翳り
ユイのものではない、別の少女の声だ。
昂る体に強く静止をかけたアラタは、まさかと思いながらも周囲を見回す。
声の主はすぐに見つけられた。小さな足音を立てて駆け寄ってくるその姿は、明らかに戦場には似つかわしくない。
少女は庇うように大男の前に立つと、両腕を広げていっぱいに胸を張った。
大男の鷲のポーズを真似ているのだろう。きつく睨みあげてくるその目は恐怖で潤んでいた。
「これ以上お父さんをいじめないで、聖地を汚さないで!」
「よせリタ、この場から去るんだ!」
大男が語気を荒げた。
「お父さんを殺さないで! お父さんをいじめないで!」
反響するものがない野外では、少女の声はすぐに空気の中へと攫われてしまう。
主張が叫びに似ているのはそのせいだろう。少女は渾身の力で声帯を痛めつけていた。
今は少女を落ち着かせるのが先だ。
アラタは両腕をあげた。無抵抗の姿に、大男と少女の目が同時に丸まった。
「安心していいよ、俺は殺すつもりはないから」
「じゃあ聖地を汚すの? 精霊さんを殺してしまうの?」
「そのつもりもない」
「じゃあ……」
少女の問いかけが止まった。背後の大男が、人目から隠すように少女を腕の中に引いたのだ。
こちらを見上げてくるその瞳からは、既に闘争の意思は消えていた。
「お前に戦士としての心があるならば、この子だけは逃がしてほしい」
「だからそのつもりは無いって」
「無いのか?」大男の歯が怒りによって剥かれる。
「いや違うよ、そうじゃない。殺すつもりも聖地を汚すつもりも無いんだって」
「ならば何故この地を踏んだ」
「さっきから言っているけど、俺達には目的がある」
目的? 言葉の先を促した大男。
質問に答えようとしたところで、彼の腕の中から息継ぎをするように少女が顔を出す。
「お兄さんは良い人なの? 悪いことしない人?」
無垢な声調に、アラタはニコリと笑ってみせる。
「あぁ、しないよ」
「お父さんのお友達?」
「そう思ってくれたら嬉しいけど」
「わたしね、これからお父さんと羊のところに行くの。一緒にお世話しに行こう!」
まるで花が咲いたような笑顔だ。
たっぷりと日に焼けた褐色の肌は若木で、大きな丸い目は新緑の芽を思わせる。
口元を綻ばせたアラタは背後を振り返り、待機していたユイを手招きで呼んだ。
「ユイ、この子に付き添ってくれ」
「え、アタシ?」
完全に傍観の気でいたユイが、確認するように自身を指さした。
「なんだと!」
大男が再び敵意の目をこちらに向けてくる。
この男にいちいち反応していては埒が明かない。
アラタは状況に区切りをつけるため、宥めるように両手を振った。
「安心してくれよ。俺は本当に争うつもりは無いし、子供に危害を加えるつもりもない。それに、俺の連れの腕は確かだ」
「何を根拠にその台詞を吐ける。お前たちは聖地に足を踏み入れ、汚した」
「それについては謝罪する。けど、俺の目的は達成した。聞くかどうかは、アンタ次第だよ」
大男は眉根を寄せて考え込んだ。
やがて決心したのか、リタと呼んだ少女を腕の中から解放する。
自由になったリタは無邪気な様子で駆け出すと、ユイの手を取って加減なく引っ張った。
「お姉ちゃん、行こう!」
リタの提案を飲むかどうか——答えを求めて視線を向けてくるユイ。
アラタはその問いに、頷くだけの返事をした。
「それじゃあ案内してちょうだい。アタシはユイよ」
「わたしはリタ! お父さんが付けてくれた名前なの」
「リタ、素敵な名前」
リタが差し出した手を、ユイがぎこちなく握る。
横目で大男を一瞥したのは、その行為によって彼の怒りを爆発させてしまうのではないかと懸念したからだろう。
大男はユイを警戒していたが、やがて何もしないということを分かってくれたらしい。
案内はできるな? と、リタの自立心に問いかけた。
