第四章『風』
【第四章 『風』】
騒々しい校内。そこかしこから溢れる声、声、声――
――煩い。
長い黒髪を棚引かせ、少女は不快を露に顔を顰める。整った顔が歪む。
浅はかだった。これでは会えるかもわからないではないか。何故今日、学園祭なんてものをしているのか。理不尽に苛立つ。
可愛いと言うよりは、美人。黒い髪に白い肌。すらりと長い脚でヒールを鳴らし歩を進める少女に、生徒や他の客達は必ず一度は振り向く。喧噪が一瞬止み、少女に釘付けになる。切れ長の目は人を寄せ付けないような威圧感があるが、それがむしろ神々しさすら感じさせる。廊下を塞いでいた者達も、少女に道を譲るように左右に避ける。少女が去った廊下では、少女の噂話でもしているのかざわめく。ああ、煩い。
黙々と歩を進めていた少女は、一年四組の教室の前で足を止めた。目の前に突如現れた美しい少女に、鳥を焼いていた男子とクレープを焼いていた女子の手が止まる。フレンチレストランでコース料理を食べる姿の方がしっくりくるが、焼き鳥かクレープか――注文するのだろうか。窓から見えている客や接客する生徒達も手を止めて見守る。
少女は柔らかな唇を徐ろに開いた。緊張が走る。
「ここに久慈道宰緒はいる?」
注文したのは人間だった。意味を理解するのに数秒かかった。
店番男子はきょとんとした後、焼き鳥の焦げた匂いで我に返った。
「久慈道……?」
「そう。このクラスのはずなんだけれど」
「久慈道ならさっき出ていきましたけど……」
「何処に行ったかわかる?」
「そこまでは……。あの、もしかして、久慈道の彼女……とか、ですか?」
様子を窺っていた一年四組の全員がごくりと息を呑んだ。ルナの彼女と思しき人物は友達とのことだったが、今度のこの少女は宰緒の彼女なのかどうか。
少女はすっと目を細める。
「馬鹿にしないで。私があんな奴の彼女なわけがない。私はあいつのフィアンセよ」
「フィ!?」
変な声が出た。
彼女以上の存在だというのか、この少女は。
「いないならいいわ。自力で捜すから」
「……あ、あのっ! 久慈道が戻ってきたら、フィアンセが来たって伝えておきましょうか……? 名前、聞いても……」
「そうね。嫌がるだろうけれど、一応伝えてもらおうかしら」
「はい喜んで!」
「梛原結理よ。それじゃあ、失礼するわ」
「はいっ、かしこまりました!」
返事を最後まで聞かず、梛原結理と名乗った少女はすぐに踵を返して去ってしまった。
結理の姿が見えなくなるまで見送った後、一年四組は『祭』の状態になった。
「うおおお! フィアンセって何だよ!? 金持ちっぽいな!」
「幼い頃に結婚の約束とかしたんじゃないかな?」
「じゃあ幼馴染みか!」
「オレもあんな美人な幼馴染み欲しいー!」
「ちょっと怖そうな人かと思ったけど、フィアンセに会いに来たって、可愛い人なのかも!」
「きゃー!」
「久慈道が戻ってきたら問い詰めねーと!」
「むしろ捜してこい! ちょっと久慈道捜してくるわ!」
「仕事して男子」
「はい……」
「焼き鳥焦げ臭い」
「すみません」
焼き鳥が焦げていたことを思い出し、店番男子は焼き鳥を火から下ろした。
「久慈道ってケータイ持ってないの? 電話すりゃ早くね?」
「あー。確か前に、持ってないって言ってたぞ」
「マジで!? 絶対持ってそうなのに!」
「持ってたらあのフィアンセの人も電話するだろ」
「そういやそうか」
今度は手を動かしながら、宰緒と結理について雑談に興じる。
急なことで話についていけなかった花菜はきょとんとしていたが、客に呼ばれて仕事を思い出す。
(久慈道君は携帯電話持ってないけど、青羽君は持ってたはず……)
ぼんやりと考えていると、自分の足に引っ掛かり派手に転倒した。
* * *
「この辺りはどのクラスも店を出してないから、暫くこの辺にいよう」
