紅茶と秘書
直線の大通りに敷き詰められた建造物に沿って立ち並ぶ豊富な街路樹。
多様性を取り入れた数々のブティックが最大限の個性で主力の商品を販売しており、ショーウィンドウに飾られた衣服や靴、宝石がこぞって通りすがりの市民の目を惹こうとしていた。
向いの歩道にはコーヒーショップやレストランが並んでいて、初々しい男女のカップルがデートの前戯に利用したり、ドーナツを齧りに来た警察官が休憩に利用したりしている。
どこかファーストフード店に寄り道をして、チーズバーガーでも齧りながらオフィスに向かいたいところだが。
イーサンは雑念を振り払った。
口にして良いものと悪いもののリストは、既にキャサリンの手によって作成済だからだ。
視線をあげれば高層ビルが。横を見れば其々の日常を堪能している住民が交錯しており、横並びの巨大な看板群の下ではアコースティックを抱えた若者がスタンドマイクと小さなアンプを持参して、有名なアーティストのカバー曲を披露している。
彼の周囲には見物人が疎らに足を止めていて、暇潰しに聞いてやるかという態度が見え見えな立ち方をしている者もいれば、思い入れがあるのか肩を揺らしながら聴き入っている者もいた。
一見ゆったりとした時間が流れる平穏な都市のようにも見えるが、かつてこの場所は複数存在していたギャング集団によって支配されていた荒廃都市としても有名であり、その名残は片隅に横行しているスラム街と、深夜になると現れるギャング達の残党によって絶えず見え隠れしている。
抗争時代を知る住民たちの過去といえば、立ち退くか服従するかの二択を迫られた挙句に、抗争によって家族を失ってしまうなどの悲惨な記憶でしかない。
しかし市が十年かけて治安回復に貢献した今、住民はギャング達によって抑制されていた安寧を取り戻すことに成功した。
公立、及び私立の高等教育機関が複数設置され、豊富な医療機関にレジャー施設、地理を生かした貿易関係のビジネス展開など、住民達の意欲向上が知能指数にそのまま反映される形で都市は成長を遂げていった。
高く評価された教育と就業率のために、わざわざこの都市に移住してくる者も少なくはなく、少し車を走らせれば郊外の居住区も存在しているので、近年ではここを気に入って居付く者や、事業拡大の流れに乗って豊富な仕事にありつく者で溢れている。
こうした背景によって今や人口は増加傾向にあり、州が貢献した治安回復計画も終盤に差し掛かろうとしていた。
かく言うイーサンも他所の州から移住してきた一人なのだが、事業拡大の流れにうまく乗った先駆け人、即ち成功者としてこの都市での生活を満喫しており、自身が創設したコンサルト企業の他、大規模なクラブやバー、ショップを経営する実業家として分刻みの毎日を過ごしている。
というのは建前で、実際は重要な会議でない限りは気分で好き勝手に行動するため、秘書の額に青筋を浮かせては腰を低くしているという社長らしからぬ姿勢で仕事に励む毎日だ。
抗争の頂点に立った今、彼が追い求めるのはたった一つの願いだけであった。
強者に対峙した時、己でも制御できない込み上げてくる高揚感。
イーサンは、己の両目が前照灯のように輝く理由を幼少の時分から追い求めていた。
*****
イーサンの会社は、ビジネス街の中心にて堂々と他社を見下ろしている。
年月が経った今、創立当時より技術の進んだ高層ビルが次々と建築されつつあるが、外見の個性は他に劣るとも言えない存在感のある鏡面張りのビルだ。
一級建築士が腕によりをかけた設計と聞いているが、イーサンからしてみれば勝負の波に乗ってきた崩れかけのジェンガにしか見えなかった。
エントランスは白と黒で統一したモダンな空間になっており、無駄な物は一切置かない徹底した自社理念をアピールしている。
