第五章『傷』
【第五章 『傷』】
突然の鎌鼬で学校はパニックとなり学園祭は中断、生徒達は自宅待機を言い渡された。
ルナ達は未夜に家を突き止められている可能性もあり自宅に戻るのは憚られたため、喜久川佑一の家にお邪魔することにした。正確には押し掛けたと言うべきか。佑一は灰音に首根っこを掴まれ引き摺られるように。
喜久川家の玄関のドアを開けると、偶然前を通り掛かった少女がぱちぱちと目を瞬かせた。いや幼い顔立ちをしているが、確かもう成人しているはず。ルナは何度か顔を合わせたことがある。佑一の姉だ。
「……ぶっ、は!」
知らない少女に首根っこを掴まれている弟を目に捉え、佑一の姉は口元を押さえて噴き出した。そのまま奥の部屋へバタバタと駆けていく。
「おかーさーん! 佑一が捕らえられてるー! あっはははは!」
その足でまた玄関に戻ってきた佑一の姉は、物珍しそうに椎と灰音を凝視する。
「うちの弟が何かしました?」
そう尋ねる彼女の目には、もう笑みはなかった。
灰音は彼女を吟味するように見詰め返したが、すぐに逸らして佑一に目を落とす。
「おい、こいつは何だ?」
「あ、オレの姉です……」
「姉がいるのか」
「兄もいるっす」
「兄もいるのか。全員、違界を知ってるのか?」
「っ!」
違界、という言葉を聞き、佑一の姉は身構えた。これは、知っている者の反応。
「ふ、わかりやすい姉弟で助かるな」
「佑一、あんた何連れてきたの?」
一瞬で険悪な空気になる。椎も警戒し佑一の姉から目を逸らさない。宰緒は興味なさそうに欠伸をしているが、ルナは灰音と佑一の姉を交互に見、狼狽える。
誰かこの空気を打ち破ってほしい、と願っていると、佑一の姉の後ろから、ぬっ、と手が一本現れ、彼女の頭を掴んだ。
「っ!?」
背後には警戒していなかった彼女は、ひっ、と肩を竦める。
「こんな所じゃお客さんに悪いから、中に入ってもらいなさい。ほら、由衣も」
背後から声を掛けられた佑一の姉――由衣は、こくこくと肯く。
その背後から現れたのは、小柄な母親だった。
奥の部屋に通され、それぞれ無言のまま席についた。リビングだ。部屋はすっきりと纏まっており、木製の家具と観葉植物が温かい雰囲気を作っている。
全員が席についたことを確認し、母親は口を開いた。
「佑一、学校は? 今日は学園祭でしょう?」
最初の質問がそれか、と灰音は溜息をつくが、尤もな質問だろう。本来ならまだ学園祭が開催されている時間だ。それが佑一だけでなくルナと宰緒、三人も生徒が帰ってきたのだから、ただの早退のはずがない。
この質問には、やっと首根っこを離され解放された佑一が答えた。
「学校ですっげー鎌鼬が吹いて怪我人続出のパニックになったんだよ。それで自宅待機だってさ。ルナとサクは訳アリで家に帰りたくないって」
「訳あり? まあ、サボったわけじゃないなら構わないんだけど……サク君は初対面よね。名前は佑一から聞いてるわ」
名前が上がり、宰緒は軽く会釈する。
続いて母親は、椎と灰音に目を遣った。
「そちらの方達は?」
やっと本題かと、待ちくたびれたように灰音は勢いよく立ち上がった。
「お前ら、首の後ろを見せろ」
その一言で、母親と由衣は察した。由衣は唇を噛む。
「何よあんた! 違界の人間探して皆殺し計画でも立ててんのか! やるか!?」
「あ? やるのか?」
こちらも勢いよく立ち上がった由衣に、喧嘩腰の応答をする灰音。
「――ひっ!?」
経験の差だろうか、由衣はいとも容易く灰音に組み敷かれ、項の髪を払われる。
「ない……か」
ぼそりと漏らした言葉を聞き、今度は母親が立ち上がった。
「佑一も由衣も、こっちの世界で生まれた子よ。首輪をつけたことはない。あなたの探してるのは、これ――よね?」
自分の髪を持ち上げ、母親はよく見えるように項を見せた。そこには痣のような傷跡があった。ルナと椎は息を呑み、灰音は顔を顰める。
