『無理する頑張り』と『楽しい頑張り』は混同しやすい
『無理する頑張り』と『楽しい頑張り』は混同しやすい
どんな事でも頑張っている人は、見ている者まで頑張る気持ちにさせてくれる。ましてや、頑張って結果を出している人を見れば、自分も頑張れば結果を出せるのではないかと思う。でも、実際に見習って何かを頑張ってやろうとしても、辛くなることも多い。辛くても最後までやり遂げられれば、一応の満足感は得られるが、時には、あまりにも辛くて、途中で投げ出してしまうこともある。そして、途中で投げ出すような弱い自分に罪悪感を抱く。それが積み重なると、何かに向かって努力しようとしても、また途中で投げ出すんじゃないかという思いが頭をよぎって、全力で取り組めなくなる。頑張って輝いている人と自分はどこが違うんだろう。それとも、頑張るだけではだめで、生まれつきの才能が必要なのだろうか。
生まれてこのかた、今まで頑張ったことが全て結果として返ってきているという人は、少ないと思う。それどころか、負け越している率の方が高い人が、ほとんどではないだろうか。「頑張る」という言葉は、日本人が大好きな言葉の一つであり、誰もがよく使う言葉なので、皆が同じ感覚で使っていると思い込んでいるが、実際は、その背後にある心の状態によって、『自分にムリをさせる頑張り』と「楽しい頑張り」の2種類あるのではないかと思う。
私たちは、「楽しい頑張り」を目指すべきだし、実際に周りから見て清々しく感じるのも、この「楽しい頑張り」だろう。しかし、実際には、ついつい自分にムリさせる頑張りをやっているように思う。
「人間として頑張らなければいけない」という思い込みがあり、そして、「頑張ったら結果を出さなくてはいけない」という思いこみがある。それが、「もし結果を出せなければ、頑張ったとはみなされない」という思いに繋がり、「結果が出せない自分は、人間としてクズ」と考えてしまう。私たちは「頑張る」という言葉を使う時、どこかで結果を出さなければいけないという恐怖感と伴に使っているのではないだろうか。
しかし、本当に頑張ったら必ず結果が出るのだろうか? そして、その結果とは何だろうか?
同じように頑張っても結果が出る人と出ない人がいる。実際に24時間張り付いて観察したわけではないので、結果を出した人の方が、結果を出さなかった人よりも、他人の見ていない所で頑張ったに違いないと考えてしまいがちである。そういう場合もあるだろう。でも、そんなに努力しなかったけど、たまたま上手くいったんですと話す人もいる一方、凄く努力したのに、その道では花開かなくて、他の方面に行ったと言う人も多い。どちらも自分基準だから、目に見える数字で比べることは出来ないけれど、多方面に行って活躍できるくらいだから、本当に頑張ったのだろうと思う。すると、結果と頑張りをイコールで考えているのは、そもそも間違いなのではないだろうか。「努力が足りないから出来ないんだ」という言葉は、当てはまる時もあるだろうけど、当てはまらない時も多いのではないかと思う。
しかし、あまりにも努力イコール結果の刷り込みが激しいので、結果が出ないと、自分の努力が足りなかったんだと思う人が多いのではないだろうか。寝ることも食べることもせず、その時間を使って何かに打ち込んだら、その時間分は進むだろう。でも、それが、効率が良いやり方かどうかは、疑わしい。実際、やみくもに長時間練習しているプロのスポーツ選手はいないことが、長時間他のことを我慢してやれば、それが結果に繋がるわけではないことの証拠だろう。
ならば、「結果に繋がるように、もっと正しいやり方でやっていれば…」と、嘆くかもしれないが、その時に効率的な方法を知らなかったのであれば、効率的にやれないのだから、自分の努力が足りなかったのではない。そうではなく、ちゃんと頑張ったんだと思う。もしかしたら、もう少しやれる余地があったのかもしれないけど、何もしなかったわけでなく、何かしら頑張った。でも、それを素直に「ああ、頑張ったな」と認められないだけなんだと思う。
どうして認めたくないんだろう。結果が出ていないのに認めると、「出来てないくせに…」って後ろ指さされると思っているのだろうか…。それとも、自分が思い描いている努力100パーセントの状態と、実際に自分が頑張った分に開きがあって、現実のありのままの自分を認められないのだろうか? 「もっとできたはず」と、自分自身こそ、自分に対してダメ出ししているのだろうか。
理由はどうあれ、頑張るということに対して自分が抱いているイメージが、「自分にムリをさせて辛くなるまでやる」ことが、頑張ることだとなっているのではないだろうか。
もっと、楽しく、「やりたいからやる」という感覚で、頑張ってもいいと思う。結果は出ればOKだし、出なくてもOK。自分なりにやってみれば、どんな結果でも、そこから学べることは多かったはず。もし、結果の有無しか見ていなければ、その途中で色々と学べることがあったとしても、そちらに注意を向ける余裕がないので、何も学べない。山登りに例えると、頂上に着くことだけを目指し過ぎると、途中の景色を楽しめないし、ましてや天候不順で登頂できなければ、その登山は失敗だと思ってしまう。でも、登山のプロセスを楽しもうとすれば、途中の景色も楽しめるし、たとえ途中で下山しても、その経験から学ぶこともできて、失敗だなんて思わないだろう。
頑張る方面を変えた方が良い場合もある。頑張ったけど結果がでないことで、違う方に行くきっかけになれるのなら、それは、最終的には、その人にとってラッキーなことであり、結果が出たといえるのかもしれない。だとすると、目先の結果だけを求めても意味がないのではないだろうか。
人間は辛い思いをしていると、どこかで自分は許されていると思うのではないだろうか。「こんなに辛いんだから、いいよね」って、何かに向かってアピールしている気がする。その前提にあるのは、ダメな自分という考え、つまり罪悪感。そして、宇宙にあるもの全ては、この宇宙を創り出した大元の存在と一つと考えると、自分だけでなく、周りも悪だし、宇宙を創り出した大元が悪だと考えるしかない。だから、周りの人にも辛さを強要したくなる。実際に、「反省しろ」と言って罪悪感を持たせようとする人が、なんと多いことか!
でも、宇宙は罪悪感で出来ているわけではない。だって、罪悪感の最終形態は自殺だから、もし、宇宙が罪悪感なら、もう宇宙自身が自殺して無くなっていてもいいはず。だから、宇宙は罪悪ではないし、あなたも周りの人も、罪悪ではない。それどころか、何もなくても与えてくれる自然、そして生命を感じさせてくれるものに対する心地よさを考えると、私たちは、もっと肯定的なものであり、もちろん宇宙も周りの人たちも肯定的なもののはずだ。
私たちは、もっと、そのままの自分が、宇宙に認められている存在だと考えていいと思う。そうすれば、自分も、周りの人も認められて、辛い自分をアピールする必要がなくなる。楽しく自分のやりたいことをやればいい。その過程で、他人から「凄く頑張っている」と見えるぐらい努力することもあるかもしれない。しかし、それは、「自分にムリさせる頑張り」ではなく、「楽しい頑張り」になっているはず。それによって結果が出ても、出なくても、どちらもOKと心から思える時、その頑張りは、周りの人をハッピーな気分にさせる頑張りになっていると思う。