「大丈夫よお父さん。わたしはもう七歳だもの」
父親にとってはまだまだ子供だ。
大男の柔らかい微笑みに見送られながら、リタは率先してユイを引き連れて行った。
頃合いを見計らって、大男が徐に立ち上がる。
「大切な娘を預けたその意味、強く理解して欲しい」
「人質がいるのはお互い様だ。あの子供に何かあった時は俺を殺せばいい」
「話を聞こう、わたしはネイヴだ」
「俺はアラタ。単刀直入に聞くが、あの子供はアンタの娘じゃないな?」
「確かに、わたしの骨格からリタのような子供は生まれない」
差別をしに来たのか? ネイヴの問いに、アラタは慌てて首を横に振った。
「ごめん、俺の訊き方が悪かった。リタとは……どうやって出会ったんだ?」
「なぜそこまでわたしの娘を詮索をする。お前は見たところ東アジアの人種のようだ、リタの血縁者というには顔が違いすぎる」
「それに若すぎる」
己に皮肉を吐いたアラタは、気を取り直して会話に戻る。
「必要なことなんだ。教えてくれ」
「……この聖地は広い。我々部族が守るには手が足りない。そこで我々は、聖地を幾つかに区切って分担することにした」
「それは必要な話か?」
「お前は堪え性のない奴だ」
不機嫌そうに唇を尖らせたネイヴに、アラタは肩を竦めて場を誤魔化した。
へそを曲げられてしまうかと思ったが、律儀な彼は渋々ながらも回想に戻ってくれた。
「聖地を守る為には、戦士としての強さを磨かなければならない。選ばれた者はこの広い聖地の隅々を巡礼し、精霊が眠る場所を訪れて祈りを捧げるのだ。
わたしは旅を続け、ついに最後の聖地に辿り着いた。この大地では最大のオアシスである精霊の森……最奥の湖で祈りを捧げていたその時、わたしの耳に赤子の鳴き声が届いた」
「それが……リタだったのか?」
「そうだ、わたしは草木をかき分けてリタを見つけた。布に包まれもせず、抱擁を求めてリタは泣いていた。わたしはあの娘を、精霊の落とし子に違いないと思い村に連れ帰った。
村の者は精霊が私を選んだのだと心から歓迎してくれた。以来、わたしがリタを育てている」
話が一段落したのか、ネイヴが深い溜息を吐いて肩の力を抜く。
「お前はわたしの娘を知っているのか? 彼女は精霊なのだろうか……時々、リタから同じ人間とは思えない不思議な空気を感じることがある。
これまで人種は違えど、人間の祖先は同じだという認識でいたのだが、お前の光る瞳を見て考え方が変わった」
「少なくともアンタの世界では精霊に違いない。だが俺の世界では、リタは適応体と呼んでいる。それも特殊すぎる方の、な」
「適応体?」ネイヴは目を細めて首を傾げた。
「それは一般的な言葉か?」
「いや、一般的じゃない。俺がこの目を持つ上で関わりの深い存在だ。アンタが精霊の加護を受けているように」
「それで、お前はリタをどうしたいんだ」
「アンタの言葉を借りるなら、リタは確かに精霊だ。そしてその精霊を手に入れて、悪さを働こうとしている奴らがいる」
「つまり、リタは狙われているのか?」
「そうだ」
一寸、ネイヴの目が平静を失った。
愛する娘に危険が迫っている。それだけが彼の動揺を誘い、グローブのような手を握り込ませた。
「お前はリタの気配を感知してここまで来たのか」
まさかと訝るネイヴの口調は正しいといえるだろう。
アラタは頷き一つで彼の問いを認めた。
「噂によれば、アンタの部族は精霊の声が聞こえるんだろう。俺もそうだ。俺の中の適応体が、仲間の存在を感知して伝えてくれる」
「ならば、他の者もリタの存在を知ることができるということか」
「そうだ」
以降、ネイヴが詳細を尋ねてくることは無かった。
戦士としてするべきことは一つだけだ。
言葉にした訳では無いのにアラタがそう察することができたのは、彼の瞳の中で激しく燃え上がる決意の炎を見たからであった。