「私と夫――この子達の父親が、違界出身よ。この子達も知ってるわ。面倒なことになるかもしれないから黙ってるよう言ってあるんだけど、あなた達はどうして知ってるの? 佑一が口を滑らせたのかしら」
「お前が違界出身か。なら、殺してしまうか?」
物騒なことを言い出す。灰音に喋らせると話が進まない。
「灰音! ちょっと黙ってろ。俺が説明するから!」
仕方なく説明役を買って出るルナだったが、友達の両親が違界出身だった事実がまだ呑み込めない。ルナは一つ息を吐き、ゆっくりと説明を始める。
夏休み中のイタリアでの出来事、そして最近、未夜という男に目をつけられていること、そして未夜に襲われている所を佑一に助けてもらったこと。
全てを話し終えると、母親は少し考えた後笑顔を作った。
「わかったわ、ルナ君もサク君も暫くウチに泊まっていいわ。椎さんと灰音さんは少し心配だけど……帰ったらお父さんに相談してみましょう」
だがそれに由衣は不服を申し立てた。
「お母さん! この違界人は絶対危ないって! 油断させておいて寝首掻いてくるよ! きっと!」
「でもルナ君は実際暫く暮らしてみてそういうことはなかったようだし」
「私さっき襲われたし!」
「まあ乱暴な所はあるけど、違界の人かどうか知りたかっただけみたいだし」
「でも!」
「それに、野放しにしておくよりは、目の届く範囲で誰かが監視してる方がいいと思うわ。知らない所で知らない間に巻き込まれるよりは」
監視という言葉に灰音は眉を顰める。良い気はしない言葉だ。それでも今は行く所がないし、迂闊に動けない。
同じく快く思っていない由衣は、灰音を睨みつけると、踵を返して部屋を出ていってしまった。
「ルナ、サク、オレ達も部屋行こ。……えーと、椎と灰音だっけ? 二人も来る?」
話も終わったしここにいる理由もなし、とばかりに佑一も立ち上がる。佑一も警戒しているだろうに、表情には出さない。
佑一に招かれ彼の部屋に行くと「しまった! ちょっと待ってて!」と先に一人で部屋に入りバタバタと騒がしく物音があっちへこっちへ走り回る。余程散らかっているのか、ルナ達は廊下でたっぷりと待たされた。
「お待たせー!」
勢いよくドアを開けた佑一の背後の部屋は、綺麗に片付けられていた。ぞろぞろと部屋に入ると、宰緒は真っ先にクローゼットに手を掛けた。
「わー! 何すんの!?」
すぐに佑一が制止に入った。
「どうせ散らかしてたもんなんて押し込んでるだろうなと。開けたら雪崩れてくるかと思って」
「そう思うなら何で開けようとすんだよ! わかったお前鬼畜だな!? キチク!」
「エロ本とか入ってねーかなー」
「入ってねーよ! 大体、あーゆーのはオトナにならないと買えないんだからな! お前不潔だな!? フケツ!」
「何だつまんねーの」
「あ、親父の部屋にならあるよ。親父巨乳派だけど母さん貧乳だか……ら……」
言葉の途中で見る見る青褪めていく。何事だと佑一の視線を辿ると、少し開いたドアの隙間から誰かがじっとこちらを見ていた。
全員に緊張が走る。
「お茶、持ってきたからね、ここに置いておくわね」
「は、はい……」
「おとなしく部屋で遊んでるのよ?」
「か、かしこまりました……」
それだけ言うと、佑一の母は人数分の茶を載せた盆を置き去っていった。戻ってくる気配がないことを確認すると、止めていた息を長く吐き出す。
「俺の所為でお前の親父、死ぬか?」
「いくらなんでもそこまでは……」
苦笑する佑一だったが、
「きゃー!? ちょ、お父さんの部屋から煙が! 出火してる! じゃない! 放火してる! 何してんのお母さん!?」
姉の声で、父に合掌した。
「お前の母親、面白いな。エロ本の隠し場所がわからないからって部屋ごと燃やそうとするんだもんな」
「面白くねーし火種はお前だ」
佑一の父親の部屋に放たれた火は、降り出した雨が幸いして近所に気づかれることなく無事に消火できた。全焼は免れたが、焦げ臭いし水浸しだ。雨が吹き込んだと言っても納得できない有様だ。父が帰ってきたら何と言うだろう。母を刺激しなければ良いのだが。
