二月の雨
二月に雨が降るとは不思議なものだ。
暦上に雨水の日があることは知っているが、そう思えるのは私が雪国の出身だからなのだろう。
雨が止めば道端に捨てられる代表格の透明のビニール傘を差した女性はそう解析した。
雪国では、二月は雪の盛りだ。雪まつりだって一月下旬から二月上旬に集中している。
雪国育ちの彼女はそれを当然だと思って生きてきて、初めて冬の東京に行った時雪がなかった事に驚いたのもいい思い出だ。
調子に乗って冬に非降雪地帯をほっつき回って雪が降ってきたときも驚いた記憶はあるが、それ以上に絶望した記憶はある。
雪に水を撒かれていたのだ。
砂を撒け!雪が溶けたら砂まみれの状態と引き換えに滑り止めとして活躍してくれるぞ!
嫌な記憶を撃退すべく、彼女は心の中でそう叫び倒した。
そんな彼女の名前は幸澤麻利絵。
幸澤。とても幸運そうな苗字である。
幸澤親族は高確率で幸運体質だ。――麻利絵以外は。
麻利絵は、不幸体質の親族達の代償のようなたまに反転して生まれてくる不幸体質だ。
しかも“他人がいれば平均値になるまで運を奪う”不幸体質だ。もちろん他の人がいなければ普通に自分に降りかかってくる。
さっきの雪の例だと、各種アイスバーンでほいほい転ぶ麻利絵はもれなく転び、一人だったので流れるように骨折した。
幸運な親族たちは、自分たちが幸運であったからこそ気付いたようなもので、多分普通の家に生まれてきていたら物心がつく前に不運で命を落としていただろう。
この体質に気付いた親族たちは、交代で彼女につくことによって生かし続けた。
時に平穏に、時に楽しく、時に――“運悪く”死に掛けながら。
その結果、現在の年齢は三十二だ。
当然親族が四六時中そばにいる日が鬱陶しい日もあれば、親族がどうしてもつけない日もあるので、一人で行動する場合の対策もある。
今の生活はそれの発展形だ。
親族から離れるということは安定した生活を手放すという事だ。よってどう生計を立てて衣食住をどうするのかを決めることは急務となった。
色んな事を試しながら親族たちから距離を置き、今では一年の半分以上一人で行動できるようになった。
不幸体質は仕事をしているので、定職に就くことを諦めざるを得なかったし過保護にされていたころよりも不運に見舞われることにはなったけれど、死んでいないからもうそれでいい。
自立するためにはお金が必要なので、いくつか生計を立てる手段を用意してみたが、殆どは数年に内になくなってしまった。
もちろん常に生計を立てる手段を増やし続けてはいるが、見事に続いていない。先日も一つ消えたところだ。
今日はそこの最後の仕事の後始末を手伝い、終わったところだった。
終わって外に出てみたら雨が降っていた。
例によって“運悪く”傘を持っておらず、風邪を覚悟で数軒回って傘を手に入れた。
冷たいしずぶぬれだし買ったとたんに雨が弱くなったのもいつもの事なので気にしない。
東京はあったかい。雪は降らない。雨が降っても特に害にならない。
けれど、故郷の雪国に帰りたい。
冬はやっぱり、雪景色の中で暮らしたい。
そこだけは変えられなかった。
「冬に雪が降らないのが平気だったら、選択肢はとっても増えるんだけどなぁ」
ポロリとこぼれた言葉は雨音が掻き消される……はずが、それより先に聞き取った人がいた。
「あれ、麻利絵?」
背後から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声。だけど同時に、恐怖で避けていた相手でもあった。
よし私は何も聞こえなかった何も知らなかった何もなかった!