体育館の裏で、ルナは肩で息をしながら周囲を見回し誰もいないことを確認する。
「逃げるのも選択肢の一つとしては良いが、いつまでも逃げ回るようなことになれば殺した方が早いぞ」
慣れているのか灰音は息一つ切らしていない。椎も壁から顔を出し様子を窺っているが息が切れている様子はない。
「やばい。死ぬ」
共に逃げる必要はなかったのについてきた宰緒は壁に凭れて座り込んでいる。肩で息どころか体全体で息をしている。
「サク大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「大丈夫じゃない」
逃げ回ることも違界で慣れきっているのだろう、椎は呑気に持ってきたクレープを食んでいる。タフと言うか何と言うか。
周囲の様子を窺っていた灰音も、三人の前にしゃがむ。
「殺すなら先手を打ちたいが」
「だからやめろって。それに武器を出すと発生する電波を遮断しきれない。すぐに居場所がバレる」
イタリアでの一件の後、ルナは椎と灰音のヘッドセットと首輪に細工を施した。生活に支障が出そうな簡単な機能は電波が微弱なため、感知されないようジャミングできるようにした。自動翻訳や疲労感回復などはジャミングが可能になり、現在も二人は首輪の電源を入れっぱなしにしている。対して、生活をする以上となる武器の形成や防弾膜などは電波を誤魔化しきれないため、武器を出した時点で電波を感知されてしまう。
「わざと居場所をバラして誘き寄せ罠に掛けることもできる」
「罠……って?」
「身を潜めて包囲し蜂の巣にする」
うん。とてもわかりやすい。
「俺は銃を使えないし、学校で発砲なんて」
「当たらなくても堂々としていればいい。威嚇にはなる。――おい宰緒。お前は撃てるだろう?」
座り込んで呼吸を整えている宰緒に目を移す。宰緒はまだ少し肩で息をしながら面倒臭そうに灰音を睨め上げる。イタリアでの件で宰緒は敵に銃を撃っていた。しかも慣れた手つきで。あれから家の修理などで有耶無耶になってしまい、射撃経験があるという以上の話は聞いていない。
「面倒だから、撃てない、でいい」
「何だそれは。撃っていただろ」
「うるせぇよ」
「は? 死にたいのか?」
一気に険悪な空気になる。止めた方がいいのだろうか。だが灰音が暴れてしまえばルナでは手に負えない。椎は残りのクレープをゆっくり食みながら成行きを見守っている。今の所は止める気はないようだ。このまま放っておいても大丈夫ということだろうか。
宰緒は灰音を睨みつけながら立ち上がる。灰音は女性としては背が高いが、宰緒は更に背が高い。がたいも良いし、目つきも良くはない。立ち上がって睥睨する姿は威圧感に溢れ、近寄りがたい雰囲気を醸し出す。
「うるせぇって言ってんだろ。その話はもうすんな。虫酸が走んだよ。俺は好きで射撃をやってたわけじゃない」
「あ? んなこと知るか。こっちも好きで撃ってんじゃねーよ。死ね」
「は? お前こそ違界に帰ってさっさと死ねば?」
二人共、凄く口が悪い。
ルナはハラハラと見守るが、椎は相変わらずクレープを――いや、硬直している。クレープを咥えたまま硬直して動かない。
どう収拾をつけようか頭を悩ませていると、ポケットに入れていた携帯端末が振動した。無視するわけにもいかず、睨み合う宰緒と灰音、硬直する椎から一歩下がり、小声で通話に出る。
「――もしもし?」
『あ、青羽君?』
電話の相手は花菜だった。背後で教室の喧噪が聞こえる。
「どうした?」
『あのね、そっちに久慈道君いる?』
「いる……けど、取り込み中だ」
宰緒と灰音はまだ睨み合って罵詈雑言を浴びせ合っている。いつ手や足が出るかわからない。
『取り込み中? じゃあしょうがないね……。さっきね、久慈道君のフィアンセだっていう人が来てね、皆大騒ぎだったんだよ!』