消火を終え、ルナと宰緒と佑一は顔を突き合わせている。椎はルナの服の裾を持ち、「逆らったら殺される?」と脅えたように尋ねてくる。灰音は我関せずと部屋の隅で銃の手入れをし、佑一に警戒されるが、ルナの部屋でもああだったと伝えると、少し緊張を弛めたようだ。
「なあ、サク。学校では有耶無耶になったけど、フィアンセ放って帰ってよかったのか?」
「元だ、元」
「えっ、何? サク婚約者いんの!?」
佑一も食いついてきた。
自宅待機と放送が流れそのまま帰ってしまったが、宰緒を探していたという元フィアンセとは結局遭遇していない。もしかしたら宰緒を心配してまだ学校中を捜し回っているかもしれないのに。
ルナは出された熱い茶に金平糖を放り込み、からからと掻き混ぜながら口を開く。
「連絡くらい取ってあげれば……」
「青羽は嫌な奴にわざわざ気を遣うか?」
「え? いや……」
「あいつは変態だ。しかも性格が悪い。俺が家に帰らないのは、あいつに見つかる恐れがあるからだ。面倒くせぇ」
てっきりルナに付合ってくれているのかと思っていたが、宰緒にも家に帰りたくない理由があったようだ。それにしても変態とは、随分な言いようだ。
「ってことは、サクが婚約破棄したのか」
「ん? 違う、あいつが破棄した」
「は……?」
婚約破棄していない方が会いたくないと言って、破棄した方が会いたがっているのか?
「複雑なんだな……」
「そんなことねーよ。あいつはいつもストレートでわかりやすい」
「ストレートでわかりやすい変態って何かすげーな」
興味深そうに頷く佑一だが、それは凄く面倒臭そうな変態だなと思う。
「ちょっと会ってみたいっつーか」
「おーおー、是非会いに行って俺から興味逸らしてきてくれ。見た目は美人だと思うから」
「へー、美人かぁ」
「それでボロクソに言われて会ったことを後悔するまでがテンプレだな」
宰緒の言葉に反応し椎が「てんぷれ?」と首を傾ぐので、ルナが簡単に説明してやる。「基本の型、みたいな意味でいいよ」
「そっか、性格悪いんだっけ」
「でも、もしかしたら青羽のことは気に入るかも」
「えっ!?」
黙々と金平糖を混ぜていたルナは、突然出された自分の名前に思わず声が裏返る。
「え、何で……?」
「何かあいつの好みっぽい」
「マジか! やったじゃんルナ! 美人がルナのこと好きかもって! 喜べ!」
「サクの話を聞く限り、嬉しくないんだけど……」
変態で性格の悪い女の子に好かれても嬉しくは……と思ったが、好かれていれば性格の悪い部分は隠すだろうか? と考え、慌てて首を振った。性格がマシになってもまだ変態が残っている。
「私もルナ好き!」
熱い茶を吹いて冷ましていた椎も、突如会話に加わってきた。裏表のない真っ直ぐな笑顔に、ルナは照れ臭くなって顔を逸らす。
「良かったじゃーん! さてはモテ期ってやつだな!?」
「椎の『好き』はlikeの方だろうけどな」
持ち上げられて突き落とされた。
まあ、そういう奴だ。二人共。
* * *
「はぁ……はあ……」
雨音に消される小さな息遣いが草叢から絶え間なく零れる。
それは濡れた地面にぐったりと横たわり、肩で息をする。
周囲は開けていて建物は遠く、近くに人も歩いていない。誰にも気づかれることなく苦しく息を吐くばかり。
「はぁ……はぁ、帰りたい……」
呻くように小さく、息と共に言葉が漏れる。
「一人じゃ……死んじゃうよ……」
腕に力を籠め、地面を押して身を起こす。慎重に両足を地につけ立ち上がろうとし、脚に痛みが走る。
「痛い……痛いよ……」
脚には幾つも傷が走り、羽織った外套も所々破れている。
時間を掛けてやっと立ち上がり、顔に貼り付く髪を払おうとし頬に傷がつく。
「痛いよ……頭が真っ赤になりそうだ……」
ふらふらと草を掻き分け、草と雨の音に混じって水を踏む足音が聞こえた。人だ。学生服を着た少女だ。
