第二章『雨』
【第二章 『雨』】
どちらかと言えば、母親似。顔も、性格も。
母親譲りの緑色の双眸。可もなく不可もなく平凡な性格。母も手先は器用で、最近飾り切りに嵌っているらしくよく夕飯に飾り切り盛りが出てくる。ルナが何かを作り出したり解体したりすることに一番寛容なのは母親だ。
「ルナ、ちょっといい?」
リビングでテレビを見ていたルナは、母の声に振り返る。
夕飯の仕度をしていた母がキッチンに手招きしている。
イタリアでの騒動の後、ルナの両親は慌てて実家に戻ってきた。壁が崩れた家を見上げ、母は放心していた。父はルナ達から状況を聞き呑み込むことに奮闘していた。両親には勿論、違界のことは伏せてある。椎と灰音の姿は祖父母には見られているが、両親には見られていないだろう。ややこしくなってはいけないので、コルにも隠れてもらっていた。今は、一人暮らしをしているアンジェの家か、元に戻っていれば黒葉の家に居候しているだろう。コルはもう何処かへ行ってしまったかもしれない。
手招きする母のもとへ行くと、鍋から一掬いしたスープを注いだ小皿を渡された。
「味見してくれる?」
「うん」
母は食べ物の味がよくわからないらしい。いや、これは正確ではない。味はわかる。ただ、美味しいのか不味いのかがわからない。味覚音痴というわけではないようなのだが、味の付け方を変えるとこうして決まって味見を任される。
「少し濃いかな」
「ありゃ、醤油入れすぎちゃったかな……薄めないと。ありがとね、ルナ」
空の小皿を受け取り、調理に戻る。
これが日常。違界と接点のない生活。いきなり銃を向けられることも家が破壊されることもない。
なのに、連鎖するかのように、また違界の人間に出会った。椎を拾ったら灰音がついてきて、命を狙われる椎と共に殺されそうになり、その出来事を受けて治安維持コミュニティとかいうものが現れた。てっきり違界は無法地帯だと思っていたのだが、皆が皆危ない人間というわけでもないのかもしれない。
この目の色は、今後も襲われる原因になってしまうのだろうか。だとすれば、同じ目の色をしている母も危ないのではないだろうか。今まで一度も襲われなかったからと、今後も襲われない保証はない。
「やっぱり何か武器が必要かぁ……」
「ん?」
唐突な独り言にきょとんとするが、ゲームの話だとでも思ったのか鍋に目を戻す。
連鎖はこれで終わりにしてもらいたいものだ。
「あ、そうそう。お母さんね、ルナに良い物作ったの」
「良い物?」
鍋を突いていたお玉を小皿に置き、ポケットから小さな袋を一つ取り出した。
「イタリアで大変だったでしょう? だからね、お守り作ってみたの。肌身離さず持つのよ」
掌にちょこんと載る小さな赤い袋。白い紐で口をきゅっと縛り上げ綺麗に結んである。中に何か入っているようだが、「効果がなくなっちゃうから開けちゃ駄目よ」と念を押された。
「ありがと」
随分心配させてしまったようだ。ルナはお守りを受け取り、大事に握り締めた。
* * *
宰緒の下宿先は知人の家だが、その知人はアパートに住んでおり、そのアパートを所持している。宰緒はそのアパートの一室を借りて住んでいるが、家賃は免除されている。在宅のアルバイトで光熱費など必要な費用は賄っている。
誰もいない一人だけの部屋で、宰緒はしっかりとフードを被りヘッドホンをつけ、端末に向かっている。殆ど何もない殺風景な部屋。無機質な機器が並ぶだけと言っても過言ではない、あまり生活感のない部屋。
カチカチとキーボードを叩く音だけが狭い部屋に響いている。
「はぁ……」
手元に置いた団扇を掴み、パタパタと扇ぐ。年中長袖のコートを着ているが、暑くないわけではない。むしろ、暑い。暑すぎて溶ける。
でも、それでも、この格好をしなければならない。そんな義務も必要性もないかもしれない。なくても、これでいい。
「誰も入ってこねぇし、脱ぐか……」
端末を何台も稼働しているので、部屋の温度が上がっている。冷房の温度を下げてもいいが、それより上着を脱ぐ方が財布に優しい。
椅子を下げ徐ろにコートを脱ぐ。さすがにコートの中まで長袖ではない。コートを床に放り、Tシャツを抓んでパタパタと風を通す。
