序章/第一章『動』
ゆるく たのしく 鬱くしく
クレープが食べたかったようです。
【序章】
夏休みも終盤に差し掛かり、残り少ない休日を噛み締める。
真っ青な空に、七色のアオに輝く海。穏やかな波が岩にそっと寄せる。
少女は麦わら帽子の鍔を両手で掴み、岩場に飛び降りる。膝を曲げ着地すると、肩に提げたポシェットが岩にぼすんと落ちた。
足場の悪い岩の上をよたよたとぎこちなく進み、海の際でぴたりと止まる。岩の凹みに溜まった海水の中に、小さな生物達がゆったりと動いていた。
「……あっ」
岩場の少し下に大きな貝殻を見つけ、少女は目を輝かせて身を乗り出した。小さな体を岩場に貼り付け、目一杯手を伸ばす。だが水の中で揺らぐ貝殻には届かない。
「んーっ!」
手は水面を掻くばかりで、全く届く気配がない。
諦めかけた時、前傾していた頭からふわりと帽子が滑り落ちた。反射的にそちらに手を伸ばし体を浮かせる。
「あっ」
不安定な姿勢になり、海の方へ前のめりに傾いてしまう。
このままでは頭から海に落ちてしまう。少女はぎゅっと目を瞑り固く口を結んだ。
「…………?」
だがどれほど待っても海に落ちない。体の傾きもそのままで、岩に足がついている。恐る恐る目を開けてみると、水面は近くなっていたが水に浸かることはなく、不安定な姿勢のまま両手が波に揺られふらふらしていた。
何が起こったのか理解できず、硬直する。
じっとしていると、今度は後ろに引っ張られた。岩にぺたんと座り込む形になる。暫く呆然としていたが、背後に人が立っていることに漸く気づいた。すらりと背の高い男性だった。光の加減だろうか、左右の目の色が少し違うように見える。茶と言うには色素が薄く、金に近いかもしれない。男性は表情を変えず、じっと少女を見下ろしている。彼が助けてくれたのだと理解するのに暫し時間を要した。
「あっ、あ、ありがとうございます!」
慌てて立ち上がり大きく頭を下げる。
男性は少女に何も言わず、海へ向かって手を差し出した。少女もその手の先に目を遣る。
「あ……帽子……」
この男性の腕の長さなら届くだろうか? と考えるが、もし彼が海に落ちてしまったら体の小さな少女では助けられないし、無茶な頼みはしない方がいい。帽子は諦めるしかない。
少女が肩を落としていると、男性の羽織っている上着の袖口から細い紐のようなものが射出された。ワイヤーだろうか。紐のようなものは真っ直ぐ帽子に向かい、鍔の際を咥えすぐこちらに引き戻される。紐が袖に戻されると帽子はふわりと男性の手に収まり、その全体を一撫でした。ぽかんと口を開けて一部始終を見詰めていた少女の頭にぽんと帽子が載せられると、その帽子は少しも湿っていなかった。不思議に思いながらも、帽子を掴んだ紐のようなものの方が気になってしまう。
「凄いですね! こういうの青羽君好きそうだなぁ」
また射出されないかと袖口を注視してみるが、何も出てくる気配はなかった。
興味津々で袖口を見ていると、ずっと口を噤んでいた男性が初めて口を開いた。
「海の中に何か?」
少女は一瞬きょとんとするが、すぐに、ここで何をしていたのかと尋ねられていることに気づく。
「綺麗な大きな貝殻があったので、欲しいなぁと思ったんです」
きらきらと目を輝かせ海の中を指差すと、男性も岩場の端へ行き海の中を見下ろす。
「あっ、危ないですよ!」
「欲しいのか?」
「え? あ……欲しい、ですけど、届かないので諦めようかなぁ、と」
少女が苦笑すると、男性は再び海へ手を差し出した。そして再び紐のようなものが射出され、海の底に沈む貝殻を掴んで戻ってきた。手の中にぽとりと落ちた貝殻を無言で少女に差し出す。
少女は貝殻と男性の無表情を交互に見、そわそわと貝殻を受け取った。
「い、いいんですか?」
男性はこくりと頷き、少女を見詰める。
「訊きたいことがある」
「はい……? あっ、はい、私がわかることなら!」
どうやら最初から少女に訊きたいことがあるために近づいてきたようだ。それが目の前で海に落ちそうになり、咄嗟に助けたと。
