闘争本能
今なら運命などという不確定要素を信じてもいい。
何をしても満たされなかった杯が、溢れるほどの水を得たような気分だった。
「なぁ」
これ以上間を持たせることが出来なくなったアラタは、視線を泳がせながら適当な質問を探り当てる。
「俺はアラタ。アンタは……」
「さぁな、名前はない。だが……ある男は、私をアゾートのようだと言っていた」
ある男。そのワードに、アラタは己の熱情が急激に冷めていくのを感じた。
「それじゃあアゾート、ヒトじゃないアンタのことを教えてくれよ。俺から質問すると……何がなにやら、混乱してややこしいことになる」
「わたしのことを、か。例えば何を知りたいんだ」
「アンタがどんな存在で、どうしてここで性行為を望んでいたのかってことかな」
「ふむ、いいだろう」
頷いたアゾートは、軽快な仕草で腰を下ろした。
隣に座るよう、己のすぐ横を手の平で叩いてきたので、従うことにする。
まるで、デートの最中に見つけたベンチで一休みする恋人のようだ。
彼女が全裸であることは、この際触れずに置けば目の保養になる。
アゾートが見上げた視線の先には空がない。
重厚な霧は依然として外観を遮っていて、まるでこの世界に二人だけになったようだなとアラタは思った。
しばらくして語り始めたアゾート。その口調は何処か楽し気で、それでいて他人事であった。
わたしという個体が誕生したのは何百万年も前のことだ。
正確に言えば、それ以上昔に生まれていたのかも知れない。
百年前かも知れないし、数十年前かも知れない。
報酬系が選別した「わたし」という意思が「わたし」を客観視したことすら、昨日のことのように思えてならない。
人類が二足歩行をするようになったのは、雄が雌、そしてその子供に食物を運ぶ選択をしたからだという。
樹上から地上に降り立った人類の祖先は群れを成すことで天敵から身を守り、やがて石器を使用して狩りに出るようになった。
ヒトの闘争本能は確かに存在していた。
天敵から身を守り、天敵を斃すことで高揚感と達成感を得る。
より強い個体を斃せば力の象徴となり、それはヒトと動物の世界で等しく共通していった。
ヒトは、群れを成す協力関係を築くことで生き抜いてきた存在だ。
特化した牙や爪を持たない、外見だけでは食物連鎖の底辺に該当する。
そのヒトがどうして連鎖の頂点に立つことができたのか。
そう、弱いからだ。
群れを成して協力をし、道具を使用してきたからこそ天敵に打ち勝つことができた。
だが、個は集団となることで暴走する。
同調圧力がそうさせるのか、己を客観視できるヒトだからこそ起こるのか、或いは必然なのか。
個の数だけ意思が存在し、しかし生存という一つの目的に沿って人類は文化を築いた。
そこで気付いたのだ。ヒトの天敵は「ヒト」であると。
集団の中の個が暴走する。
その個についた集団が暴走し、そこから暴走した個に再び別の集団がつき、そして暴走する。
己と異なる容姿を、肌を、言語を恐れ、これが戦争を生み、虐殺を生んだ。
しかしそれは結果でしかない。
我々が進化を繰り返して子孫を残すのも結果でしかないように、事象は偶発的、そして個体が生んだ結果なのだ。
この虐殺は、動物の世界でいう共食いのようなものだ。
しかし動物は同じ種であれ、例外を除くほとんどは共食いをしない。
それは報復があまりにも大きすぎるからであり、ヒトの世界でも同じことがいえる。
ヒトの三大禁忌は、共食い、殺人、近親相姦と定義付けられたようにな。
個を減らすことは、集団を選択した生物にとって利己的に過ぎる。
そこでヒトは選択したのだ。
闘争本能のままに攻撃性を高め、非協力的に振る舞う種と、協力関係を築くことで生存に協力する種のどちらを選ぶかを。
無論、人類は後者を選んだ。
淘汰された闘争本能はやがて遺伝子の情報から失われ、進化した未来に我々が生きている。
そう、わたしはその淘汰によって生まれた遺伝子記憶を持つ母体なのだ。
語り終えたアゾートは、一息ついた後でアラタの顔を覗き込んだ。
彼女の満足そうな微笑は、こちらの理解力を試しているようにも思えた。
「遺伝子の母体……信じられないよ。だってどう見たって、俺と変わらない人間の姿だ」