「ふぃっ、フィアンセ!?」
思わず声が大きくなってしまった。宰緒とは三年半程の付き合いだが、そんな話は聞いたことがなかった。初耳だ。あの宰緒にフィアンセ? 耳を疑ったが、ルナの声が聞こえたのか宰緒が血の気の引いた顔でこっちを見ていた。何か、本当っぽい。
『そう言ってたよ。名前はね、梛原結理さんって。久慈道君に伝えてもらってもいいかな? 捜してるみたいなの』
「梛原……結理? わかった、伝えてお……く……」
血相を変えて宰緒がどかどかと詰め寄ってきた。ルナの肩を掴み、携帯端末を毟り取る。
「おい、結理が来た……のか?」
『あれ? 久慈道君……? 取り込み中じゃ』
「いいから、答えろ」
『う、うん。来てたよ。すっごく綺麗な人だね!』
「俺を捜してんのか」
『うん。そう言ってたよ。自力で捜すって。会えるといいね!』
「会いたくねぇ……今更何しに来たんだあいつ……逃げよう」
ぶちりと通話を切ってしまう。宰緒の顔は真っ青だ。
携帯端末を受け取り、ルナは恐る恐る尋ねてみる。
「フィアンセって……?」
宰緒は気怠そうに目を細め、逸らす。
「ああ……元、婚約者だ」
「元……?」
首を傾ぐのとほぼ同時、こつん、と地面を踏む音が聞こえた。睨んでいた灰音も硬直していた椎も反射的に音のした方向に目を向ける。
建物の角から、見覚えのある男が現れた。
「未夜……!」
先程まで教室にいたはずなのに。未夜の姿を確認しすぐに教室を飛び出したが、あの後未夜もすぐに教室を出たのだろうか。だが誰かに追われている気配はなかった。校舎から離れた体育館の裏に偶然辿り着いたというのか?
「その二人は何だ?」
椎と灰音に目を遣る。二人は頭に深くフードを被り体には外套を纏っていて、ヘッドセットも首輪も髪の色も見えないはずだ。まだ二人が違界の者だとは気づかれていないはず。
「逃げようと言っていたようだが?」
先程の宰緒の言葉を聞いていたようだ。ここは穏便に済ませてほしいが、宰緒は目を細め未夜を睥睨する。
「お前には関係ねぇよ」
突き放す言葉に、未夜も目を細める。話が通じないと判断したのか、未夜は黙ってルナを見遣る。椎と灰音について説明を求めているようだ。
「この二人は……俺の友達だ」
教室で宰緒がフォローしてくれた言葉を思い出し、咄嗟に使わせてもらった。
「頭のフードを取れ」
「……」
不味い。フードを取ってしまえば、ヘッドセットと髪が露になってしまう。ヘッドホンだと言えば認めてくれるだろうか。いや、怪しんで首も確認するだろう――だがこのままフードを取らなければ、何をしてくるかわからない。
「お前は……何でここに」
どう行動すべきか考える時間が欲しい。見え透いた時間稼ぎだが、この間に誰か一人でも最善策を思いつければ。
武器も形成していないし微弱な電波は全てジャミングしてあるはずなのに、何故簡単に居場所がわかったのか。未夜にはステルス機能でも搭載していて、相手に気づかれず尾行が可能だとでもいうのか。
だが未夜の答えは簡単なものだった。
盲点だった。違界にばかり気を取られていた。
「お前のその端末の電波を辿っただけだ」
先程の花菜からの電話。あの時発信された電波を辿ったというのか。違界の道具が感知する電波は同じ違界の道具のものだけだと、無意識にこちらの世界の電子機器を除外していた。何故、安全だと思ってしまった。
花菜がルナに電話を掛けたことに気づき、そこからその電波を辿りルナに接触を試みたのか。
ルナが唇を噛むのを一瞥し、椎と灰音は眴せする。ルナの方を見ている未夜には気づかれていない。ルナの小さな時間稼ぎは充分役に立つものだった。
椎は灰音からゆっくりと離れ、少し大回りをしてルナの後ろに立つ。接近してきた謎の人物に、未夜の視線は固定される。その隙に灰音はゆっくりと未夜の背後の死角に入り込んでいく。