「最近この辺りで変わったことはなかったか? 伝聞でも構わない」
「変わったこと……? 特に何も……あ、この辺りじゃないですけど、青羽君の行ってるイタリアで、原因不明の崩壊事件が! 地面や建物が知らない間に壊れてたってニュースでやってました! あ、でもニュースでやってたなら知ってますよね……」
「いや、テレビなどは見ていない。……少し遠いな」
「遠いですね」
「先程から名前が挙がっている青羽というのは?」
「私のクラスメイトで友達です。そろそろイタリアから帰ってくると思います。夏休みが終わったら学校で会えます!」
「そうか。なら、学校が終わった放課後で構わない。そいつに会いたい」
少女の笑顔がきょとんとするが、すぐに笑顔に戻る。
「青羽君の知り合いですか? 長いお休みの時は青羽君捕まえられないですよね。一応連絡先聞いておいてもいいですか?」
「連絡先? 電話は所持していない」
「えっ、そうなんですか……どうしよう……。じゃあ名前だけでも聞いていいですか?」
「未夜」
「未夜……さん? えっと、私は玉城花菜って言います! 何かあったら学校で呼び出してもらっていいですよー」
柔らかく微笑み、緩く手を額に当てて敬礼のポーズをする。
連絡先が聞けなかったため学校の場所や待ち合わせの時間などを入念に確認し、花菜は手を振り未夜と別れた。夏も終わりとは言えまだ暑いのに、長袖の上着を着ていることにクラスメイトを思い出し親近感が湧いてしまったが、足元にはごついブーツを履き、この辺りでは見たことがない格好だった。今更警戒しても遅いが、その点は問題ない。玉城花菜の警戒心は欠如している。
【第一章 『動』】
夏休みが終了する一週間程前、ルナと宰緒達は帰国した。椎達を襲ったコルは今頃まだアンジェ達と、黒葉とルナの祖父母家の修理をさせられているだろう。
椎はルナ達と共に行きたいと言ったが、イタリアから日本に行くにはパスポートが必要だ。違界から来た椎にはこちらのパスポートなどあるはずもなく、灰音と共にイタリアに留まることになった。が、黒葉に知恵を授かっているかもしれない。違界の者を近くに置くことを嫌がるだろう黒葉に。家の修理が終わればコルも用済みとなって放り出されるだろう。コルの場合はさっさと解放されたいと思っているだろうが。
囚われていたリタにも特に不調はなく、壊された家々を除けば、普通の生活に戻ったと言える。
「サク、おはよ」
鞄を机に置き、窓際の席に腰掛ける。後ろの席で突っ伏していた宰緒はのっそりとフードに包まれた顔を上げ、挨拶をしてきた顔を確認する。
「……ああ、青羽か」
それだけぼそりと呟き、再び両腕の中に顔を埋める。
「眠そうだな」
「お前ん家煩すぎてあんま作業捗らなかったからな、帰ってきてから徹夜続きだ。そろそろ死ぬ」
確かに煩かった。家の修理や色々な物に興味を示す椎、安静にしていなければならないのに歩き回る灰音、そして家に出入りするアンジェに黒葉、ヴィオ、コル。時々ロレンとリタが差し入れを持ってきてくれたが、あの二人は寡黙で物静かだ。全員あれくらい静かになれ、と宰緒は常々漏らしていた。
「別にそんな頑張って徹夜しなくても……締切りとかのない趣味なんだろ?」
「やりてぇからやってんだよ。締切りとかんなもん関係ねぇ。俺は俺と戦ってんだよ」
「わかった。寝ろ」
「助かる」
疲れているようなので、ここはおとなしく寝かせておこう。
面倒臭がりな宰緒がここまで熱くやっているのは、ゲームの制作らしい。イタリアにいる時もひたすらプログラムを打ち込んでいた。好きなことには熱中するタイプのようだ。
始業式まではまだ少し時間がある。それまでは声を掛けないでおこう。
教室に疎らに入ってくるクラスメイトを見遣り、ルナは鞄を机の横に下ろす。
夏休みの出来事で談笑する声の中に、こちらに向けられる声が混じる。
「あ! 青羽君、おはよう。ちょっといいかな」
