兇刃を見せられて、土佐の那須信吾がそう言ったとも、京の町の刀研屋が言ったとも言われる。姉小路殺害現場に残された下駄は薩摩下駄であった。薩摩藩士である田中は、同心に引っ立てられることはなく、奉行所の与力に同行を請われた上で、奉行所を訪った。
「これは、貴君の佩刀にござるか?」
京都町奉行、永井尚志は、姉小路殺害に使われた兇刃を、田中の前に差し出した。
「…。」
薩摩鍛冶、奥和泉守忠重の作刀と思われる刀を前にして、田中はしばらく黙っていたが、刀を手に持つなり、自らの腹を刺し、喉を切り、絶命した。田中の死から、み月足らず後、京の町では、薩摩藩や会津藩ら公武合体派による政変が起き、朝廷を牛耳っていた尊攘派公家たちが追放されて、朝廷の政見は公武合体佐幕勤王に統一された。しかし、同年に起きた薩英戦争を契機としてイギリスと提携を深めた薩摩藩の政治路線は、密かに討幕に傾きつつあった。それはやがて、今まで敵であった長州藩と目的を一にすることとなり、幕府連合との直接的戦闘を経て、明治維新に至るわけであるが、その過程で、武市や岡田もまた土佐藩に捕まり、切腹及び処刑された。
将軍は家茂から慶喜へと代替わりし、徳川家が、政権を朝廷へ返上したあとも、あくまで、旧体制の象徴である徳川家を、その旧勢力と伴に、完膚なきまでに叩きのめそうとする西郷隆盛ら薩長新政府と、旧幕府連合の間で、戊辰戦争が起ころうとしていたのは、武市や岡田の死から3年後のことであった。その頃には、既に、次から次へと何かが起こり、変化して行く世情とその対応に追われる日々の中で、田中新兵衛という者の名を思い出す者はいなかったし、元来、そのような男がいたことを知っている者も、ほとんどいなかった。結局のところ、田中が、姉小路殺害の犯人の一人であるのかどうかということは、150年以上経った今日においても、謎のままなのである。