「これ、取るよ」
椎は徐ろにフードに手を掛けた。自ら正体を明かすなんて、危険なことを。ルナは椎を止めようとしたが、フードの陰から見える椎の口元が微かに笑っていた。ルナを安心させるかのように、柔らかく。
何か策があるのかもしれない。ルナは出しかけた手を引き、警戒しながらも慎重に様子を見ることにした。
フードを取らないままだと、まだ注目度が弱い。完全な隙にはなっていない。灰音が武器を形成すれば、それで気づかれるだろう。だからここは、フードを取って違界の者だという衝撃を与え、椎に釘付けにする。椎は囮だ。椎を囮にして灰音が背後から未夜を撃つ。
意を決するというよりは極自然に、椎はフードを外した。空のような青い双眸と淡い紫の髪、そしてヘッドセットが露になる。瞬間、未夜の目の色が変わった。ずっと探していたものを眼前に捉えたのだ、そこに生まれる隙は大きい。
椎は何もしない。未夜が手を上げる間も、目を逸らさずにじっとその場に留まる。椎が動けば的――未夜も動いてしまう。灰音は動く的も追えるが、より確実に仕留めるにはやはり動かない方が最適だ。そこに恐怖はない。灰音がいるのだから。
未夜の手が動いたのとほぼ同時に、背後にいた灰音は地面を蹴り手に銃を形成する。
だが椎が目を逸らさず微動だにしなかったことが、仇となった。
「!?」
完全に隙を衝いたはずだった。なのに未夜は椎に警戒を置きながらも背後の灰音を振り向いた。
逆に虚を衝かれた。
引き金を引くタイミングが僅かに遅れてしまう。椎に照準を合わせていた未夜の手はくるりと翻り、灰音に向けて紐のようなものが繰り出された。
椎はハッとする。
――私の所為だ。
目を逸らさず未夜を見ていた椎にはすぐにわかった。何故未夜が灰音に反応できたのか。それは椎が目を開いていたからだ。未夜は椎と目を合わせ、ハッと何かに気づいたように標的を変えた。椎の双眸に、灰音が映ってしまったのだ。いくら表情を変えずじっとしていたとしても、鏡のように映り込んでしまっては意味がない。
椎も慌てて銃を形成するが、今からでは間に合わない。
「灰音!!」
完全に奇襲の体だった。その体勢から躱すことはできない。銃を構えながらも急所だけは外そうと身を捩るが、負傷は免れないだろう。
「っ!!」
未夜の放った紐のようなものが接触する寸前、発砲音とは異なる破裂音が響いた。
「なっ!?」
びちゃびちゃと周囲に液体が飛び散る。
軌道が逸れたのか、紐のようなものは灰音の身に傷をつけることはなかったが、灰音の放った弾丸も未夜に当たらなかった。
「何だ……?」
足元の地面は濡れ、色取り取りの破片が散乱している。液体も破片の正体もわからず、未夜と灰音は周囲を警戒する。椎も一歩下がり、ルナの服の裾を掴み周囲を見回す。
「何、これ……? まだ誰かいるの?」
ルナは地面の破片に目を落とす。風船が割れたような――
離れた場所で避難していた宰緒も少し前に出てくる。地面にしゃがみ、破片を一片抓む。
「これ、水風船――ヨーヨーじゃねぇか? 確か隣の三組が縁日やってた」
言われて納得した。そうだ、この色取り取りの破片は割れたヨーヨーの欠片だ。未夜と灰音の間に幾つもヨーヨーが放り込まれ、二人の繰り出した武器に触れたことで破裂し、中の水が飛び散ったということか。破裂したことから、爆弾のようなものだと違界人は警戒したのかもしれない。
文字通り水を差されたわけだが、そこで攻撃を止める未夜ではなかった。警戒が外へ向いた一瞬の隙に、未夜は再び手を上げる。
瞬間、その手に衝撃が走った。
「くっ!?」
地面を擦り、未夜の体が後方に弾かれる。
体勢を立て直そうとするが、間髪入れず何かが地面を蹴り、腕で防御する未夜を襲う。武器ではない。連続した単純な蹴りの攻撃。だが未夜が押されているところを見ると、相当に重い。体重を乗せた重い蹴りに、未夜は押されている。