視界に入った自分の腕を見下ろし、眉を顰める。ああ、見たくないものが目に入ってしまった。だから半袖は嫌なんだ。
プログラミングに集中しようと、宰緒は再びキーボードを叩く。全て忘れようとするかのように。
* * *
夏休みが終わると、途端に慌ただしくなる。休みボケで授業に身が入らない中、学園祭の準備が始まるのだ。
ルナ達は高校では初めての学園祭だ。
夏休みの余韻を引き摺り授業は上の空だが、学園祭の出し物会議では皆空から戻ってくる。そんな上の空の中でも宰緒は休み明け実力試験で満点を取っていた。イタリア滞在中の何処に静かに集中して勉強する時間があったというのだ。プログラミングばかりしていたし。ルナはギリギリ平均点なのに。
学園祭の出し物会議の真っ最中だが、ルナはぼんやりと窓を背に聞き流し、宰緒は突っ伏して夢の中だ。
学級委員が教卓に立ち、皆の出した案を黒板に書いていく。色々と案が出ているが、飲食系が多い。飲食系なら接客より作る方かなとルナは考える。
ある程度案が出た所で、一旦皆で相談。わいわいと談笑する外で、ルナは頬杖を突く。
退屈そうにしていると見られたのか、学級委員の一人がこちらに向かってきた。
「ルナ、お前確か料理できるよな? 何かやりたいのある?」
黒板の案一覧をちょいちょいと指差し、学級委員の一人――与儀勇斗はニカッと人懐こく笑った。それほど仲が良いというわけではないが、会話はよくする方かもしれない。
「お菓子系も作れるのか? ケーキとか」
「お菓子はあんまり作ったことないけど、作り方がわかれば作れると思う」
「サク爆睡してるんだけど、どうなの? 料理とか。接客は厳しいか」
「簡単なものなら作れるんじゃないかな。一人暮らししてるし。接客は厳しいと思う」
「だよな……」
勇斗は苦笑する。宰緒が接客など、面倒臭いの一言で切って捨てそうだ。
ルナと勇斗が喋っているのが目に入ったのか、女子友達と談笑していた花菜が抜け出してちょこちょこと駆けてきた。小走りとは言え走ったら……
「――あっ」
何もない所で躓いた。そのまま進行方向にいた勇斗の腰に頭突きを食らわせる。
「ぐふっ」
数歩踏鞴を踏み、机に手をついた。
「あっ、ごめんなさい! 大丈夫かな? 痛くない?」
「だ、大丈夫大丈夫。ちょっと不意打ちだっただけで。玉城さんは?」
「私は大丈夫!」
おろおろする花菜の頭をぽんぽんと撫でる勇斗。
「玉城さんって何かペットみたいだよな。小動物っぽいって言うか」
本人に向かってペットはどうなのだろう。
「お手」
「にゃー」
勇斗が手を出すと花菜も乗って手を置くが、どちらかと言うとそこは犬ではないのだろうか。
「ん、そろそろ多数決取るから、ルナもちゃんと手挙げろよー」
「ああ、うん」
軽く手を上げ、女子学級委員に呼ばれた勇斗は教卓に戻っていく。彼を見送った後、花菜は窓の外を小さく指差しながら囁くように言った。
「外、見て。未夜さんが来てる」
「え?」
言われた通り窓の外に目を遣ると、校門の影にちらちらと未夜らしき人物が立っているのが見えた。
「昨日でお話終わらなかったの?」
「終わったと思ったんだけど……玉城に用ってことは?」
「私!? 心当たりないなぁ……青羽君と久慈道君は何て言われたの?」
「えっ、あ……えっと……」
違界のことを知らない花菜に違界の話をするわけにはいかない。この連鎖に巻き込みたくない。
「人違いだったから、その詫び……くらいだったかな」
言葉を濁すが、わかってくれるだろうか。
「そっかぁ」
わかってくれたようだ。人が良いと言うか何と言うか……良すぎる。騙してはいないが、心が痛む。
だが、ルナも昨日で話は終わったと思っていた。まだ何かあるのだろうか。それとも誰か他の人を待っているのか、ただ通りかかっただけなのか。通りかかったからついでに挨拶、という人間ではないと思うのだが。
「こら」
二人で窓の外を真剣に眺めていると、丸めたノートでぽこんと頭を叩かれた。
「いてっ」
「わっ」
恐る恐る顔を上げると、勇斗がノートを掲げて立っていた。
「手、挙げろって言ったよな?」
「!」
ハッとし、花菜が両手を上げた。
「違う。無抵抗の意は示さなくていい」
「はい」