フードと髪の間から覗く鋭い目に、傘を差して歩く少女の姿を映す。
ざく、と草を踏むと、少女も音に気づいたのか草叢に目を遣った。
「ひっ……!?」
草叢に潜む者と目が合う。
一瞬の内に何か危険を悟ったのか、少女は傘を捨てて走り出した。必死の形相で、化物でも見たような顔で。
「痛い……痛いの、痛いの……飛んでいけ」
「きゃああああああ!!」
一目散に逃げ出した少女は胴を二つに分け地面に落ちた。夥しい真っ赤な液体が雨水に混じり広がる。
「あーあ、死んだ、死んだ」
ぼそぼそと呟き、少女を真っ二つにした者は、とんっと地面を蹴った。一度後ろを振り向くが、後ろには何もなく再び前を向く。
「気の所為か」
とんとんと地面を蹴り、すぐに雨の幕へと姿を消す。何も目的などはなく。
雨が一層強くなった気がした。すぐそこに落ちている真っ二つの肉塊が霞んで見える。
やばいものを見てしまった。咄嗟に目立つ傘を畳み深い草叢の中に身を隠し息を殺したが、振り返られた時は心臓が止まるかと思った。一瞬くらい止まっていたかもしれない。自分達も殺されるのでないかと。
「もう大丈夫かな……」
「立てるか? 花菜」
花菜は先程からずっと黙って体を震わせ、兄――雪哉に小さな手でしがみついている。妹に抱きつかれるのは嬉しいが、今は素直に喜べない。
「もう大丈夫だぞ、花菜。あいつはもう何処かに行ったし……」
何を言っても花菜は顔を上げない。無理もない、か。花菜の前だから情けない姿は見せられないと冷静を装ってはいるが、目の前で自分と同じ学校の生徒が真っ二つに切断されて殺されるという惨劇を見せられて動揺しないはずがない。
「花菜、負ぶってやるから背中に掴まれ。無理なら俺が抱っこして」
「……」
花菜はのろのろと無言で雪哉の背中に凭れ掛かった。そうか抱っこは嫌か。
「……よっ」
軽々と背負って立ち上がると、花菜は雪哉の首根っこに顔を埋めたまままだ体を震わせる。
「拓真、悪いけど傘差してくれるか? 俺より花菜を濡れないように」
「ああ、両方濡れないようにする」
学校で鎌鼬による怪我人の処置を終え、生徒を帰す放送を流してから校内を見回っていた所、教師に呼び止められ、早く帰るように言われ、花菜を連れ、途中で偶然会った友人の拓真と三人で帰路についた。他の大部分の生徒と同じ時間に帰っていれば、あるいは校内を全て見回ってから帰っていれば、こんな光景には出会さなかったかもしれない。少し前を一人の女生徒が歩いていたことには気づいていた。もう数歩速く歩いていれば、彼女のように皆殺されていたかもしれない。
「……花菜ちゃんには辛いね。オレも結構精神的に来てるし」
「来ない方がおかしいだろ」
「まあ……ね」
「…………」
「…………」
雨音と水を踏む音だけが耳朶に絡みつく。
「……会話。何か、喋れ」
「いや……あの後で何を話せばいいのか」
「いいから! じゃあ、しりとり! しりとりしよう! はい、りんご」
「え? あー……ごはん」
「終わらせんなバカ!」
「ごめん」
「だから、終わらせんな!」
「い、今のは違う! ……えーと、ご、ごま」
「よし、それでいい」
無言で歩いていては花菜が不安になるだろうと、無理矢理でも会話を続ける。今はそれくらいしか、できなかった。
「マウンテンゴリラ」
「らっきょう」
「うきわ」
「ワニ」
「にかわ」
「膠なんてよくさらっと出てくるね。わんこそば」
「ばー、何にし・よ・う・か・な」
「……バニラアイス」
ぽつりと背中から聞こえてきたか細い声に、『バール』と答えかけた雪哉は言葉を呑み込んだ。
「す、すぐ買いに行こう!」
「うん、すぐそこにコンビニもあるし」
「し、しりとりしてたから、それで……ねだったわけじゃ……」
「じゃあ俺と拓真もアイス買って、皆で食べよう。な」
「仲睦まじいな、相変わらず」
二人の様子に拓真はくすくすと笑う。拓真にも兄弟はいるが、こんなべったり仲良くはない。