灰音の相手どころではなくなった未夜に、灰音は銃を構え直し肢体を狙う。中央を狙うことも可能だが、暇のない攻撃を繰り出す誰かに当たる可能性がある。灰音としては別に当たっても構わないのだが、当てればルナが後ろから煩いだろう。灰音も、こちらの平穏な日常に感化させられたのかもしれない。
連続攻撃の防御で身動きの取れない未夜に、攻撃を繰り出す者の隙間を縫うように一発放つ。攻撃者は自分は当てられないと確信しているかのように微塵も慌てる様子がない。
弾は未夜の左肩に着弾した。溢れる鮮血にイタリアの一件が脳裏を過ぎり目が逸らせなくなる。ルナが硬直していることに気づいた椎は、彼の双眸を両手で塞いだ。
「ルナは優しい。だから見ちゃ駄目だよ。呑まれちゃう」
椎はコルと同じことを言った。感じやすい、それ故に痛みがわかるルナは、優しい故に呑まれやすく、壊れやすい。違界の痛みなんて、見ない方がいい。
未夜は肩を押さえ後退り、分が悪いと判断したのか攻撃者の攻撃を受け流し逃走した。透かさず灰音が追おうとするが、制される。
「深追いすんな」
「っ……」
未夜が去ったことで、椎もルナから手を離す。開けた視界に映った人物に、ルナは目を見開いた。
「ユウ……!?」
「よー」
片手を上げ、人懐こく笑うのは、隣のクラスであり、中学も一緒だった喜久川佑一だった。先程も教室を出た時に声を掛けてきた友人だ。手には色取り取りのヨーヨーを抱えている。小柄で運動神経も悪くないが、先程の未夜相手の軽捷な動きは少し引っ掛かる。
「それ、爆弾! 危ない!」
佑一の持つヨーヨーを指差し、椎は警戒しルナの服を引っ張り後退させる。やはりヨーヨーを知らないようだ。
「椎、あれはヨーヨーって言って、爆弾じゃないよ」
「爆弾じゃ……ない?」
きょとんとする椎に、佑一もヨーヨーを一つ手に持ち笑い掛ける。
「そーそー。危険なものじゃないよー。こうやって指に嵌めて、軽く叩くとびょんびょんする。一ついる?」
「びょんびょん?」
「オレのクラス、縁日やってるから。後でヨーヨー釣りにおいでよ。他にも輪投げとか、楽しいよー。これは一つあげる」
椎の手に、ピンクの縞模様のヨーヨーを一つ、ぽんと置く。
「中に何か入ってる」
「ただの水だよ。ほら、そこら辺に散らばってる」
一体何個ヨーヨーを投げたのだろう。
「ユウ、何で……」
「ルナもあげる。サクも。そっちの女の人も」
ルナの前にヨーヨーを下げ、喋らせようとしない。
「場所、移した方がいいかもしれない。さっきの銃声で誰か来るかも。何かの出し物だと思ってくれるといいんだけど」
「場所を移すことには賛成だ。だが――ルナ、そいつは誰だ? 信用してもいいのか? 得体が知れないなら今ここで殺すが」
信用してもいいのか、なんて随分と丸くなったなと思ったが、やはり灰音は灰音だった。結局物騒なことを言う。
「ユウは友達だよ」
ルナは佑一を一瞥する。信用してもいいのか。先程の戦闘慣れした動きは引っ掛かる。信用してもいいのか、確信が持てない。だが友達は信じたい。花菜がルナに言ったように、友達を信じてやりたい。
「友達だから信用するというのは理解できないが、あいつを追い払えたのはお前のおかげとも言える。その分は信じてやってもいい。それと、後ろを向け」
佑一は怪訝そうな顔をしつつも言われた通り素直に後ろを向く。素直に背を向けたことに灰音は眉を顰め不快の色を見せるが、何も言わず後ろから佑一の襟を掴み、強く引っ張った。
「ぐぇっ!? し、締まってる! 首!」
「釦を外せばいいだろう」
「何かオレが悪いみたいな言い方なんだけど!」
「ほら早く外さないと苦しみ喘ぎ死ぬぞ」
「殺す気かよ!?
