アラタとイーサン 2
「断る」
アラタの即答に、イーサンがふむと顎を撫でた。
「交渉決裂、か。なら、こういう手がある」
ここで、ポケットに隠されていたイーサンの両手が露わになる。
血管の浮いた無骨でしなやかな手だ。
その手に刻まれた無数の傷痕を見てアラタは確信する。
彼の手は、日本刀のように鍛錬されたしなやかな凶器であると。
「実力行使だ。俺を止めてみろ、アラタ」
左腕は直角に背中へと押し付け、右腕はこちらに伸ばして静止。
天に向けて揃えた指先を、イーサンは二回ほど前後に動かした。
まるで、かの有名な武術家に捧げているようだ。
紫影に光らせた瞳を除けば、その立ち姿はカンフー映画で何度も見た光景と瓜二つである。
前後どちらにも逃げられないのなら、力ずくでこの男を捩じ伏せるしかない。
意を決したアラタは、僅かに腰を落とすことで下半身のフットワーク幅を上げた。
先手を仕掛けてきたのはイーサンの方だった。
直線に差し向けていた片腕を一瞬引くことで、出だしの瞬発力をあげた拳がアラタの左肩を狙う。
アラタはイーサンの思惑を察して、紙一重の距離で攻撃をかわした。
かつて戦った戦士のネイヴは、その巨体を生かした腕力での戦闘を得意としていた。
身長は大きく、体重も重量級だ。
アラタの体格では決して手に入れることのできない筋力。
しかし、俊敏さにおいてはこちらを遥かに下回っている。
イーサンはその逆だ。
腕力でものを語っている大柄の敵であれば、その細腰を抱き込んで折ってしまおうと考えるくらいには細く小柄な体系である。
不要な肉を絞りきったボクサー体形というのだろうか。
技の瞬発力も、フットワークの軽さも、素早さに関しては勝てる要素が何一つ見つからない。
だがそれだけだ。アラタは、イーサンに密着しながら一回転することでその背後をとった。
見開かれたイーサンの目が、アラタの動きを素早く追尾する。
打撃の威力は平均値以上かも知れないが、体重の軽さを思えばそれほど恐れることはない。真に恐れるべきは、イーサンの正確すぎる急所への攻撃だ。
イーサンの初手は、こちらの打撃を潰そうと迷わず照準を合わせてきた。
体格に差があるのなら、俊敏さを生かして正確に沈めればいいというのが彼の考えんとする戦法だろう。
当たれば死。アラタは大柄の格闘家に倣って、イーサンの腰をがっつりと抱き込み、持ち上げた。
予想通り、軽い。
このまま脳天を地面に打ち付けてやる。力み声と共に放ったジャーマン・スープレックスだったが、イーサンは技が決まる直前に両手で体を支え、宙返りしてしまった。
ふっと息を漏らした彼がこちらへ向かってくる。
寝転がって起き上がるなどという隙を作らぬよう、アラタは己の尻が地面に付く前に側宙で体勢を整えた。
アラタとイーサンの両腕が目に見えぬ速度で絡み合う。
打ち付け、阻止し、その繰り返しだ。
拳を打ち付けようとすれば掌で止められ、腕を絡めとれば逆に絡めとられる。
攻防戦は互角だ。などという驕りは微塵も抱かなかった。
むしろアラタは、この攻防に苦戦を強いられ始めていた。
木人椿に何十年も腕を滑らせていなければまず手に入らない腕捌きだ。
片方に気を取られれば片方の手が顎に掌底を打ち込み、そちらを払えば片方の拳が胃に、脇腹に沈む。
これ以上の近接は危険だ。
一瞬の隙を縫ったアラタは、後方に飛ぶことでイーサンとの距離をとった。
選択を誤ったと自覚したのはその時である。
跳躍の無防備な瞬間を狙ったイーサンが、迷わずこちらに飛び込んできたのだ。
ここまで踏み込まれてしまっては対処の仕様がない。
アラタは両腕を交差することで訪れる衝撃に備えた。
垂直の縦拳が腹部に沈む。
これによってアラタの身体が止まり、全ての攻撃が後方に逃げなくなる。
二度の掌底が両肺の位置に沈んだ。呼吸が乱れて息が続かない。
体幹を確保しようとしたところで、視界が強制的に上空へと持ち上げられた。
矢継ぎ早に放たれたイーサンの掌底が、アラタの顎を下方から穿ったのだ。
反りかえった喉に輪をかけられて、体勢はいよいよ重力に従順となる。
強かに打ち付けた後頭部の衝撃によって、視界にスノーノイズが生じた。
激痛に顔を顰めながら見上げたそこには、空を背景にして興奮に打ち震えているイーサンの姿があった。
「さて、もういちど訊こう。黙って俺についてきてくれないか」
アラタは顔を背けて拒絶を示す。
視界の端で、イーサンが前髪の後れ毛を掻き上げるのが見えた。
刹那。路地裏の入り口方面から聞きなれた少女の声が響き渡る。
「アラタぁ!」
ユイか!