すっと両手を下ろす。ふざけているわけではなく、花菜は少々天然だ。そんな所が可愛いと以前雪哉が言っていた。
「まあ、出し物は決まったから。何をしたいか決めてくれ。決まったら今日は帰ってよし」
「よし、帰る」
今まで寝ていた宰緒が前触れなく身を起こした。
「早いな! まだ帰んな。役割を決めてからだ、帰っていいのは」
「……? 何? 役割って」
今まで寝ていたのだから、当然の反応か。親切に勇斗が説明を買って出てくれる。
学園祭の出し物は喫茶店のようだ。票がばらけたらしく、同数を獲得したクレープと焼き鳥もするらしい。大丈夫なのだろうか。確実に匂いが混ざるが。
役割は大きく分けて、焼菓子を作る製菓班、クレープを焼くクレープ班、焼き鳥を焼く焼き鳥班、注文を受ける接客班の四つ。悩んだが、頼まれたこともありルナは製菓班、宰緒は焼き鳥班、花菜はクレープがいいと言ったが料理ができないので半ば強制的に接客班に回された。食堂の手伝いをしているし妥当だろう。花菜は不服そうな顔をしたが承諾した。やりたいことをさせてもらえないことは少し可哀相かなと思う。
暫く意識の外に遣ってしまっていたが、ふと窓の外に目を移すと、未夜の姿はなくなっていた。本当にただ通りすがっただけだったのだろうか。
「青羽君! 青羽君はどんなお菓子作ったことある?」
呼ばれたので振り向くと、女子が数名。
「クッキーとか簡単なケーキとか……」
「それなら大丈夫そうだね。何か作りたいものがあったら言ってね!」
「今度メニュー考えて試作するから、放課後の予定空けといてよ~」
「あと買い出し! 男手助かる」
言いたいことを言うだけ言って、ぱたぱたと去っていった。
「もしかして製菓班って女子ばっかり?」
「いや、まだあと一人男がいたと思うけど」
「一人……」
「いいじゃん、ハーレムハーレム」
笑い飛ばしバシバシとルナの背を叩く勇斗。先に言っておいてほしかった。何かこう、気まずい。何を話せばいいのかわからない。
「青羽君はどんなケーキ作るの? ケーキ屋さんみたいになる?」
きらきらと目を輝かせながら花菜に迫られる。作るものが完全にケーキになってしまっているじゃないか。
「そこまでは無理じゃないかな……予算的にも」
花菜とならこうして何ということはなく普通に話せるのだが。
「そこまでは無理かぁ……残念だなぁ」
振っていた尻尾を下げる犬のようだ。
「接客班は当日まで何もすることないのかな? だったら試食係になりたいな」
「接客班は教室の飾り付けとか仕事あるぞ。あと衣装の用意とか」
悉く花菜のしたいことを折っていく勇斗。だが今度は花菜は元気よく手を挙げた。
「じゃあ衣装係! 私が服作る!」
「え? できるの? 言っちゃ悪いけど玉城さんって鈍臭いイメージなんだけど」
ストレートすぎだろう。確かに花菜はよく転ぶし少し天然だし料理もできない。が。
「玉城は服飾に関しては器用だよ。俺も前に鞄作ってもらったし」
「マジ? すっげー意外。針で指刺しまくって絆創膏だらけにするイメージだった」
言いたいことはわかるがストレートすぎだろう。当の花菜は気にしていないようだが。
ルナが普段工具を持ち運ぶために使っている鞄は、花菜が作ったものだ。工具を入れるのに丁度良い鞄が見つからず、花菜がすぐに作ってプレゼントしてくれた。大きさもありポケットも多く、丈夫な鞄。逃げ回ったり瓦礫に埋まったりしたイタリア滞在中も破けたりすることはなく、今も現役だ。まあさすがに汚れはしてしまったので洗ったが。
それに花菜は自分の服も作っている。衣装作りも難なくこなせるだろう。そう、裁縫技術は兄二人に吸い取られなかったのだ。
花菜は目を爛々とさせ、早速ノートを引っ張り出してきて衣装のデザインを描き殴っている。
「じゃあ玉城、俺らは先に帰るから」
「え? あれ?」
「役割決めたら帰ってもいいって言ってただろ?」
「あっ、そっか!」
やはり抜けている。それでも衣装はきっちり仕上げてくるだろう。ルナも何かメニューを考えてこないと、と気を引き締める。窓の外にもう一度目を遣ってみたが、未夜の姿は消えたままだった。