麻利絵は脳内で抹殺しようとしたのだが、実行より先に気付かれたらしく先回りして阻止された。
麻利絵を呼び止め、逃亡を阻止したこの男は幸澤元也。
麻利絵のいとこで、普通に幸運で特に運がいい方だ。
親族から離れようとしている今、最も距離を置きたい人のはずだが親族の中で親に次いでよく接触している。
お前いい加減に不運で死ぬぞと言い続けているが、効果があった試しはない。
「久しぶり。それじゃあごきげんよう」
「さすがにその物言いは酷くない? いつもの事だけど!」
言い逃げによる逃亡を図ってみたが腕を掴まれて失敗した。
ついでに風邪覚悟の傘調達の件もばれてしまった。
「そして麻利絵はまた“運悪く”傘を持ってなくて傘の調達を試みたでしょ?」
だからさっさと駅に行きたいんだけど、ととっさに返してみたものの、それで何回風邪引いた?と返されてしまった。
同様の手口で風邪をひいた回数など憶えておらず無言を選ぶと、せめて駅行く前にざっと拭いて身体を温めようか、と言われてしまった。
「“幸運”にも数軒先のカフェは知り合いがやってるからちょっと寄ってタオル貸してもらおうか」
元也が指示したのは以前入ってみたところ、すごくおいしくて自分好みだったのでまた行きたいリストに入れたカフェだった。
気に入った店が元也と知り合いだったとは。そしてそんな近くを歩いていたとは。
逃げ場がない。逃げられない!
運が悪い!
「元也、また“幸運”使ったな……?」
親族トップクラスの幸運者はにっこり笑ってまさかと否定して麻利絵の腕を掴んだまま歩き出し、何のためらいもなくカフェの扉を開いた。
「カフェオレとコーヒーです。追加注文やおかわりはいつでもどうぞ」
タオルを貸して貰えて無事身体を拭き、席に着いたタイミングで差し出された飲み物に一瞬反応が遅れた。
私は頼んだが覚えがなく首を傾げていると、元也の知り合いの店員が身体を拭いている間に注文を受けましたと教えてくれた。
元也が先に飲み始めたのを確認してから後のごたごたを避けるために先に一礼を告げてから飲み物に手を付ける。
以前来た時に一口飲んで即お気に入り入りとなったカフェオレは今日もおいしい。
他の飲み物を試してみたいところだがまずはおかわりを決めた。
同じものを続けて何杯も飲んでいたことに加え、元也のいとこだということで完全に覚えられたらしい。
タオルに加え羽織物を貸してくれたのがいい証拠だ。
やめろ私は公言せずこっそり飲みたいんだ…!と麻利絵は思うが、体質が作用して潰れてしまうのを恐れているだけなので、親族トップクラスの幸運男が知り合いの店ならば多分何とかなるだろうと放り投げて今日は飲むことにした。
おいしい!
「何杯も飲んでたって言うあたりで相当好みだろうなぁって思ってたけど、かなり好みだったようだね?
飲むスピードが速いよ」
抑えていたはずの癖を見破られ、カップを傾ける手が止まった。
無意識の癖を見破られるのは今回が初めてではない。むしろ麻利絵自身が気付いていないことを知っていたりするのがよくあったりする。
このいとこに好みやらなんやらを把握されていることにさして拒否感や嫌悪感なんてものは覚えたこともない。
もちろん把握する側の元也の動機は、麻利絵が好きだからに尽きるのだが、麻利絵はなぜ嫌ではないのかを考えたことはない。
親族故か、今までの距離感故か、それ以外か。麻利絵は無意識の内に考えることを避けているからだ。
今日の避けた先は一気に飲み過ぎて残り少ないカフェオレだった。
おかわりしよう、そうしよう。どうせおかわりを頼むのなら、一緒に何か頼んでしまおう。
そう思い、席に備え付けられていたメニューを広げる。
「何か頼むの?」
「前回食べてないスイーツ」
当然のようにひょいと顔を覗かせる元也に端的に返して、目的の個所を探しだした。
ちらりと前回迷って選ばなかったパスタが目に入ってぐらりと揺らいだ隙に元也が先に目的の個所を探し出して麻利絵の前に滑らせた。