私はここだよとでも言うように手を振り、教室に入ってきたクラスメイトの一人が足早に接近してくる。
「おはよ、玉城――あ」
「わー!」
机の横に下がっている鞄に足を引っ掛け、派手に転んだ。
「大丈夫か……?」
「えへへ……大丈夫!」
床に打ちつけた膝を擦り、よろよろと身を起こす。
目の前で転ばれて多少は驚くが、彼女が転倒するのはこれが初めてではない。むしろ頻繁に転んでいる。不注意と言うか何と言うか、目の前のことで頭が一杯になってしまい足元に注意が向かないようだ。
大きな物音で生徒達がこちらに目を向けるが、またか、という風にすぐに談笑に戻る。宰緒も少し顔を上げたが、何だ玉城か、とすぐに眠りに戻る。
本人も全く気にした風はなく、ぱんぱんと制服を払い、にこりと笑顔を向ける。
「あのね、青羽君。未夜って人、知ってる?」
「え? みや……?」
「背が高い男の人!」
「さあ……聞いたことないけど」
「そっか……」
『みや』というのは苗字なのか名前なのかもわからないが、どちらにせよその名前の男性に心当たりはなかった。
「その人がどうかしたのか?」
「うん。青羽君に会いたいって」
「え?」
知らない男が、会いたいと……? その男の方はルナを知っているということなのだろうか。もしくは、ルナが忘れているだけで、知り合いという可能性も。
「今日の放課後、学校の前で落ち合うんだけど、いいかな?」
仮に知り合いだとすれば、顔を見れば思い出すかもしれない。
「構わないけど……玉城は何処でその人と?」
「海に落ちそうになった所を助けてくれて、海に落ちた帽子も取ってくれた良い人だよ!」
「悪い人ではなさそうだけど」
「その人ね、最近この辺りで変わったことがなかったかって訊いてきて、それでニュースで青羽君がいたイタリアの原因不明の崩壊なんて見たなぁと思って教えてあげたの。そしたらね、青羽君に会いたいって」
「……」
ほぼ知らない人である可能性が上昇した。事件の調査か? ルナの名前は偶々彼女が出しただけのようだが、面倒なことにならなければいいのだが。
「青羽君は大丈夫だった? 壊れた家の下敷きにならなかった?」
建物の下敷きになっていたら今頃病院かこの世にいないかだと思うが。
「俺は大丈夫だよ。奇跡的に死傷者は出なかったそうだし」
「青羽君のお家は?」
「あー、それは……少し崩れたけど」
「え!? そっか、無事で良かったよ!」
心配そうな顔をした後すぐにふにゃりと笑顔を作る。何だろう、何処となく花菜は椎に似ている気がする。だから椎をあまり不審がらずに受け入れてしまったのだろうか。得体の知れない違界なんていう場所から来た椎を。黒葉も違界から来たとのことで多少は警戒を解く理由になっただろうが、それでも初対面の者を家に泊めるとは。結果家が崩れたり殺されかけたりと散々だったのだが。
頬杖をつき、溜息一つ。本当に、今年の夏休みは散々だった。
「青羽君も久慈道君もお疲れだね。今日は始業式だけだし、終わったら家においでよ。ごちそうしてあげる!」
「じゃあお言葉に甘えようかな」
花菜の家は小さな食堂を営んでいる。花菜とルナの出会いは、ルナが初めてこの町を訪れた時に偶然入った食堂が花菜の家だったこと。その時花菜は店の手伝いをしており、てきぱきと注文を聞き、料理を運んでいた。慣れているようで危なっかしい動きはなく、特に気に留めなかった。だが、年の近いルナを見つけると、少し様子が変わった。いや、ルナの目が緑色をしていることに気づいたからだ。しかもその時のルナは両親と共にいた。父は日本人だが、母はイタリア人だ。ルナと同じ緑色の目の母。日本語が喋れないとでも思ったのかもしれない。ルナも母も日本語が喋れるが、注文は全て父が伝えた。真剣に注文を聞き、右手と右足を同時に出しながら来た道を引き返し、料理を運ぶ際、花菜は自分の足に絡まって派手に転倒した。注文した沖縄ソバは宙を舞い、汁が辺りに飛び散りルナにも――と、これだとまだ良かったのかもしれない。花菜の持つ盆から離れたソバは、器がルナの頭に直撃、鈍い音が小さな店内に響いた。まさかソバの鉢が飛んでくるなんて思いもしなかった。おかげで何も反応できず、器が頭に当たった衝撃と重みでルナは椅子から引っ繰り返った。そんな衝撃的な出会いだったので、通うことになった中学校の入学式で花菜の姿を見た時は驚いたし無意識に頭を庇った。でもそれ以来、食堂に行くと特別割引とやらで半額にしてくれる。実害を被ることもあるが、花菜は良い子だと思う。暫く瘤が消えなかったが。