学園祭の準備を始め二週間程が過ぎ、学校全体が徐々に騒がしくなってくる。放課後は部活に所属していない者が集まって準備を進めた。ルナも数人の女子達と共に調理室に籠り試作をする。製菓経験者が部活に所属しているおかげで、何故かルナが中心となって勧めることになってしまったが、凄くやりにくい。もう一人いるという男子も部活に所属しているらしく、結局男はルナ一人だ。もう帰りたい。
生地が膨らまないだの焦げただのときゃあきゃあと絶え間なく黄色い声が騒いでいる。材料の分量を少し離れた所で計りながら、ルナはレシピを確認したり焼いている途中の菓子をオーブンの窓から確認したりする。
(喋って手元が疎かになるから失敗するだけだと思うんだけどな……あの女子の輪の中に入りづらい……)
使った道具を洗いながら、女子の輪に目を遣る。花菜やアンジェとは普通に喋ることができるし、女子が苦手というわけではないと思うのだが、女子の数が増えると駄目なようだ。
(焼けたかな)
オーブンを開けて取り出すと、甘い香りが漂った。すぐさま敏感に女子達が反応しこちらに迫ってくる。
「凄い! 青羽君は何作ってたんだっけ?」
「おいしそー」
「食べてもいい?」
気圧されつつも、少し離して置く。
「パウンドケーキだけど、冷まさないと」
「冷めないと食べられないの?」
「焼きたて食べてみたい!」
「え、えっと……」
結局気圧されている。
「ちょっと待って、家で試作したやつを冷蔵庫に入れてるから」
ぱたぱたと逃げるように冷蔵庫に向かい、中からよく冷えたケーキを取り出し戻ると、再び女子達の歓声が上がった。
「こっちはガトーショコラだけど、甘さを控えめにしてビターで……」
軽く説明しようかと思ったが、誰も聞いていなかったのでやめた。
しっとりとしたガトーショコラを適当にカットし女子に振る舞うと口々に「おいしい!」と声が上がった。女子の集団は苦手だが、おいしいと言われるとやはり嬉しい。
「お店のケーキみたい! 凄いね!」
「美味しいよ青羽君!」
「パウンドケーキも楽しみにしてるね!」
「私達も何か作らないと」
「あー……」
「がんばろ」
腹が減っていたのか、ケーキがぱくぱくとそれぞれの口に吸い込まれていく。
「あ、ちょ、待って、他の人にも感想聞きたいから」
止めないと全て食べ尽くされていたかもしれない。残念そうな声を出されたが、おやつにと出したわけではない。残ったケーキをラップに包み、洗い物をシンクに置いておく。
「じゃあ少し出掛けてくるから。パウンドケーキは冷めるまでそこに置いておいて」
「はーい」
「いってらっしゃーい」
ぱたぱたと手を振られ、漸くルナは調理室から出て解放される。身が持たない。
調理室から出たその足でルナは被服室へ向かう。被服室には彼女がいるはずだ。
被服室のドアを開けると、小柄な少女がぽつんと一人、ミシンに向かっていた。
「玉城、一人か?」
「あれ? 青羽君どうしたの? 私は一人だよー。試作中だからね」
「そうなのか」
「何着か作ってみたんだけどどうかな? 試着してみる?」
ルナは接客はしないし、花菜が今手に持っているのはヒラヒラしたウエイトレスの衣装なのだが。試着するわけがない。
「着ない。少し休憩してケーキでもどうかなって」
「え? わっ、ケーキだ! 青羽君が作ったの!?」
「うん、まあ……ガトーショコラなんだけど、チョコレート食べられるよな? 試食係って言ってたから持ってきたんだけど」
「わーい! 覚えててくれたの? チョコレート好きだよ大丈夫! 食べる!」
ルナからケーキを受け取りラップを開く。ふにゃりと笑みを零し齧りつくと、幸せそうな顔をした。
「おいしい! 青羽君はお菓子も作れて凄いなぁ」
「でもこのままじゃ少し寂しいだろ? 飾り付けとか玉城が考えてくれないかな。好きだろ? そういうの」
人数分作るということを忘れているだろう刺繍が施された衣装を抓む。
「好き! 考える! でもお客さんにトッピング選んでもらうのもいいよねぇ」
「それいいな。提案しておくよ」
「採用されるかなぁ、えへへ」
くすぐったそうに笑う。
「青羽君これ着てみる? 海をイメージしてみたドレス風衣装」
「着ねぇよ」
「私じゃ大きいんだよこれ~。試着してくれないとイメージが……」