かと思えば、幅広い螺旋階段を昇った先にあるリフレッシュルームやミーティングスペースは多彩な色調を惜しまず使用しているので、場の雰囲気によって空間の用途を使い分けた遊び心満載の職場として従業員からの評価を集めていた。
課別に分けられた階層は全て筒状の吹き抜けになっているが、イーサンのオフィスだけはそうはいかない。
一階から直通しているエレベーターを降りれば、目の前には強化硝子の仕切りが通路一面を覆っており、観音開きの扉を潜った空間の壁隅には黒と赤のラインが特徴的の半円カウンターが一つだけ在る。
座るだけで姿勢が良くなる一台のオフィスチェアには、イーサンの到着を待ってブチ切れているはずの秘書の姿がない。
所要で席を立ったのだろうかとカウンター内を覗き込んだが、イーサンはここであることに気が付いた。
秘書のワークスペースをまともに見たのはこれが初めてなのだ。
徹底した情報管理をしている秘書は、仕事の全てを電子機器に依存している。
簡単にメモした紙媒体も、三十分以内にはシュレッダーで粉々にするという完璧主義っぷりだ。
何をしたって電子機器にも落ち度はあるのだからと紙媒体を勧めてみたのが、困ったことに彼女は潔癖すぎるきらいがある。
カウンターには黒のテレフォンとデスクトップパソコン。
すぐ隣には私物のノートパソコンが一台。
ガラスのペン立てには最低限のペンとインクの替え芯。ブロックメモや電卓など、己の使用しやすい環境が几帳面に作られていた。
これで可愛らしい人形や花が飾られていればまだ人間味があるのだが、全体を見て分かる通り、生活感のない家よろしくロボットでも雇っているのかと思われる程度には色気がない。
彼女らしいと言えば彼女らしいなと、イーサンはスラックスのポケットに手を突っ込んだまま姿勢を崩した。
「ボス、おはようございます」
カウンター脇のコーヒールームから現れた大きな影。
比喩などではなく、文字通り人物は光を遮断するほどに大きく、そして屈強であった。
身長は百八十四センチほど。
そこに五センチのハイヒールを合わせているものだから、見下ろされる威圧感は半端ではない。
湊鼠色のジャケットと黒のパンツというスタイルだが、生地表面は鍛え上げられた筋肉の形に沿って窮屈そうに伸びている。
中でも一番に目を惹くのは、胸筋と胸囲が発達したおかげでサイズの合っていない白いブラウス。
その下から覗く見事に割れた腹筋は、凡人の拳など返り討ちにしてしまうくらいには隆起している。
知的さを引き立てる銀縁の眼鏡から覗く、切れ長の目と吊り上がった細い眉。
上から下まで隙のない堂々とした立ち振る舞いは、相手の逆らう気力を根こそぎ奪ってしまいかねない。
イーサンの秘書でありボディーガード、それが彼女の肩書であった。
「おはようキャサリン、今日も頼むぞ」
「よろしくお願いします。早速ですが三分の遅刻です」
キャサリンは手に持っていたカップをソーサーごと差し出した。
カップは飲み口が広く、底が浅い白の陶器だった。
彼女の好物は紅茶らしく、今ではこうして朝と昼休憩に一回ずつ淹れてくれるのが日課となっている。
曰く、イーサンのある一言がきっかけで用意するようにしたらしいのだが——その言葉がなんだったのか、イーサンは未だに思い出せないままでいた。
「大目に見てくれよ。お前のことだから、時間の管理に余裕はあるんだろ?」
「勿論です。が、ボスには余裕を持って行動していただくことと、決められた時間に姿を現すということを徹底していただかなくてはなりません」
「三分過ぎたくらいで小言を言われちゃ、心の余裕も無くなるぜ……」
イーサンは受け取ったカップにそっと唇を近づけた。
紅茶などという洒落たものにはあまり詳しくないのだが、キャサリンのこだわりの逸品を飲ませ続けられただけあって質くらいは分かるようなった。
「時間通りに来ていれば適温の紅茶が楽しめました」