始業式が終わり連絡事項の確認が済むと、午前中に学校は終わる。そのまま部活に出る者も多いが、ルナ達はどの部活にも所属していない。学校の駐輪所から自転車を出し手で押していく。宰緒はまだ眠そうだが、倒れず食堂まで行けるのだろうか。
花菜は先に校門を出ていく。落ち合う予定だという未夜を呼びに行くと言って。ルナ達が校門に辿り着く頃に花菜が門からひょっこり顔を出し手を振っていた。ルナが手を振り返すと、稀に小学生にも間違えられるくらい小さな花菜の後ろから、長身の男が顔を出した。宰緒ほどの身長はないが。
「……?」
影になった男の双眸が、左右で微妙に色が違うように見えた。薄い茶と金に近い色のような――
「――っ」
目に見入っていた所為で一瞬で間合いを詰められた。男がルナを見下ろしている。ルナの緑の双眸をじっと見据え、逸らそうとしない。
「この辺りでは見かけない、色」
ぼそりと呟き、男はルナに向かって手を持ち上げる。何をされるのかわからず、ルナは硬直してしまった。
殴られるのか、と咄嗟に目を閉じようとした時、後ろから襟を掴まれ後方に引っ張られた。
「――わっ」
体勢が崩れルナは尻餅をつく。その頭上で男の拳――いや、袖の中できらりと何かが光った。何か、鋭利なものが――。
襟を掴まれ咳込むが、拳を顔面に食らうよりは余程いい。と言うか、何だこの既視感。
椎が黒葉に襲われた時に、似ている。
ルナの襟を掴んでいた手がするりと離れる。どうやら宰緒が引いてくれたらしい。
宰緒は男の前に自転車を置き、効果があるかはわからないが障害物とした。
「何だお前」
まだ眠そうな目で宰緒は男を睨む。
男の後ろで花菜が恐る恐る近づいてくるが、状況が全く飲み込めていない。
男も眉根を寄せる。
「そいつから離れろ。それともお前も仲間か?」
「こっちの質問に先に答えろ。面倒くせぇ」
サクが俺を庇ってくれてる……とルナは感動を覚えたが、早合点だった。
「こんな所で足止めされたくねぇんだよ。早く帰らせろ」
早く家に帰ってプログラムの続きを打ち込みたいだけのようだった。
「だっ、駄目です未夜さん! いきなり乱暴なことは……よくわかりませんが、まずは話し合いをしましょう!」
どうやらこの男が未夜という人物で間違いなさそうだ。
花菜はルナを庇ってくれるらしい。門の影から少し出た所でじりじりと足を接近させているだけなので物凄く遠いが。
「話し合いはする必要がない。意味を成さない」
未夜は聞く耳を持たない。椎と初めて会った時の黒葉そっくりだ。ならば黒葉なら、こういう時この場をどう収めるだろう。あの時あの場を収めたのはアンジェだ。これはアンジェを連れてくるしかないのか。
「そんな頭ごなしじゃ駄目です! そうだ、これから皆でお昼食べましょう! きっとお腹がすいてピリピリしてるんです。ごちそうします!」
何故昼食に誘う。
「だから乱暴なことは……あっ」
狼狽えすぎたか、花菜は接近しながら自分に足を引っ掛け転んだ。
「――ぶ」
そのまま未夜の背に思い切り頭突きをかました。
「……何の真似だ、玉城花菜。邪魔をする気か」
「あ……ごめんなさい……そんなつもりは……でっ、でも、青羽君に乱暴なことをするなら、邪魔します!」
ゆっくりと振り返った未夜に花菜はガタガタと畏縮するが、喉に詰まる声を必死に絞り出す。
「未夜さんは私を助けてくれた恩人ですが、青羽君は私の友達なので、酷いことをするなら止めたいです!」