ルナー! 釦外して! オレ手塞がってる!」
「えっ、わ、わかった」
名指しされたルナはあたふたと佑一のシャツの釦を外してやる。
「灰音、もう少し力弛めて! つか離せって!」
「……」
外れた釦一つ分、灰音はぐいっと襟を引っ張る。何もない、綺麗な項だった。
「……わかった、少しは信じよう」
手を離すと、佑一はすぐにその場から飛び退き咳込んだ。
「大丈夫か……?」
「ちょっと命の危機感じた……」
ちょっと涙目になっている。椎が心配そうに顔を覗き込み、ルナの顔と交互に見る。
灰音は銃を仕舞い、佑一の首根っこを再び掴んだ。
「首に首輪をつけた痕跡がないことから、違界から来たわけではなさそうだが、お前、違界のことを知ってるな? 場所を移して話を聞く。覚悟しろ」
「あれ? オレ何か言ったっけ? 違界のことなんて何も言ってな……」
「知ってるな?」
「あ」
嵌められた、佑一はそう悟った。確証はないが、違界の者と充分に戦えていたことか、銃に慣れていたからか、何か引っ掛かるものがあったのだろう。確証もないのに違界を知っていると決めつけられ応えを誘導させられた。
「やべー、どうしよ、怒られる……」
捕らえられた小動物が逃げるのを諦めたように佑一は灰音に引き摺られていく。
中学校からではあるが、学校では毎日顔を合わせていた佑一が違界のことを知っていたことが、ルナには衝撃的だった。宰緒は表情からは何も読み取れないが、宰緒は元フィアンセのこともある。佑一のことばかり気にしているわけにはいかないだろう。佑一もルナ達のように何処かで違界の者に接触し巻き込まれたのだろうか。随分と慣れているようだし、最近知ったというわけでもなさそうだ。ルナと出会う前に何かあったのかもしれない。自分の知らない所でこんなに近くに、同じように違界を知っている者がいるとは思わなかった。いや、イタリアでは近くに違界から来たという黒葉がいたが、こんな頻繁に現れるような身近なものだとは思わなかった。ルナが知らないだけで、もっと大勢、違界を知る者がこちらの世界にはいるのかもしれない。そう考えると、少し怖くなった。知らない間に巻き込まれていく恐怖。何処まで連鎖すれば、この連なりは止むのだろう。
破裂し散乱したヨーヨーの破片を一瞥し、ルナ達はその場から逃げるように立ち去った。
* * *
「――あれ? 未夜さん?」
先程まで席に座っていた未夜が忽然と姿を消していた。
教室の裏でルナに電話をした後テーブル席に戻ってきた花菜はきょろきょろと辺りを見回し首を傾げる。
「行っちゃったのかな?」
未夜は花菜にルナの居場所を訊いたが、花菜は答えなかった。そのこともルナに伝えたかったが、途中で通話を代わった宰緒に切られてしまった。もう一度電話をしようかとも思ったが、あまり長時間未夜から目を離しているわけにもいかないと戻ってきたのだが、肝心の未夜はもう教室を出ていってしまったようだ。
「花菜ちゃーん、これB席に持ってってー」
きょろきょろして手が空いていた花菜は「あ、はい!」と振り返る。裏方からのカウンターの上には、トレイに載せられたケーキとジュース。ルナの作ったお菓子はとても人気で、口コミで客が増えている。お菓子屋さんになったらいいのになぁ、と花菜は思う。
トレイを持ち上げると、窓の向こうにいた人物と目が合った。
「あっ」
「花菜ー、メイドさん可愛い!」
「ウエイトレスだよ、兄ちゃん」
花菜に向かって手を振るのは、彼女の兄の雪哉だ。
「どうしたの? 生徒会忙しいんじゃないの?」
「遊びながら見回りだ。見回りは風紀の仕事だけどな。生徒会長権限ってやつだ」
要するに駄々を捏ねたらしい。
雪哉は客として教室の中に入り、花菜を捕まえる。
「少し風が出てきたみたいだからな、帰りは気をつけろよ? できれば俺が、花菜が飛んでいかないように捕まえておきたいけど」
「このくらいの風じゃ飛ばないよー」