「へいへい、申し訳ありませんでした」
唇を尖らせながら飲んだ紅茶は口当たりがよく、とても美味だった。
*****
木製の扉をさらに潜ると、そこはすべてイーサンのオフィスとなっている。
上質なカーペットの上には背もたれの深いソファがL字に並べられており、一面が硝子張りの窓際には広々とした風格のあるマネージメントデスクが鎮座していた。
少人数用の会議室は外の廊下を進んだ先に隣接しているので、自室はとくに事務的である必要はない。
真っ白な壁にはモダンな絵画が掛けられているのだが、これは来客のライフワークに合わせてキャサリンが取り換えている物なので、決してイーサンの趣味などではない。
しかし物歴を知ることは創造物と創造主に対するリスペクトであると認識しているので、絵画が新しいものに変わるたびに自身の知識が増えていくことを、今では来客以上に愉しむようになった。
始業の合図はキャサリンが手元のパッドの電源を入れることだ。
スケジュールを説明する前に咳払いをするのは彼女の癖といってもいい。
寝起きの微睡が残る中、イーサンは欠伸を噛み殺してキャサリンの声に耳を傾けた。
「三か月前に出版社から受けたライフスタイル取材について編集者から電話があったのですが、完成の出来の確認と新たな依頼についての話をしたいとのことです。本納品前の見本誌はデスクに置いておきました」
「それ以外にあるこの雑誌の山は?」
イーサンはデスクに寄りかかり、積み上げられた雑誌の一つを広げて適当に捲った。
「宣伝でしょう。売れ行きの高い書籍と、最近始めた総合雑誌らしいです。新たな作家を生み出すべく、出版希望の者が原稿を持ち寄って一冊の本にする、と紹介を受けました」
「俺の知ってる人脈も紹介しろってことか」
「人脈の広いビジネスマンには、面白い話を持っている方が多くいますから。出版希望を抱いている方がいたら是非うちへってところでしょう」
「この都市が順調に育っていてなにより」
ちょうど目を通しているのが例の総合雑誌だろう。
当たり前だが書籍にはテーマというものがあり、ファッションやゴシップもその一つで、目的に合った物を消費者が手に取る——というのが当然なのだが、この雑誌にはそれが定められていなかった。
持ち寄ったものが雑多に集められ、誰かお偉いさんの目に留まってオファーがあればというライターの思いがありありと込められている一冊である。もちろん、その限りではないのだろうが。
ジャンルに縛られていないという点が大変興味深く、型に嵌まらなければこれはこれで面白い新しい雑誌だった。
成程良い目の付け所だと、イーサンは感心しながら頁を捲り続ける。
「は?」
イーサンは、ある投稿者の記事の頁で捲るのを止めた。
傍らでキャサリンが午後の予定を機械的に発していたが、そのどれもは右から左に流れてしまった。
何かに夢中になった時の人間の様子は分かりやすいもので、イーサンもその典型であった。
視線は真っ直ぐに興味の対象へ、口を閉じるのも忘れて文章を何度も読み返す。
視界の端で、キャサリンが手持ちのタブレットを下げるのが見えた。
没入状態にあるイーサンを見限ったのではなく、次に出るだろう指示を察して待機に入ったのだ。
己の世界を妨げられることはイーサンが最も嫌う行為であり、キャサリンがそれについて不満を漏らしたことはない。
諦めとも理解ともとれる彼女の忠誠心に遠慮なく寄り掛かったイーサンは、勢いよく閉じた雑誌を片手に颯爽とオフィスの扉を解放した。
「キャサリン、戻る時は連絡する」
「その必要はありません、十時五十分を過ぎたらお迎えに上がります。貴方からの連絡は当てになりませんから」
まったくその通りで。
キャサリンの厳しい一言を背中に受けながら、イーサンは口の端を持ち上げるだけの笑みを浮かべた。