「玉城……」
やっぱり良い子だ。
しかし未夜には花菜の思いが伝わらないようで、彼女を無下に振り払う。頭一つ分以上身長差がある所為で、花菜は体勢を崩して尻餅をついてしまった。
未夜はルナに向き直り、再び手を上げる。宰緒は自転車を持つ手に力を籠めるが、眠くて力が入らず持ち上げられなかったので諦めた。
立ち上がっている暇はない。這って避けるしか術が思いつかない。
張り詰めた空気の中で、遠くから急速に近づいてくる声が聞こえた。
「おーれーのー、妹にー、何してんだこのクソ野郎!!」
「!!」
大きく弧を描くように走り込み、まるで走り高跳びでもするかのように未夜に跳び蹴りが入った。未夜は数歩後退り腕を下ろす。不意打ちだと思ったのだが、防いだようだ。
「大丈夫か? 花菜」
「兄ちゃん!」
跳び蹴りを食らわせ、地面に座り込んでいる花菜に手を差し伸べたのは、花菜の兄だった。花菜には兄が二人いる。花菜の分の身長と運動神経を吸い取ったと言われる兄が二人。目の前にいるこの兄は二つ年上で、同じ高校に通う先輩だ。玉城雪哉。妹に滅法甘く、よくフラフラと彷徨いているがこの学校の生徒会長も務めていたりする。
花菜をひょいと立ち上がらせると、雪哉は未夜に人差し指を勢いよく突きつけた。
「部外者は立ち去れ。この学校の敷地内で問題を犯すなら、相応の制裁を下す」
生徒会長が出てきたからか、付近の生徒達も徐々に集まってくる。
「……人が集まってきたか。仕方ない、一旦引――」
踵を返そうとした未夜の腕を慌てて掴む者がいた。
「待ってください! お昼一緒に食べましょう! それから、青羽君を襲った理由を聞かせてください!」
その場の全員が、引き止めなくていいからおとなしく帰らせてやってくれ、と思ったが、これ以上状況が複雑になっても困る。もうなるようになればいい。
未夜は考え込むように数秒花菜を見詰めた後「少し話を聞いてやってもいい」と折れた。
花菜の先導で玉城家に招かれ、ルナと宰緒は食堂の空いている席につき、少し離れた席に未夜が座った。昼時ということもあり、食堂は近所の常連客で賑わっている。この中で騒ぎを起こせば面倒なことになるだろうが、先程未夜は学校で人が集まることを避けていた。今回もそうしておとなしくしてもらえると助かる。
『たまき食堂』の看板娘である花菜は常連客達に声を掛けられながらにこやかに奥の部屋へと消えていった。その間見張りのように雪哉が未夜の前に座り、睨みを利かせている。
「で、こいつ何なワケ?」
ルナと宰緒の方に目を遣り、未夜を指差す。何だと訊かれても、二人もよくわかっていない。
「玉城の方が知ってると思うんですけど……」
「俺も玉城だけどな」
「え、あ。花菜……さん」
「じゃあ戻ってきたら花菜に訊いてみるか。お前は話す気ねーのかよ?」
じっとりと未夜を睨む。
だが未夜は表情を変えず無言。何も話す気はないようだ。
「お前、そんな格好で暑くねーの? 常々宰緒にも思ってるけど」
先程は突然の奇襲に驚くばかりで気に留めていなかった……そう言われれば、未夜は宰緒のように長袖の上着を纏っている。ちらりと宰緒を一瞥すると、彼は机に突っ伏して夢の中だった。
雪哉の質問に、未夜は何も答えない。
「何? お前、女にしか口を開かない、とか?」
「少しですけど、サクと話してましたよ。会話になっているかはわからなかったですけど」
「へぇ」
暫く一方的に喋り掛けたが、その一切に未夜は口を閉ざしたままだった。
ソバが出来上がり、着替えを済ませた花菜が自分の分を含め全員分をテーブルに運ぶ。
「私のお手製サラダもつけとくね! 未夜さんもどうぞー」
「おお、さすが花菜! 完璧なサラダ!」
ただの生野菜サラダだ。
この兄はいつもこんな感じだ。ちなみに花菜は生サラダ程度の料理しか作れない。
ソバの匂いで目が覚めたのか、宰緒もむくりと起き上がりソバに目を落とす。
「うっわ、何かグロいもん載ってる」