B席に持っていくケーキとジュースのことはすっかり頭から抜け落ち、雪哉の相手をする。
「花菜も何か作ったのか? 得意の生サラダ?」
「私は何も作ってないけど、青羽君の作ったお菓子が美味しいって人気だよ! 食べていく?」
「あいつか……あいつお菓子も作れるのか。あいつチートだな。チート」
「凄いよねぇ。青羽君は良いお嫁さんになれるね」
「そうだなぁ、良い嫁……え?」
危うく流されそうになったが我に返る。我が妹ながら突拍子がない。
訂正してやろうと雪哉は口を開きかけるが、ぴたりと止まる。グラウンド側の窓の外で何か光った気がした。
「?」
凝視してみるが、光はそれきり見えなかった。気の所為か、風で何かが舞い上がったのだろうと花菜に向き直る。
「そのケーキ、何処かの席に持っていくやつか?」
「あっ、そうだ、忘れてた!」
「ド忘れ可愛いなぁ」
いつものように兄馬鹿っぷりを披露していたが、また窓の外に光るものが見えた。雪哉は目を細め一歩前に出ようとするが、無意識に、いや反射的と言った方がいいか、逆に一歩足を引いた。何か、不味い気がした。寒気のような、何か。
「――伏せろ!!」
叫び声を掻き消すように、グラウンド側の窓硝子が弾け飛んだ。談笑が悲鳴に変わる。割れた窓から勢いよく風が雪崩れ込み、雪哉は花菜の腕を強く引いた。
「わっ!?」
倒れる花菜の手からトレイが放り出され、まるで糸で茹で卵を切断したかのように滑らかにトレイが真っ二つになり床に叩きつけられた。
風と共に光るものも教室を擦り抜け、廊下でも悲鳴が上がる。まるで生きているかのような風だった。
硝子が散乱し生徒や客も床に倒れ、何人もが血を流していた。幸い重傷な者はいないようだが、一体何だったのだ。
「鎌鼬か……?」
倒れて床に座る花菜の腕を離し、無事を確認する――が。
「!? かっ、花菜! あ、ああ……っ!」
「え?」
雪哉を見上げる花菜の右頬に浅く傷ができていた。
「お、おお女の子の顔に傷なんか! ご、ごめんなあああ花菜ぁぁ! もう少し早く引っ張ってやればこんなことには! うわああ花菜あああ」
「お、落ち着いて兄ちゃん!」
重傷で今にも死ぬんじゃないかというような相手に対しての反応のようで、花菜は必死に兄を宥める。頬の傷以外は無傷で、むしろ感謝をしなければいけないのに。
廊下でも傷を負った人達が随分といるようで、子供の泣く声も聞こえる。異変に気づき教師も駆けつけ、場は騒然とした。学園祭どころではない。
「花菜、じっとしてろ。今、絆創膏を……いや先に消毒液か! 消毒液貰ってくるからな、ここを動くなよ!」
「ちょっと掠っただけだし、このままで平気だよ」
「駄目だ。黴菌が入ったらどうするんだ」
「私より、他の人が……」
顔を上げた花菜は、雪哉の背後にやって来た人物と目が合った。騒ぎを聞きつけた女性教師だった。
教師は雪哉の肩をぽんぽんと叩く。驚いた雪哉はバネのように勢いよく振り向いた。
「なっ、誰だ!」
「先生よ」
「先生!? び、びっくりした……」
「生徒会長の玉城君よね? ここを任せてもいいかしら? 被害の範囲が広いみたいで、先生達も何人か負傷して人手が足りないのよ」
「は、はぁ……でも手当てはできませんよ。絆創膏しか持ってないので」
「救急車は呼んだから、怪我人の把握をお願い」
「わかりました」
「じゃあお願いね」
教師は忙しなく廊下を小走りで去っていく。
突然の悪夢のような出来事に混乱する場を見回し、雪哉は花菜の頭をぽんぽんと優しく叩いて立ち上がる。
「花菜は端にいろ。硝子の破片が散乱してるから気をつけろよ。転んで怪我したら大変だからな」
「うん」
教室の中はすぐに把握できる。布で隠された裏方スペースを覗いて中を確認し、この中には怪我人がいないことを把握。おとなしくじっとしているように言い、さて問題は窓際だ。割れた硝子を直接浴びてしまっている。