ぱたぱたと衣装を振るが、ルナでもサイズが合わないだろう。何より嫌だ。着たくない。
「スカートなんか穿きたくねぇし」
「青羽君、高一女子の平均身長は約157cmだよ。私の身長は143cm! 青羽君は?」
「……166」
「ほら! 青羽君の方が5cmも近い!」
「他に体格の違いとかあるだろ! 男女の!」
「青羽君細いし大丈夫!」
「いっ……女子呼んできてやるから! 製菓班の!」
「あ……その手があった」
「助かった……」
どっと疲れた。女子の多い班に所属していてよかったと初めて感謝した。
「じゃあ誰か連れてくるから」
「うん。その間に今作ってる服の仕上げしとくね」
ふにゃりと笑い、ミシンに向き直る。すぐさま笑みは消え、真剣な眼差しでミシンを走らせる。普段の抜けた彼女とはまるで別人。邪魔をしないようにと、ルナは静かに被服室を後にした。
それぞれが夢中で準備を進め疎らに帰宅し始めた頃、空に一筋の光が走った。
「きゃー!!」
女子達の甲高い悲鳴が響き渡る。大きな雷の音にも完全に掻き消されることがなかった。中には男子の低い悲鳴も混じっていたが。
「雨だ」
雷の音が止まない内に雨が降り出す。
「本降りになる前に帰ろー」
「私、傘持ってなーい」
慌ただしく鞄を掴み、片付けもそこそこに教室を飛び出す。せめて片付けをしてからと残っていた生徒も、見回りの教師に、やっておくから帰っていいと言われると、足早に教室から出ていった。
ルナも鞄を取り調理室を後にし、何となく被服室に寄ってみると、花菜が焦りながら大きなダンボール箱に作っていた衣装を詰め込んでいる所だった。
「青羽君どうしよう……全部教室に運ばないといけないのに入らないよぅ」
ぎゅうぎゅうと箱に押し込んでいるが、何着か入りきらず溢れている。
「入らないやつは抱えて持っていけ。箱は俺が持つから」
「ありがとう……今度スペシャル大盛りサラダごちそうする……」
申し訳なさそうに頭を下げるが、サラダを大盛りにされると草食動物みたいだ。
教室に衣装を運び慌ただしく外に出ようとした所で、ふと気づいた。本降りになり地面に勢いよく叩きつけられる雨を眼前に、傘がないことに気づく。
「玉城、傘持ってる?」
「持ってない……」
この大雨の中傘を差さずに帰るのは無謀だ。周りを見回してみるが、生徒はもう下校してしまったのか見当たらない。
「ちょっと待ってて。職員室に行って傘借りてくるから」
「傘借りれるの? 知らなかったな」
「うろちょろすんなよ」
「はい」
念を押し足早に職員室へ向かうルナの背を見送り、花菜は一人ぽつんと軒先で濁った空を見上げる。雨は暫く止みそうにない。そういえば台風が近づいてきているとニュースで言っていた。まだ風はないが、気をつけないととぼんやり思う。
――ぱしゃり。
不鮮明な視界の中で何かが水溜まりを踏む音が微かに聞こえた。空から視線を下ろすと、それは徐々にこちらに近づいてきていた。人だ。
はっきりと姿が見える距離になると、何かがおかしいことに気づいた。こんな大雨の中傘も差さず歩いているのに、髪も服も、全く濡れていない。水溜まりを踏んだ靴も、全く濡れていない。服や靴は防水加工が可能だろう。どれほど防水されるのかは知らないが、全く濡れないことも可能なのかもしれない。だが、髪はどうだろう。髪の防水加工なんて聞いたことがない。聞いたことがないだけで不可能ではないのだろうか。だとすれば便利だ。傘がなくても雨の中を歩ける。傘を持っていなくても問題ない。うん。凄く、便利。真剣な顔で花菜は頷く。
目の前に立った全身防水と思しき人間を見上げる。また会いに来たのかと。
「未夜……さん」
近くで見ると、肌にも水滴がついていない。まるで彼の周囲だけ雨が降っていないかのように。
「青羽君ならすぐ戻ってくると思います、けど」
「いや、今日はお前に会いに来た」
「私……?」
てっきりまたルナに会いに来たのかと思ったが、違うようだ。むしろルナを避けて来たような、そんな気もした。
「今僕がお前に会っていることはなるべく他言しないでほしい」
「?」
「玉城花菜、お前は青羽の目をどう思う?」
「目?」
「僕はまだ彼を疑っている」
「え?」