「生体的には、植物に近いのかも知れないな。わたしの体液は、極めて水に近い。水と太陽光さえあれば、わたしは半永久的に生きられる。
さっきも言ったが、ヒトは見たいものしか見ない。視覚は共有できないからな。あらゆる個体が遺伝子の情報で作られたように、形状は個体によってそれぞれで二つとない。
わたしの中にも確かに遺伝子は存在し、それは遺伝子の情報を得ることで残すことができる。わたしという闘争本能を持つ遺伝子が、生き残るためにこの身体として進化し、適応した。
実はな、お前が生きているヒトの世界にも、私が生んだ鳩が生活しているんだ」
「鳩……子供のこと?」
「そう、子供だ。わたしとヒトの雄の遺伝子が胚となり、ヒトの世界に降り立つ。定着した胚はまずここでヒトとして育つか、適応体として育つかのどちらかを選択する。
ヒトに拾われ、ヒトと同じく育てられれば、胚はその文化に根付く。しかしそうではない胚——つまり絶命した胚は、適応体として還る時を待つ。淘汰された遺伝子を求めるヒトの中に還ることを」
「絶命って……選択肢でもなんでもないじゃん。死んだ赤ん坊がアンタと同じ有相無相の存在になるってことかよ」
「そうだ。だがヒトとして生きた適応体は、その本質もやはり適応体だ。そうであることを忘れているだけで、きっかけがあれば思い出す。
淘汰された遺伝子を求めるヒトもそうだ。きっかけがあれば己の中に還した適応体によってそれが目覚める。
つまり、闘争本能や生存にまつわる様々なものだ。わたしを見てわたしを望むのは、わたしの遺伝子を強く欲しているからだ。お前もわたしを見て、わたしとの行為を望んだだろう」
「俺達は、遺伝子によって操作されているってこと?」
言って、アラタはすぐにその説を否定しようとした。
ムキになりかけたところで、アゾートがゆっくりと首を横に振る。
「我々は、進化していく上でより効率的に必要なものを伸ばし、そして不必要なものを退化させる。この場合、退化も進化と同義だ。
それぞれの生物が、それぞれの環境で生き抜くために適応、進化を繰り返し、我々はその遺伝子を子孫に継ぐことで存続させていく。
重要なのは、我々は遺伝子によって機械的に生まれているわけではないということだ。選択し、時に淘汰する。偶発的な産物、その進化の先にいるのが我々だ」
「本能は学習行動の無い反射行動のことだよな。ヒトは学習行動で適応しているから、本能はないと思ったけど。
俺達の遺伝子の中に本能があったとしても、俺達には決断する意思がある。仮に本能があったとして、産み落とされた子供が親無しに生きていけると思うか?
いくら学習行動が遺伝的なものであったとしても、その学習行動を教える者がいないんじゃ本末転倒だ。俺達人間に、本能は存在しないようなものだ」
「確かな遺伝子を残すべく、顕性遺伝子と潜性遺伝子を体臭から識別する説もある。遺伝子が誰かを欲するのは、完全に否定できるものではないな」
アゾートの言葉には思い当たる節があった。それもごく数分前のことだ。
「本能という言葉の定義が曖昧なものだからいけないのだな。この言葉が広く定着しているから使用しただけなのだが、これも選んだ方が良さそうだ。すまなかったな」
「いや、いいんだ。それより、俺が生きている世界にもヒトとして生きている適応体がいるって、どういうこと?」
「言葉の通りだ。一見お前と変わらない姿だが、中身はわたしと同じだ」
「忘れた本能を思い出したら、何かが変わるのか」
「あぁ。少なくとも、ヒトと違うことを本人が認識する。違うということを体の何処かが主張する」
「例えば瞳が輝くとか?」
これにも思い当たる節がある。アラタは口の中に溜まった唾液を、息と共に飲み込んだ。
アゾートが、なぜそれを知っているというような目でこちらを見る。
「見たのか、その姿を」
「過去に見たよ。そいつの名前はショウっていうんだけどさ……俺のじいちゃんの亡骸の前に立っていた。じいちゃんとアイツは、道場で闘ったんだ」
アラタの脳裏に、二年前の不幸が蘇る。
その一瞬一瞬を捉えたカメラが一枚、また一枚と写真をスライドさせていく。