「テビチだよ! 二人共疲れてるかなと思って、これで元気出るかな?」
テビチ。豚足のことだ。豚足がどかっと二本、ソバを覆い隠すように鎮座している。
「さすが花菜! ナイス気遣い! おいお前ら残さず食えよ」
「玉城のソバ、足一本しかないじゃん。遠慮すんな、俺のやる」
箸で豚足を掴み、花菜に差し出す宰緒。
「花菜は少食なんだよ。だからちゃんと自分の分は食えよ宰緒」
物凄く嫌そうな顔をする宰緒にとびきりの笑顔を向ける雪哉。だが問題は宰緒だけではなく、未夜もソバを見下ろし固まっている。ルナは父親が沖縄に長いので、幼い頃から豚を使った料理には慣れ親しんでいるため問題はない。問題があるとすれば茶の方――ルナは苦いものが苦手だ。ルナはいつも持ち歩いている金平糖を取り出し、豚足で言い合っている宰緒と雪哉を尻目に熱い茶にちゃぽちゃぽと入れていく。家で砂糖を切らしていた時に丁度手近にあった金平糖を試しに入れてみたことが最初で、それからは何となく持ち歩いている。甘党というわけではないのだが。
三人にはそれも最早見慣れた光景なので今更何か言うこともないが、未夜は怪訝な顔でルナを見ている。
「お前も物珍しそうに見てないで食えよ。冷めるぞ」
「……」
相変わらず未夜は何も言わないが、雪哉が豚足に齧りつくのを見て、箸で自分の豚足を突く。食べられるものなのか確認するように。
「それで、花菜。こいつは何なんだ?」
未夜に目を遣り、雪哉は本題を切り出した。
ソバを口に運んでいた花菜はぴたりと箸を止める。
「私が海に落ちそうになったのを助けてくれたの。青羽君に会いたいって言うから……」
学校で待ち合わせてみたが、危害を加えようとするとは思っていなかった。
「未夜さんはどうして青羽君に会いたかったんですか?」
「話す義理はない」
「襲われた俺が訊いても教えてくれないのか?」
金平糖を溶かす手を止め、ルナも会話に加わる。顔を見てもやはり未夜に見覚えはなかったが、襲われた理由くらいは知りたい。
「……少しおとなしくしていろ」
質問には答えず徐ろに立ち上がる。皆の視線を受けながら、未夜はルナに近づいていく。
「無駄な抵抗はするな。少し前に頭を下げろ。おとなしくしていれば何もしない」
ルナを見下ろし、未夜は感情の籠らない声で言った。何もしないと言われても、おとなしくしていた先程襲われたので、信用できない。宰緒はこちらの様子を窺いながら黙々とソバを啜り、花菜はハラハラと見守り、雪哉は腰を浮かせていつでも飛び出せるよう構えている。ここで暴れられたら他の客にも被害が及ぶかもしれない。雪哉はルナの目を見、こくりと頷く。とりあえず言うことを聞けということだろう。
ルナは器を横に避け、言われた通り少し頭を下げる。
「そのまま動くな」
「!?」
未夜は片手でルナの頭を掴み、机に押しつけた。雪哉が立ち上がりかけるが、片手で首の辺りの髪に触れているだけだと様子を窺う。ルナは、まさかこのまま首を落とされたりはしないよな……? と体を硬直させることしかできない。「乱暴はよくないよ……」と花菜の脅えた小さな声が聞こえる。
暫くルナの首に触れていた未夜はやがて手を離し、考え込むように顎に手を遣った。
「……人違い、か?」
「?」
「おい、説明してもらおうか?」
何のことやら理解が及ばずルナは怖ず怖ずと未夜を見上げる。雪哉は食ってかかろうとするが、未夜に制止の手を出されると頭を引き口を噤んだ。
そして未夜は一言だけ、紡いだ。
「首輪」
「!?」
「!」
「え?」
「?」
「お前とお前、後で説明してやる。その二人には言えない」
ぴくりと反応してしまったルナと宰緒に目を遣った後、怪訝な顔をする花菜と雪哉に目を遣る。ルナと宰緒は嫌な予感を覚えた。動物につける首輪ならば、どんなに良いだろう。彼が唐突に口にした「首輪」が違界の者特有のあの首輪を指しているとすれば――黒葉のようにこちらの世界に溶け込んで生活している違界の者に、こんなに頻繁に出会すものなのか?