未夜は花菜に何も事情を話していない。違界のことも、何も。
この辺りでは見かけない目の色をしているルナが一体何者なのか、違界人なのではという疑惑はまだ消えていない。ルナと初めて会った日から未夜はずっと様子を見ていたが、変わった所は見られなかった。隠しているのだとすれば、ボロが出ないよう上手く隠していると思う。
要領を得ない質問に花菜は小首を傾ぐが、ルナの目が気になっていることはわかった。
「青羽君のあの目はイタリア人のお母さんからの遺伝です。綺麗な緑色だなぁって思います」
「綺麗、か。母親の目も同じ色なのか?」
「同じです」
「そうか。協力感謝する」
「? あ、はい」
未夜はそのまま踵を返し雨の中を去っていく。一人残された花菜は、何だったのだろうかときょとんと首を傾いだ。
「…………ごめん、遅くなった。急に降ってきたから貸し出し用の傘がもうこれ一本しかなくて……玉城?」
後ろから声を掛けられ、花菜はびくりと硬直した。そろそろと振り向く。
「あ……青羽君」
さっき未夜さんが来ててね、と続けそうになり慌てて口を噤む。なるべく他言するなと言っていた。なるべくということは万が一他言してしまっても問題はなさそうだが、完全に問題がないとも言い切れない。多少のペナルティはあるかもしれない。
「おかえり」
「玉城が差して帰るか?」
「それだと青羽君が濡れちゃうよ。一緒に入ろう!」
未夜は、ルナがハーフなのかを聞きたかったのだろうか。何処の国の人なのかを聞きたかったのだろうか。直接本人に聞けばいいのに。
「そんなに大きい傘じゃないけど、玉城は小さいしまあ何とかなるか。家まで送るよ」
「じゃあお言葉に甘えて送ってもらうね」
傘を差して一歩雨の中に踏み込むと、同時に激しい雷の音が轟いた。ぴゃっと花菜が硬直する。
「か、傘に落ちたりしないよね……?」
ちらりと傘の先端の金属棒を見上げる。落ちないとは言い切れない。
「雨宿りするか?」
この雨がいつ止むかわからないが。
「あんまり遅くなると心配されるし……がんばる」
「ああ……雪哉さんは心配するかな。でも傘を持って迎えに来そうなんだけど」
「今は学園祭前で生徒会の仕事が忙しいみたいだよ。普段ほっつき歩いて仕事しないから、ここぞと椅子に縛りつけられてるって」
本当に縛りつけられてはいないだろうが、それは自業自得だ。
ちなみに花菜のもう一人の兄は東京の大学に通っているため今はこちらにはいない。雪哉と同じように花菜を可愛がっているので、東京に行くのは躊躇ったそうなのだが、花菜の応援もあり渋々東京に行った。渋々の勉強で難関大学に合格するくらい、頭が良い。
そんな花菜の兄達より宰緒の方が頭が良いと言うのだから、各人の頭のバランスをもっと均等にできなかったのかと思う。
「台風も来てるし、傘持ち歩かないとなぁ」
「そうだな」
「もう靴の中ぐしょぐしょだよー」
ふとルナの顔を見上げる。綺麗な緑の双眸がそこにある。確かにこの辺りでは珍しい色だが、ルナの母親の出身地に行けばごろごろいるんじゃないかと花菜は思う。
「……何?」
視線に気づきルナも花菜を見下ろす。こっちを向かれると思っていなかった花菜は反射的に目を逸らしてしまった。そのことをルナは不審に思う。ルナの顔を見ていたわけではなく、目を見ていたことは視線でわかる。今まで散々この目を見られてきたのだ、何処を見ているのかは嫌でもわかるようになった。今更何をそんなに物珍しそうに見るのだろう。ルナも視線を外し伏せる。
花菜の家に着くまで会話はもうなかった。激しい雨と雷の音だけが鼓膜を震わせるだけだった。お互い一言も発さず黙々と歩いた。何となく、気まずい。
「――――あっ、もう家だから、ありがとう! 気をつけてね、青羽君!」
「え? 玄関まで送――」
食堂が見えてくると、花菜は慌てたように傘から雨の下へ飛び出した。食堂まではまだ距離がある。この大雨だと、辿り着くまでにびしょ濡れになってしまう。だが制止するよりも早く、花菜は一歩を駆け出してしまっていた。そして――
泥濘に足を取られ、慌てて腕を掴んだルナ諸共派手に転倒した。
「……」
「……ごめん」
転んだままぽつりと漏らす。
ルナは落ちた傘を手繰り寄せ花菜の頭上に翳す。