それからまたしりとりを続け、コンビニに向かう。花菜の震えはもう大分収まっていた。
* * *
佑一の提案でテレビゲームに興じていた一同は、部屋をノックする音にぴたりと動きを止める。
「はいはーい、どーぞー」
コントローラを握ったまま佑一が応えると、徐ろにドアが開いた。
「あ、お客さん?」
現れたのは、全身雨に濡れた少年だった。
「わー!? え、どしたの拓真!? 傘は?」
コントローラを放り出して駆け寄ってきた佑一に苦笑し、部屋の隅で銃を整備している灰音に気づきぎょっと強張る。
「父さんの部屋は焦げてるしユウの部屋は物騒なお客さんがいるし、一体どうしたんだ? 土足だし……」
「え? わわっ、椎と灰音土足じゃん! 靴脱げって!」
今気づいたようだ。だが本題はそれじゃない。
佑一では話が進まないと思ったのか、拓真はこの中では唯一顔を合わせたことのあるルナにちらりと視線を送る。ルナもすぐに視線に気づき、軽く頭を下げた。拓真は佑一の二つ年上の兄だ。
ルナが椎達と現状の説明をし終えると、父親の部屋の有様については佑一が説明役を受けてくれた。
「親父の部屋すげぇだろ!? 母さんがエロ本探して、見つからなかったから火つけたんだぜ! それで、皆で消火した!」
拓真は頭を抱えた。危うく帰る場所がなくなる所だったとは。
「父さんの部屋をいくら探しても本は出てこないよ」
「そうなのか?」
「父さん、オレの部屋に隠してるから」
「えっ!?」
「あー、何か無害そうだもんな。何となく」
カチャカチャと端末を弄りながら、宰緒も横から会話に加わる。
「あれだ、何か草食ってやつ? っぽい」
「何でオレ、初対面の人にこんなこと言われてるんだろ」
「確かに拓真は草食かも! 肉あんま食わねーで野菜よく食ってる!」
「いや違う、そうじゃない」
「え? 違う?」
佑一が頭に疑問符を乱立し始めたので、拓真は、この話はもう終わりだと一度軽く手を叩く。
「今度はオレの方から言わせてほしいんだけど」
「あ、先に風呂入ってくれば?」
「ああ、後でね。なるべく早く話しておいた方がいいと思うから……母さんやユイにも後で話す」
先程までの柔和な表情とは変わって真剣な表情になった拓真に、ふざけた話ではないことを悟る。
「違界の人もいるみたいだし、何か心当たりがあれば言ってほしいんですけど」
違界。その言葉に灰音の眼光が鋭くなる。
「さっき、両手に大鎌を携えた人……らしき者が、女生徒を一人、殺していました」
「!?」
息を呑む。人が殺されたなんて聞かされるとは思いもしなかった。
「それで、その鎌持った奴は?」
冷静に聞き返したのは佑一だった。まだ実感が湧かないのかもしれない。
「去っていった。それと――鎌を持った、とは少し違うかもしれない」
「?」
「はっきりと見たわけじゃないんだけど、腕がそのまま鎌になってたような……」
「は? 腕が鎌? 見間違いじゃねーの? 動揺してさ」
「そう……なのかな」
煮え切らない返事。ルナは落ち着きなくそわそわし、宰緒も端末から顔を上げ耳を傾ける。椎はやや不安そうに、銃の整備をしていた灰音は手早く銃を組み立て弾を装填した。
拓真に目を向けられ、灰音は考えるように目を伏せ、椎はやや自信がなさそうに、呟くように言った。
「畸形……かもしれない」
「畸形……?」
拓真は眉を顰める。
「畸形と言うより、キメラの方がしっくり来るけど……」
「こっちの世界の畸形がどんなものなのかは知らないよ。でも違界の畸形は、腕が鎌になっててもおかしくない。別の生き物の一部が表層に現れたり、内部に根付いてたりする。色んなのがいるから例を挙げにくいんだけど、きっと鳥の翼が生えた畸形もいるんだろうなぁって思う」
最後は椎の願望だろうが、イメージは掴めた。
だとすると。
「両腕が鎌ってことは……カマキリ、とか?」
真っ先に思いついたものを口にすると、皆口を噤み、しんとなった。間違っていたのだろうかとルナは椎を見るが、彼女の青褪めた顔で、そうではないと悟る。