未夜はルナの首の辺りを頻りに調べていた。ルナの首に首輪がついていると思ったのか? 学校で襲ってきた時、未夜はぼそりと『見かけない色』と漏らしていた。それは、目の色のことだったのではないか? ルナの目の色は確かにこの辺りでは見かけない。
「俺と花菜が直接お前から聞かなくても、後でルナと宰緒に聞けばいいんだな」
「好きにしろ。そのことに関しては関与しない」
それからは、席について黙ったまま、ルナと宰緒が食べ終わるのを待っていた。未夜は結局、何も口にしなかった。まるで食べる習慣などないかのように。
未夜の放つ威圧感の所為で、腹が膨れた気がしない。全く食事に集中できなかった。
食堂は人が多いとのことで、場所を移して説明してもらうことになった。後で聞かせろよ、と雪哉に念を押され食堂を後にし、ルナと宰緒は自転車を押しながら、背後についてくる未夜をちらちらと盗み見る。
「青羽の家何処だっけ」
「えっ? また俺の家!? もし万が一また家が壊れたりとか……」
「俺の家がぶっ壊れてもいいのか。俺の家じゃなく下宿だが」
「そういう意味じゃなくて、家に行かなくても、その辺の空き地とか」
「あー。すぐに逃げられそうだしな」
「あそことか」
「あー。あそこでいいんじゃね」
「適当だな……」
道の脇の雑草が生い茂る空き地の入口に自転車を留め未夜を招く。
「何のお構いもできませんが、どうぞ」
寝惚けているのか? ままごとでも始める気か。
「? お構いなく」
意味がよくわかっていないだろうに、未夜が乗ってきた。意外とノリがいいのだろうか。
宰緒は自転車に跨り、ペダルに片足を掛けた。いつでも逃げ出す準備は万端だ。ルナも宰緒に倣って自転車に跨っておく。
「それで? 青羽を襲った理由は? 面倒くせぇから簡潔に頼む」
眠そうな目で一つ欠伸をする。
未夜は首に掛かる上着のファスナーを下ろし、二人に見えるよう首を傾けた。
「あ……」
「……」
ごくりと唾を呑む。椎や灰音がつけていたものと似た細い金属の首輪が嵌められていた。
「やはり知っているのか。お前の首の後ろには何もなかった。お前はこちらの人間なんだな。人違いだったことは謝っておく」
「首の後ろ……?」
「何処まで知っているのか知らないが、食糧を体内に取り込む際に首輪から針のようなものが出る。それが首の後ろに傷をつけ、首輪を外した状態でも傷跡か痣が残る」
違界の事情を知っている――未夜は、違界の人間だ……。
違界の人間は皆首輪を嵌めており、口から食糧を摂取しない。口にできるものなどないのだ。そのため首輪を使い、機械に燃料を補給するかのように栄養を摂取し脳に強制的に満腹感を与える。先程未夜が食堂で何も口にしなかったのは、豚足に引いたわけではなかった。食べられないのだ、何も。
「ハズレだったのは仕方がない。お前が体験したという原因不明の事故について詳しく聞きたい。違界の人間が絡んでいる可能性がある」
淡々と言葉を紡ぐ。左右の微妙に異なる色の目が圧力をかける。
「何で俺達が違界のことを知ってると思ったんですか」
「違界を知っていれば、この格好や目の色に不審を抱くだろう。その上で最初に奇襲をかければ警戒する。その後、違界を知る者なら反応し知らない者なら特に反応のない単語でも呟けば、違界を知る者は簡単に釣れる。余程のポーカーフェイスでなければ」
まんまと釣られてしまったということらしい。
「イタリアのことを話す前にもう一つ質問していいですか」
「……穏便に済ませたい。一つだけだからな」
「未夜……さん、って、何を探してるんですか」
ルナがハズレなら、アタリもあるはずだ。
未夜は上着のファスナーを上げ、再び首輪を隠す。
「違界の人間を探している。勝手にこちらの世界に踏み込み荒らす者を始末する仕事をしている」
「始末? 仕事……?」
「違界の惨状の所為でこちらの世界に逃亡する者が跡を絶たない。無闇に違界の情報がこちらに流れるのはいらぬ混乱を招く。それ以上に、こちらの戦闘手段を持たない者達に危害を加え暴れられるのは阻止したい。治安維持の仕事だ。違界の中でこちらに向かおうとする者を見つけ出すことは難しい。こちらの世界で起こる騒動に駆けつける方が捕まりやすい。僕は偶々この辺りの偵察をしていた」
「……他にも仲間がたくさんいるってことか?」
「たくさん、というほどではないが、僕の所属する治安維持コミュニティは数など意に介しないほど皆優秀だ」