アラタは咄嗟に上体を起こした。
すっかり忘れてしまっていたが、ユイは健気にもこちらの後を追ってきてくれていたらしい。
だが、今は来て欲しくなかった。
冷徹だと思われても良い判断を、アラタは己の裡で下す。
今のユイの実力では、イーサンを打ち負かすことはできない。
素早さでは勝っているが、経験とスタミナは比較するのも時間の無駄だろう。
勝機が見えないのであれば、わざわざ合流して全滅することはない。
それよりも、ショウの行方を追ったほうが遥かに能率的だ。
理屈を丁寧に引き継げたら誤解はないのだが、今は一刻を争う事態である。
「ユイ、退け!」
アラタは語気を荒げて指示をした。
与えられた言葉に戸惑ったユイが、身体を硬直させて足を止める。
この場で彼女を歓迎したのはイーサンだけだ。
彼は悠然と振り返ると、ユイにむかって丁寧なお辞儀を披露した。
「ようこそ、お嬢さん。この蒼髪はキミの仲間かな」
あまりにも胡散臭いイーサンの態度に、ユイの肩眉がピクリと持ち上がる。
それもそのはずだ。
ユイはアラタの置かれている状況を見ることで、事の経緯をするどく察したのだ。
怒りに染まったユイの顔が、射抜くようにイーサンを睨みあげる。
「アンタ……どうなるか分かってるんでしょうね」
イーサンはその凄みを、軽いジョークか何かのように受け流した。
「まぁ落ち着けよ。ちょっとアラタを借りるだけだ。同意してくれれば、傷を付けずに返す」
「ふざけるな! アラタの敵はアタシの敵だ!」
身を低く屈めたユイが、イーサンに突進しようと照準を合わせた。
丸まった背中から緋色の羽が姿を現す。
対峙は一対一という己の美学に反するが、今はユイの力を借りるしか道はない。
アラタは身体の具合を確かめながら起立した。
上昇した目線が妙な違和感を捉えたので、確認のためにと意識的に凝視する。
いつからそこに居たのか。
敵意を強めるユイの背後にて、見覚えのある女性が音もなく直立していた。
そういえば彼女は、噴水広場でイーサンの闘いをじっと眺めていたなと思い出す。
長身の屈強体形。機械的な無表情。
特徴を一つ一つ追うたびに、背筋が凍っていくのが分かる。
自覚した危機意識が警鐘を鳴らし、アラタを咄嗟の判断へと導いた。
「ユイ、後ろだ!」
アラタの声に反応したユイが、瞬時に背後を振り返る。
あまりの気配の無さに距離感を誤ったのか、ユイの頭部が女性の胸に深く沈んだ。
凄まじい弾力のおかげで小柄な体がよろめいてしまう。
放り出された手を引いたのは、女性の片腕であった。
女性の身体がユイに密着した。
背面で両腕を纏められたことに気付いたユイが、足をばたつかせて抵抗する。
「くそっ、離せ!」
ユイの罵倒が周囲に飛び交った。その努力も虚しく、女性は涼しい顔で拘束を続けている。
そこに足を運んだのが、二人の様子を愉快そうに眺めていたイーサンだ。
彼はユイの顎を掴んで持ち上げると、紫影の瞳でしばらくユイを値踏みした。
「まだまだ小娘だが、磨けば光りそうだ。そのへんのゴロツキに売れば、小銭くらいにはなるだろ」
刹那。イーサンの頬に、粘着性のある液体が飛ばされた。
敵意を剥き出しにしたユイが、唇を突き出して唾を吐きかけたのだ。
そのことに対して、イーサンは怒りを露わにしなかった。
ただ冷静に、冷ややかな目で、ユイの頬を払うように叩く。
「おい!」
アラタは反射的に怒りを爆発させた。女性軽視にもほどがある。
ましてや、相手は仲間のユイだ。目の前で殴られて、良い気分になどなりはしない。
こちらが明確な敵意を向けているというのに、あろうことかイーサンは口角を持ち上げている。
彼は胸元のポケットからハンカチを取り出すと、落ち着いた動作で頬を拭い始めた。
「良いな、その怒り。俺は感情をむき出しにする奴が大好きなんだ」
とんだ変態に出くわしてしまった。
心理的な距離を置いたところで、イーサンがこちらへと向き直る。
「俺は今から三つ数える。ゼロになる前に答えを出せ。さもなくばお前の相棒が、小汚いオヤジ共の愛しい玩具になるぞ」
「俺を連れていけ」
「それじゃあいくぞ。スリー……あ?」
イーサンの肩がガクリと脱力した。
開くのも億劫そうだった両目が、驚きに丸まっているのが分かる。
「いま、なんつった?」
「だから」
アラタは苛立ちを隠さずに発言を繰り返す。
「俺を連れていけって言ったんだ」
イーサンが興覚めしたように息を吐いた。
「話が早いな。俺としては、もう少しお前の葛藤を楽しみたかったところだが」
キャサリン、とイーサンが呼ぶ。
名前に反応した女性が、イーサンからの視線を読み取ってユイの身体を振り向かせた。
ドスンというくぐもった音と共にユイの身体が膝から弛緩する。
キャサリンの拳が、ユイの腹部に沈んだのだ。
「さぁ、一緒に来てもらおうか。まずは車まで案内するぜ」
言って、顎で同行を促してきたイーサン。
睨みを利かせたアラタは、降伏の意が伝わるようにとハンズアップをしてみせた。
何が可笑しいのか、イーサンはふはっと吹き出して、
「そこまでしなくても、お前は抵抗しない」
擦れ違いざまに気さくな態度で背中を叩いてきた。
こちらの実直さを汲んでくれてのことなのか、いつでも捩じ伏せられると下に見られているのか、真意は掴めなかった。
地面に寝そべったまま動かないユイを、キャサリンが軽々と肩に担ぐ。
三人分の足音が、遠くから聞こえる銃声とクラクションの音でかき消された。
少なくとも今は命を奪われる心配はなさそうだ。
アラタは傍らに並ぶイーサンを一瞥して、その思惑を何通りも推測してみた。
しかしどう視点を巡らせても、分かったのはイーサンの裡にある純粋なまでの狂気だけだった。