宰緒も頬杖を突き、ぽつりと漏らす。
「ってことは、捕食したりすんの? 人を殺して食うとか」
恐ろしいことをさらりと言ってのけるが、拓真は目を伏せ首を振る。
「偶々かもしれないけど、オレが見たものは食べてなかった。殺してすぐに去っていったよ」
「あの……」
恐ろしい会話を怖ず怖ずと裂くように、椎が小さく手を挙げた。
「例えカマキリの畸形だったとしても、食べたりはしないと思う」
「そうなの?」
興味津々で耳を傾けていた佑一は首を傾ぐ。
「だって、違界の人は何も口にしない……」
その一言でルナと宰緒は合点がいくが、どうやら佑一と拓真は違界のことをそこまで詳しくは知らないようだ。ルナが補足すると、二人も納得したと頷く。
「違界の汚れた空気の中にある食べ物は全部毒みたいなもので、その空気を吸ってる人間も毒みたいなものだから、わざわざ毒を食べることはしないし、できない。だから、そのために首輪があって、そこから食糧を得る。もし畸形だとすれば、違界出身は間違いないし、口で何かを食べるってことはないと思う。
「佑一達みたいに、こっちの世界で生まれた可能性はないのか?」
「畸形だとすれば、ない。畸形は違界の空気の中じゃないと生まれないんだよ」
椎の言葉を噛み締めるように何度も頷く佑一と拓真。ルナも頭の中で言葉を纏める。
頭の回転が速い宰緒は、すぐに次の質問を纏めてきた。
「じゃあさ、その仮にカマキリの畸形が、虫みたいな脳味噌しかねぇっていう可能性は?」
カマキリの何十倍もある人間が、両腕に大鎌を装備した人間が、虫レベルの脳味噌? 恐ろしい質問に三人は身を竦めるが、椎の答えは残酷なものだった。
「その可能性はあるよ。複数の生き物の特徴を持った畸形もいるって本で見たし、異常が一つとは限らない」
「滅茶苦茶、質悪ぃな」
「でも逆に、普通の人より頭が良い可能性もあるよ」
「頭のキレる奴がばっさばっさ人斬るのも質悪ぃけどな」
どう転んでも質が悪い。
質問が途切れた所で、今まで考え込んでいた灰音が徐ろに口を開いた。
「その畸形が何者かは知らないが、野放しにしておくのも厄介だ。そいつと未夜をぶつけるってのはどうだ? どっちが勝つか、或いは相打ちか。互角だった場合、どっちも大分弱ってるはずだ。そこをちょいっと、殺す」
「軽率に殺そうとしないでください」
「未夜を呼び出すのは簡単だろ? ルナは目つけられてるし、えーと、何だ、玉城花菜にも根回ししときゃすぐ捕まんだろ」
「あんまり玉城を巻き込むのは……」
賛成できないと首を振るルナに、灰音は大きな舌打ちをした。
だがルナ以上に、拓真が反対を提示する。
「花菜ちゃんも係わってるのか? だったらもう、花菜ちゃんを違界のことに巻き込まないであげてほしい」
「は? 何でだよ」
不満があるわけではなく、反発されたことに灰音は眉を寄せる。
「大鎌で人が殺される所に、花菜ちゃんもいたんだ。オレとユキと花菜ちゃんで帰ってたから」
「え……」
ユキというのは花菜の兄の雪哉のことだ。以前そう呼んでいるのを聞いたことがある。いやそれより、花菜がその場にいたというのは? 人が殺される瞬間を、見ていた……?
「花菜ちゃんは学校での鎌鼬が起こった場所にも居合わせていて、ユキに助けられたらしい。でも避けきれずに頬に掠り傷ができてしまってて。家に着く頃には震えは大分収まってたんだけど、一人になると途端に脅え始めて、ユキが付きっきりになってるんだよ」
花菜に頼られて嬉しい。けど喜べない。でも嬉しい、と言っていたが、これは伏せておこう。ただのシスコンだ。
「巻き込まれ体質か? 面倒くせぇな」
「鎌鼬の方は詳しくは知らないけど、そのカマキリの人が絡んでるってことは……」
鎌という言葉の繋がりに可能性を口にするが、誰かを見たという情報はなかった気がする。皆の目に映らないよう素速く鎌を振るったのか?