「無闇に動くな! いいな?」
廊下まで聞こえる大声で叫び、雪哉は掃除用具入れから箒を一本取り出す。
「破片が刺さって痛いだろうが、もう少しで医者が来る。我慢しろ」
苦しむ人々の周囲から箒で硝子片を退け、周囲の安全を確保する。
廊下の窓も幾つか割れていたが、人が多く遠くまで見通せない。混乱の声や泣き声、呻き声も聞こえる。雪哉は一度深呼吸し、遠くまで届くように大声を張る。
「無傷の奴は怪我人の傍にいろ! 掠り傷の奴もだ! そのくらいの傷、気にすんな!」
花菜の掠り傷とは随分と対応が違う。
「傷が深い奴は無理に動くな! 動かすな! 手だけ上げろ! 上げられないなら近くの奴が代わりに上げろ! 血の止まらない奴も手を上げろ! 俺が止血してやる! あと大声で喋んなよ!? 俺の声が通らないだろ! 既に喉が痛いんだからな! はい、挙手!!」
ばっと手を上げて見せると、ちらほらと手を上げている者が目に入る。
「動ける奴は端に寄れ。通りにくいだろ」
てきぱきと仕事を熟す雪哉。ここの生徒なら、生徒会長の顔は知っている。生徒達の代表という記号に、生徒達は少なからず安心感を覚えた。生徒達の様子を見て、一般客も、雪哉が普通の一生徒ではないと察する。
雪哉は普段はあまり仕事をしないし、他の生徒会役員達に任せ、よく仕事をしろと追い掛けられているが、頭も良く運動神経も良く、顔も整っている雪哉は女子から人気があり、気さくな性格から、誰とでもすぐに打ち解ける。そして何より、普段は仕事をしないのに、こういういざという時には冷静で、頼りになる。少々妹に甘いが、良く言えば人を大切にする、そんな人間だ。一言で言うとただのシスコンだが。
花菜は何かが掠った右頬に触れる。風のような形のないものではなく、形のある何かが掠った気がした。雪哉が腕を引いていなければ、自分もあのトレイのように真っ二つに――首が飛んでいたかもしれない。今更、怖くなった。首が飛べば死んでいただろう。
「花菜ちゃん大丈夫……?」
無意識にぽろぽろと涙が零れた。心配したクラスメイトが声を掛けるが、「大丈夫」という一言が言えなかった。
「ひぅ……」
小さく声が漏れるだけで、言葉にならない。だが雪哉には、それで充分だった。泣き声や呻き声に混じって猶、どんなに小さくても妹の声は兄の耳に届く。
「花菜が……泣いてる!」
バッと振り向き、立ち上がる。周囲の人々が、突然立ち上がった雪哉にびくりと硬直し、唖然と見上げる。
「あの、会長……足から出血が……」
「近くの元気な奴、そいつの足を高く上げてやれ」
「会長、こっちは肩の傷が深くて……」
「綺麗な布を当てて押さえろ。止血は誰でもできる!」
「会長さっきと言ってることが違う!?」
負傷者の近くにいる無傷な者達にてきぱきと指示を出し、雪哉は急いで一年四組の教室に戻る。
「花菜ー!」
全員の注目を浴び、生徒会長は叫んだ。
「だっ、大丈夫か!? 何処か痛いのか? 他に何処か怪我……足でも捻ったか? 怖かったのか? 俺がついててやるから安心しろ。な? ほら、兄ちゃんが抱き締めてやる!」
花菜の傍らに跪き、涙を零す彼女の頭をよしよしと撫で、両腕を広げる。まだ上手く喋れない花菜は首を振って拒否し、雪哉はショックを受けた。
教室の中の生徒達は皆玉城兄妹に注目し見守る。雪哉が妹に甘い――いや妹に弱いことは広く周知されているため、この有様に驚く者はいないが、一般客は完全に蚊帳の外だ。
「抱き締められなくても俺は花菜の頭を撫でてやれるだけで充分だから……」
「……」
「ほら、ハンカチ。出る涙は止めなくてもいい。出し切って不安も恐怖も全部流してしまえ。それと――お前らぁ! 見世物じゃねーぞ! 花菜の泣き顔そそるとか思ってる奴後で来い! とりあえず一発殴る!」
注目していた周囲の人々が慌てて目を逸らす。こんな生徒会長でも、人望はあるのだ……こんな人間だが。