「……玄関まで送ってやるから」
「ごめん……」
「そんなに謝らなくていいって」
「違うの……他言するなって言われたけど、青羽君は友達だし、隠してるのは……何か違うなって……」
「他言? 隠してるって何を?」
言いにくそうに目を伏せる花菜に怪訝な顔で問う。
「えっと……とりあえず立とうか。ほら」
泥濘んだ水溜まりから立ち上がり、花菜に手を伸ばす。花菜は逡巡するが、恐る恐るルナの手を掴んだ。
泥だらけのまま食堂から家に入るわけにはいかず、裏口に回る。
「青羽君、シャワー浴びていく?」
「家近いしいいよ」
「そう……?」
裏口のドアを開け中に目を遣ると、丁度雪哉がアイスキャンディーを咥えて通り過ぎる所だった。急に開いたドアに、雪哉もはたっと立ち止まる。
「き、休憩中だから」
誰に言い訳しているのか、アイスキャンディーを手に吃る。
「兄ちゃん? まだ学校にいるのかと思ってたよ」
「雨が降りそうだったから家に仕事お持ち帰りだ――って何だその格好!? 貴様か!」
泥だらけの花菜を見て狼狽し、ルナに勢いよくアイスキャンディーを突きつけた。
「あ」
勢い余ってアイスキャンディーが手からすっぽ抜けた。ぽとりと床に落ちたアイスキャンディーに全員の視線が下がる。
「……コンビニでアイス買ってこい」
「何でですか……」
「何でお前らそんな……転けたのか。花菜か」
「転けました。玉城と一緒に」
「花菜、シャワー浴びて着替えてこい。風邪ひくぞ」
「あ、うん。じゃあ青羽君、先にいいかな……?」
少し困ったような顔をする。先程言いかけた『隠してる』ことの所為だろうか。
「いいよ」
花菜が手を振るので、ルナも振り返してやる。雪哉が凄く見てる。
ぱたぱたと花菜が去ると、雪哉は落ちたアイスキャンディーを拾いながらドアを指差した。
「青羽君、なんとタイミングの良いことに、今外に出ると漏れなくシャワーが浴びられるぞ」
「嫌です」
「ちっ、仕方ない。花菜が出てくるまで俺の部屋に行ってろ。ただし、その泥塗れの靴下は脱いでいけよ? あと、座って汚すな。俺はコンビニに行くから、ルナは俺の仕事を進めておけ、いいな?」
「仕事は嫌です……」
「アイス一本。濡れて寒いなら温かいものでもいいぞ」
「……嫌、です」
「今ちょっと揺らいだな? ま、いきなり仕事しろっつっても何するかもわかんねーのに熟せるとは思ってねーよ。おとなしく部屋で待ってろ。あ、この傘借りるぞ」
からからと笑い、学校で借りた傘を手にドアを開ける。からかわれた、とすぐに気づいた。
「あー、着替えは俺の服適当に着ていいからな」
妹がいる所為か、雪哉は年下にはよく気を遣い、ルナのことも妹の友達というよりは弟のような扱いをする。
全然止む気配ねぇな! と毒突きながら、ばたばたと雪哉は出ていった。
残されたルナは二階の雪哉の部屋へ、靴下を脱いで行く。何度か入ったことがある。いつもは綺麗に片付いているのだが、今は生徒会の書類等が散乱していた。配置を変えないように、部屋の隅に立つ。ちゃんと仕事をしているようだ。
座るなと言われたので暫くぼんやりと突っ立っていると、十数分程で徐ろにドアが開いた。
「――あ。ここにいた。青羽君、シャワー空いたよ。着替え持っていってあげる」
「ああ、ありがと」
書類を踏まないように部屋から出て一階の浴室に向かう。背後で「わあ!」という声とどたんと鈍い音がしたが、書類で足を滑らせて転んだのか。ばさばさと紙の音もする。雪哉が帰ってきたら何と言うだろう。
シャワーで軽く泥を流し浴室から出ると、タオルと着替えが用意されていた。着替えの服は少しサイズが大きかったが、気にするほどではない。
二階に戻ると、雪哉の部屋のドアは開け放たれたままで、中では花菜が床に張り付いて散乱する書類を纏めていた。散らかしているのではなく何か規則的に置かれていたのだとすれば、雪哉はやる気を無くすかもしれない。
「玉城、シャワー浴びたんだけど……」
「え? あっ、ごめん! そこにいるの気づかなかった!」
ばたばたと書類を端に寄せ、今度は転ばないように立ち上がる。
「雪兄ちゃん、まだ帰ってきてないよね? 青羽君、私の部屋行こ」