「そう、なんですか……」
もしかすると、イタリアにもそのコミュニティの者がいたのかもしれない。いや、近くにいたならすぐに騒ぎを嗅ぎつけてきただろう。今頃椎達の身に何か起こっていなければいいのだが。
「質問には答えた。次はお前の番だ」
「その、目……」
「?」
薄い琥珀色の右目と、冷たく刺すような金の左目。微妙に色の違う両目に、何故だろう、違和感を覚えていた。この機会に聞いてみたかった。
「わかるのか?」
少し、表情が変わった気がした。ほんの少しだが、嬉しそうな顔をしたような気がした。気の所為だと言われれば認めてしまいそうな、微細な変化。
「驚いたな。こちらの人間が気づくとは。お前が言いたいのは色の違いではないな?」
こくんとルナは頷く。色の違いも気になるが、それ以上に。
「この左目は、僕の師から戴いた義眼だ」
「作り物……」
「本物と見分けがつかないほど精巧で繊細なものだと言われているんだが、少し見ただけで気づくとはな」
違界では体の一部が欠損し技師に補ってもらう者が少なくない。未夜もその内の一人なのだ。椎のように彼も、技師に欠けを埋めてもらっている。しかも『師』ということは、彼自身も技師なのかもしれない。違界に帰るために技師を探している黒葉が脳裏を過ぎる。
「目のことは後にしよう。先にお前の話を聞きたい」
すぐに話を戻してきた。未夜の治安維持の仕事がどの程度に及ぶのは判然としないが、ただ違界から逃げてきた椎に始末の手が及ぶなら話を逸らすか濁さなければならない。灰音は派手に銃も撃っている。灰音が始末されるなら椎は悲しむだろう。黒葉もどうなるだろう。コルは間違いなく始末されるに違いない。
だが話を逸らすのは難しいかもしれない。ここで逃げれば怪しまれてしまう。どうにか濁してこの場を脱しなければならない。先程までよくルナを庇ってくれていた宰緒なら、いざという時に力になってくれるかもしれない。そう少しばかり期待を込めて宰緒を見てみると、半分目を閉じてうつらうつらと頭を揺らしている。道理で静かだと思った。
一人で何とかするしかない。
* * *
暗い部屋の中で頬杖を突きながら、少女は分厚いファイルの頁を捲る。眼鏡の奥の鋭い目がすっと細められる。
部屋に響いたノックの音を耳に、「どうぞ」と呟くように言う。
少女はファイルの文字を追うことを止めない。
静かにドアが開き、きちりとネクタイを締めた初老の男が部屋に入ってくる。
「お嬢様、明かりを点けても宜しいでしょうか」
「構わないわ」
白い手袋に包まれた手が部屋の明かりのスイッチに掛かる。
「紅茶をお持ちいたしました」
明かりのついた部屋はとても広く、落ち着いた重厚な家具が鎮座している。その内の机に向かっている少女は長い黒髪を払い振り向く。
少女はこの広い部屋にいつも一人きりだ。時々こうして使用人が訪れる以外はしんとしている。
紅茶が注がれたカップを受け取ると一口含み、一つ息を吐く。
「近い内に旅行に行こうと思うの。準備をしていてちょうだい」
「旅行、ですか? お友達とでしょうか」
「一人よ。付き添いもいらないわ」
「お一人だとお父様が心配なさるのでは……」
「構わないわ。心配でも何でもさせておきなさい。私あの人嫌いなの。紅茶が不味くなるわ」
長い睫毛を伏せ、カップに口をつける。
「ご旅行はどちらへ?」
「内緒」
「しかしそれではお父様が……」
「煩いわね。どいつもこいつも、父の犬ね。精々尻尾を振ってお利口にして可愛がってもらえばいいわ」
ふん、と少女はカップをテーブルに置く。
「いい? 私は腐った目の人間に興味はないの。あなた達は皆父と母の犬。何でも言うことを聞く、自我のない死んだ目をしている。だから私は皆大っ嫌い! この家の中で好きな人間なんていない。だから一人がいいの。
――もういいわ、紅茶が冷めてしまった。下げてちょうだい。代わりもいらない。下がって」
憐れむような笑みを浮かべ、少女は使用人に言い放った。使用人はすぐさま「失礼いたしました」とティーセットと共に部屋を出る。
歯に衣着せぬ性格は今に始まったことではない。黙っていれば道行く人が皆振り向くだろう大和撫子なのだが、口を開けば忽ち寄ってきた異性も逃げていく。
「はあ、こんな家にいたら息が詰まるわ」
溜息を吐き、少女は再びファイルの頁を捲る。
「あなたの逃げた場所は、どんな所なんでしょうね」
少女は広い部屋で一人、ファイルに指を添え微笑む。