「鎌鼬の件なら、ユキが詳しいと思うよ。あの場にいたんだから」
「でも玉城が……」
「ユキは案外平気な顔をしてるから大丈夫。精神的に来てるのは皆同じだけ……っくし!」
濡れた制服のままで立ち話をしていた所為だろう、倒頭くしゃみが出た。
「拓真やっぱ先に風呂入れって」
「うん、ごめん。そうする。さっきアイス食べたし体が冷えたのかな」
「何してんだ」
軽く頭を下げ、拓真はぱたぱたと部屋を出ていった。
暫く沈黙が流れ、重い空気が伸し掛かる。
知らない所で何か大変なことになっている。この場の誰もその場に居合わせていないため具体的なことはわからないが、死人が出ているのは実感がないにしろ危険だ。灰音の提案通り、違界の人間を探している未夜と鎌の者をぶつけるのが得策だと思うが、もし、拓真が見たものが腕が鎌ではなく手に鎌を持っていただけだとしたら。違界の人間ではないのだとすれば。違界の人間でなくとも殺人を犯したという事実に違いはないが、それなら警察に任せればいい。未夜を嗾けるにしても、怪しまれているルナの言葉は信じてもらえないかもしれない。それは宰緒や、相対した佑一も同じだ。椎も灰音も姿を見られている。全くの初対面であろう拓真に頼むこともできない。巻き込みたくないと言いつつ、やはり適任なのは花菜だ。でも花菜は頼める状態ではない。明日けろりと学校に来るかもしれないが、たった一日では記憶が鮮明すぎるだろう。
どうしてこう、次から次へと問題が起こるのだ。どうして連鎖してしまうのか。
「とりあえず、ゲームの続きする?」
どうして佑一に緊張感はないのか。
眉根を寄せて考えていてもわからないのなら。コントローラを握って一度頭の中を空っぽにしてしまうのもいい。頭の中の靄が晴れるまで。
* * *
目の前で同じ年頃の女の子が、真っ二つになった。
すぐに異変に気づいて必死に逃げたのに、すぐに追い着かれて引き裂かれた。
兄ちゃんが、草叢の中に光るものが見えて嫌な予感がすると私と喜久川先輩を連れて草叢に入り、傘を畳んでじっとした。鎌鼬が起こった時にも光るものが見えたと言っていた。
草叢で音を立てず雨に打たれながらじっとしていると、目の前の草叢から何かが飛び出して女の子を切り裂いた。兄ちゃんに言われて草叢に潜まなければ、同じように真っ二つになっていただろう。
ただの掠り傷なのに、鎌鼬で頬についた傷がズキズキと痛んだ。気の所為かもしれない。でも痛くて、蹲るしかできなかった。
誰かが傍にいると安心して、一人になると突然恐怖に襲われる。一人が、とても怖い。またあんな光景を見てしまうんじゃないかと脅えているのだろうか。でもそれは、一人だろうと何人いようと同じことだ。なのに、この寒気は何なのだろう。
「花菜ぁー、遅くなってごめんなぁ。さすがにトイレに一緒に花菜を連れて行くことはできないからなぁ。風呂なら俺はOKなんだけど」
最後は花菜に聞こえないようぼそぼそと小声で言い、花菜が顔を埋めているベッドの端に腰掛ける。
こんなに精神がボロボロになって力なく横たわっているのに、何をしてやればいいのかわからない、と雪哉は嘆く。友達が周りに多くいる方が気が紛れるなら明日学校に行ってもいいと思うが、外に出ることを脅えるなら学校を休んで傍についていてやりたいと思う。またサボリですか会長! と怒られるだろうが、そんな小さなレッテルより妹の方が大事だ。比べられるはずもない。
「花菜、テレビ見るか? 少しは気が紛れると思うぞ。リビングに行くのが面倒ならテレビを運んできてやるからな。それともアイスか? 余分に幾つか買ったからな。食いたくなったらいつでも言え。あ、そうそう、花菜の作ったメイド……じゃない、ウエイトレスの服、凄かったな。さすが花菜! 凄……」
……凄く独り言だ。
何も反応を返してくれない。
「あー……しりとり、するか? り……リチウム電池」
何でしりとりしか思いつかないんだ! この頭は飾りか!? 飾りか! しかもリチウム電池って! 咄嗟に出る言葉がリチウム電池って何だ!? もっと可愛いのがあっただろ! リスとか! そうだリスだ!