どうやらまだ帰らせてもらえないようだ。先程の――雨の中で聞かされたことの続きだろうか。
花菜の部屋も何度か入ったことがあるが、彼女の部屋はとにかくぬいぐるみで溢れている。女の子らしいと言えばらしいのだが、とにかく多い。あとは海で拾ってきた貝殻等が棚にずらりと並んでいる。
「何処でも座って!」
「ああ、うん……」
床に落ちているぬいぐるみを退け、腰を下ろす。小さな座卓を間に挟み、花菜もルナの前に座った。
「……あのね、青羽君。さっきのことなんだけど……」
「隠してる、ってやつか?」
「うん……」
花菜は一度目を伏せ、様子を窺うようにルナを見た。その目がルナの目を見ていることはすぐにわかる。
「あのね、さっきまた未夜さんに会ったの」
「!? 俺が傘を取りに行ってた時か?」
「うん……。青羽君の目が気になってるみたいだったんだけど……」
「目が?」
ああ、それで花菜は今更ルナの双眸をじっと見ていたのか。
「青羽君はハーフで、お母さんも同じ色だよって言ったの。青羽君を疑ってるとか、青羽君の目をどう思うかとか言われて……その時は深く考えなかったんだけど、なるべく他言するなって言うのは、どういう意味だったのかなって、私、何か余計なこと言ったりしてないよね? 青羽君のこと訊かれて、なのに他言しちゃいけないって……青羽君は友達だから、このまま黙ってたくなくて……」
ぽつりぽつりと頭の中で整理しながら、でも整理しきれずに言葉を紡いでいく。ルナは小さく相槌を打ちながら花菜の言葉に耳を傾ける。
「何で直接青羽君にじゃなくて、私に訊くのか、わからなくて……」
「…………」
「青羽君には何か、重大な秘密があって、国家権力者達が血眼になって探してるとか?」
一気に飛躍した。
「ないない」
ぱたぱたと手を横に振る。ハーフであること以外は至極普通の一般家庭だ。長期休暇にはいつもイタリアに帰省するほどの貯えはあるが、ホテル代はかからないし観光するわけでもない。
「実は青羽君は人の子じゃない……機械人間で、目から光線とか出ちゃうとか!」
「出ない出ない。ちゃんと人の子だ」
半ば興奮気味に腰を浮かす花菜を落ち着かせる。
「だよねー。安心した」
ほっと安堵した様子で笑う。何を心配していたのだ。
「でも他言しちゃったし、怒られるかな……。なるべく、って言ってたからセーフかな? どうかな? 大丈夫かなぁ」
「怒られたら、俺に無理矢理吐かさせられたとか、実はあの時近くにいて全部聞かれてたとか言えばいいよ」
「無理矢理なんて、そんな青羽君を悪者にはできないよ」
ぶんぶんと両手と首を振ると同時に、勢いよくドアが開け放たれた。
「花菜に無理矢理何してんだああああ!!」
凄まじい形相でコンビニ袋を突きつけ、雪哉が乗り込んできた。
「うわああああ!!」
「きゃああああ!!」
突然の大きな音と声に、二人の心臓は跳ね上がった。
「お前っ! かっ、花菜に何かっ……」
ルナの胸座を掴みゆさゆさと脳味噌を揺する。ルナの頭は前後左右に振り回され目が回る。止めようと花菜は腰を浮かすが、おろおろと手を差し出そうとしたり引っ込めたり。
「なっ、何も、してませ、んっ! ごかっ、誤解でっ、す……」
「青羽君は何もしてないよ! ちょっとお話してただけで……」
振り回されていたルナがぱたりと解放され勢い余って後方に飛んだ。
「何だ先に言えよ」
「いや……言う暇なかったじゃ……き、気持ちわる……」
「だ、大丈夫? 青羽君」
床に両手を突きよろよろと身を起こすルナを心配そうに覗き込む。雪哉も悪いと思ったのか、様子を窺っている。
「お前の分もアイス買ってきてやったから、食うか?」
「じゃあ、貰います……」
「ああ、それと一つ訊いときたいんだけど。俺の部屋の書類、片付けやがったのは誰だ?」
心なしか雪哉の声が震えている。あの書類は散らかしていたのではなく、何か規則的に置かれたものだったようだ。
「私!」
花菜が元気良く手を挙げた。兄が散らかした書類を綺麗に片付けてあげた、と思っているのだろう。
雪哉は手で顔を覆う。
「ありがとう……花菜の優しさが辛い……」
「? どういたしまして!」
首を傾ぐが、ふにゃりと笑う。
本当に雪哉は、妹に弱い。