あてがいようのない世界
個人に一つの世界があり、その世界が現実の苦しみから個人を断つ。妄想だとか現実逃避だとか、そんな声は私には届かない。私の世界と現実があてがうことがあるのなら、それはきっと私の願いがかなったとき。「あの人に会いたい」そんなわたしの願いが叶ったとき。
授業中、久良音の方に目をやると久良音が机に突っ伏していた。起こそうにも私の席から久良音の席までは数メートル離れていて、声をかけづらい。というかそもそもいつものことなので起こそうとも思わないのだけれど。案の定、久良音は先生に肩を突かれ起こされていた。
「伊那野はよく眠たくならないわね」
休み時間に久良音が話しかけてきた。ここで説明するのもなんだけれど、久良音は私の高校で新しくできた親友。そして私達が通ってるのは女子校である。とはいっても、みんなおしとやかではない。かくいう私も、静かなだけでおしとやかとは言えない。人と話さないわけじゃないけど、わざわざ話に行くのは久良音くらいだ。
「久良音が寝不足なだけじゃないの?」
「残念ながら毎日8時間睡眠とってるから寝不足ではない」
「じゃあ疲れてるとか」
「疲れてないといえば嘘になるけど、そんなにだるくない」
「じゃあただ単に授業のの内容わからないから寝てるとか」
「それっすね多分」
こんな他愛もない話をするのが、私は結構気に入っている。もともと友達はいたけど、親友と呼べる人は久良音くらいしかいない。こんな日々がいつまでも続くといいな。
授業が全て終わり、午後のホームルームも終わった。私は掃除当番じゃないけど、久良音は掃除当番だ。一緒に帰りたいから、下駄箱で待つ。待つこと15分、久良音がきた。
「ごめん、遅くなった」
「いいよ、早く帰ろ」
「伊那野ってさ、好きな人いるの?」
下校していると、久良音がそんな事を言いだした。
「女子校に出会いなんてないでしょ」
「いや、中学生のときに好きだった人とか」
「いないよ」
「そっか、私はいるよ」
「へー、だれ」
「教えるわけないじゃん」
「気になるなぁ」
なんて話ながら信号が青になるのを待つ。信号が青に変わる。横断歩道を渡る。青だから渡る。青になったから。渡った、のに。
車が突進してくる。私達の体が宙へ舞う。いや舞うというほどきれいなものではないと思う。なにせふたりとも外傷により出血している。誰かの悲鳴が聞こえてきたけど、意識は朦朧、体は決壊しかけなので、私の記憶はここまでだった。
目が覚めると、見慣れない天井を見上げていた。
「伊那野‼目が覚めたのね」
「母さん?ここは?」
「ここは病院、伊那野と久良音ちゃんが車に轢かれたからここに搬送されてきたの」
「そうだ、久良音は⁉って痛っ」
「バカ、骨折れてんのよ」
「それより、久良音は?」
「...まだ起きてないの」
「そんな...」
「心配しなくても、すぐに良くなるわよ」
母の希望的観測は間違いだった。
久良音は植物人間になってしまった。生きているのか、死んでいるのかわからない状態。でもまだ回復の見込みは少なからずある。それなら、久良音が起きてくるのを待とう。そう決めてからもう20年もの月日が流れた。私の青春は、久良音がいたから成り立っていたのだと、初めてわかった。青春を無くした今だから、そう思う。
何年経っても、私が忘れなかったことがある。それは、久良音との最後の会話だ。
『伊那野ってさ、好きな人いるの?』
実はあのとき、私は久良音に嘘をついていた。あのときの嘘の答えを、今なら提示してもいいかもしれない。幸い、ここ、久良音の病室には私と久良音の2人だけ。
「私の好きな人は」
「あなただったの」
「いえ、今もそうよ。あのとき嘘をついたのは本気だったから」
「女同士だから、冗談で済んだかもしれない。でも私は本気だったの、私だけ本気であなたは冗談のつもりなんて、そんなに悲しいことはないでしょう」
「だから私は、あなたに嘘をついた。こんなおばさんになっていうもんじゃないけど、私はあなたが好き」
だから、、、
「戻ってきてよ。久良音」
それから月日は流れ、私はガンに冒されてしまった。高齢ということと、発見が遅れた事も重なって余命は残りわずか。それでも、まだ久良音は生きている。私が死ぬまでには、戻ってくるといいのだけれど。
先月から車椅子を使うようになった。機械じかけの足で久良音病室へ向かう。
「伊那野?」
懐かしさに老いを足したような声が私を呼んだ。その声の主は。
「久良音?」
私に、私の世界があって、いままで現実と切り離されていたのだとしたら。
今日、世界と現実があてがった。