「……兄ちゃん」
「!? はい!」
今まで全く反応のなかった花菜から突然声を掛けられ、びくりと肩が跳ねた。
「ありがとう……」
「!」
突然の礼の言葉に、何に対しての礼かと考えるが、何に対してかなんてどうでもいい。花菜が礼を言ってくれているのだ、それがわかれば充分だ。
「私、鈍くさいから……」
「花菜が悪いわけじゃない。それに、花菜が危ない目に遭うなら俺が全部助けてやる。だから安心して俺に守られろ」
ベッドに突っ伏す花菜の頭を優しく撫でる。
「うー」
「っいて」
突っ伏したまま両脚を振り上げ背中を蹴られた。照れ隠しかと雪哉は笑う。先程トイレに籠って全部吐き出してそれでも気持ちが悪かったが、花菜がいてくれるだけで癒される。
* * *
テレビゲームに集中し、畸形のことは頭の隅に追い遣られた頃、拓真が風呂から上がり、「先に入るわ」と宰緒が入れ替りに風呂に行った。
それからまた暫くテレビゲームに熱中していたが、佑一がふと「あ」と声を上げた。
「サクって着替え持ってないよな? タオルは脱衣所にあるけど」
「そうだな。家に寄ってないから泊まる用意は全然」
「オレの服だと小さすぎるよな? 拓真の服でも小さいか。サクでかすぎて困る」
「ユウは小さいからな」
「ルナとそんな変わんねーじゃん! ……ルナの方が少しでかいけど」
「サイズが大きい服は? 何かないのか?」
「あー、じゃあ拓真に何か借りて持ってってよ。オレ今ちょっとコントローラ離せない。初めてとは思えないほど椎が強い」
「ゲーム面白い!」
椎はなかなかセンスが良いらしく、先程から対戦ゲームで佑一を翻弄している。丁度今はルナはコントローラを持っていないので、宰緒に着替えを持って行く役を引き受けた。
だが拓真の部屋に行き、サイズの大きな服を見繕うも、やはりそれも限界がある。できるだけゆったりとした服を選ぶが、ルナ達にはゆったりでも宰緒が着ればどうなるのやら。
着替えを持って脱衣所のドアを開けると、丁度宰緒が風呂から上がってくる所だった。
誰もいないと思って完全に油断していたのだろう、タオルを肩に掛け浴室から出てきた宰緒はびくりと体を強張らせ慌ててタオルで体を隠そうとする。だがタオルが小さくて殆ど隠れない。
男同士なんだしそんなに慌てることじゃないのに、と笑いかけ、ルナの表情も強張った。
「え……?」
いつも長袖と長ズボンに覆われていた宰緒の肌を見たのは初めてだった。一年中肌を隠しているので色は白く、それはあまりにもはっきりと浮き上がっていた。
「サク……何だ、その傷……」
体育も頑なにジャージを着用し、プールは常に欠席、徹底して肌を隠してきた理由は――
「……見るな」
棚からバスタオルを引っ掴むが、バスタオルでも全身を隠すことはできない。宰緒の肢体には、あちこちに痛々しく傷跡が浮かんでいた。
「服、貸せ」
「あ、ああ、うん……その傷は……」
ルナから服を引っ手繰り、浴室に再び入っていく。
「サク、それ……」
「うるせぇ面倒くせぇ、ただの古傷だ。騒ぐようなもんじゃねぇ……パンツのゴムきっついなオイ!」
浴室のドアが開き、パンツが投げ捨てられた。
事故に遭ってできた傷なんじゃないかとも思った。でも一つや二つの大きな傷ではないし、どちらかと言うと、何回も何回も何かで殴られたような――
「それ、誰に……」
ぽつりと漏らして、ハッと口を噤んだ。そこまで訊くつもりはなかった。殴られるのが良い思い出なはずがない。こんな性格だ、虐められていたとしても不思議ではない。今は周りにそういう者はいないが、中学に上がるまでに住んでいた場所で何かあったに違いない。少なくとも中学に上がった時に会った宰緒は既に長袖長ズボンを当然のように着用していたのだから。
浴室の中から、くぐもった宰緒の声が聞こえた。
「それ、聞いてどうすんの?」
「……ごめん、訊くつもりはなかった……」
「同情するならぶん殴るからな。あと、面倒くせぇからこれは他言すんな。いいな?」
「わかった……言わない」
ドア越しに溜息が聞こえた。怒っているのだろうか。呆れているのだろうか……諦めているのだろうか。
ドアが開き、服を着た宰緒が出てくる。やはり少し小さいようで、袖とズボンの裾が少し短い。棚に置いていた自分のコートを羽織ると腕は隠れたが、足はまだ少し見えている。でも足首に傷はないようで、何も見えていない。
「脱衣所に鍵つけとけよなー」
何事もなかったとでも言うように、もう傷跡の話には触れず、宰緒はルナの横をするりと抜け、脱衣所から出て行った。
残されたルナは、ついでだから風呂に入ってしまうかと考えつつ、床に投げ捨てられたパンツに目を落とした。
(ノーパン……?)
拓真に何と言えばいいだろう。