「スイーツだとこの辺りだね」
流石知り合いとだけあって早いと麻利絵がいらぬ所で感心していると、元也はどれを食べたか聞いてきた。
「麻利絵が前回食べたのってどれ?」
「スフレ」
「あれ?意外。シフォンあたりかと思った」
シフォンと迷ってスフレにしたはず、と言うと覚えておこう、という呟きが聞こえてきた。
麻利絵はあまりにも正々堂々と言われてしまい、素で変な顔に
なった。
すごい顔をしてるよ、とコロコロと笑いながら指摘してきた元也に、抵抗の意を込めてシュガースティックを頬に突き刺した。
自分の指で突き刺すという行為はしない。前回の本厄を思い出してしまうからだ。
親族のことは避けているが、嫌いではない。
今度こそ不運で命を奪ってしまうかもしれないという恐怖が、干支が一周しそうになっても消えてはくれないのだ。
取りあえず残り少ないカフェオレを一口飲んでおすすめを聞いてみることにした。
「おすすめってある?」
「おすすめ?それならマカロンと日替わりクッキー、それとワッフルもいいかな?」
どれにする?と聞かれ、麻利絵は直感でワッフルを選んだ。
「ワッフルにしようかな。元也は?」
「もう決めてある」
麻利絵はいつメニューを見たのかと疑問に思いつつ、ほんの少し残っていたカフェオレを飲み干して、店員に声をかけようと視線で辺りを見回した。
それに気づいた元也はすみません、と先手を打つ。
無論、声をかけたのは例の知り合いだ。
「はいはい」
「ワッフル一つと、カフェオレのおかわり、それと例のやつお願い」
「ワッフルとカフェオレのおかわり…って本当にあれ注文するのか?
複数人でしか注文はおすすめしないとは言ったけどな?本当にいいんだな?」
「もちろん」
お前が甘い物のペロッと食べることは知ってるが本当にいいんだな? 彼女に振られても知らんぞ? 店内で絶縁シーン見るのは嫌だからな?
オーダーを受けた店員が、矢鱈滅多と元也に忠告を繰り返す。
やがて第三者からやり過ぎだと判断が下されたのか女性店員から制止の声が飛んだ。
「やりすぎです店長。また知り合い減りますよ」
「うぐっ!? お前な……!?」
親しい人だとすぐ気を抜いて素で接するんですから、と女性店員は元也の知り合い改め店長に注意した。
店長に盛大なダメージを与えていたり、敬語を強調していたりする辺りちょっと特別な関係のようだ。
羨ましい、と自覚してからは止めることをやめた眼差しを店長と店員に向けていると、面白く思わなかったらしい元也が、不満を押し殺した笑みでこちらを見ていた。
「麻利絵、付き合わない?」
「元也は幸運なんだから普通の子か幸運な子と付き合いなさいよ」
「……。」
元也はまたかぁ、と言う顔をしてがっくりとうなだれた。
尚、この反応はいつものオチなので一向に気にしない。
「……本当に何事もなかったように抹消してくるよなぁ……。」
元也はひどく暗い瞳をしながらも苦々しい小さな声でそう零したのだが、麻利絵は気づくことなく近況を聞いた。
「で、最近何かあった?」
「中学時代のクラスメートが作ったアニメーション映画見せて貰ったり、宝くじがちょっとした金額当てたり、好きな作家のサイン本が手に入ったりしたくらいかな。
まぁ宝くじは金額が金額だったから面倒ごと引き起こしちゃったけども」
幸運な親族の一般的な当選金額が一万円からで、ちょっとした金額が十万からだ。
この男の場合一般的で五万から十万なので、麻利絵は気が遠くなりながら当選金額を聞いた。
「今回は一体いくら引き当てたのさ?」
「ざっと七桁かな? 確か」
「…わぁさすが親族トップクラス」
「半分くらい入れておくね!」
「いらん怖いわそんな金額!」
さして興奮した感じもなくあっさりと金額を告げられて現実逃避をしようとしたところに爆弾を投げ込まれ、麻利絵は最優先で否定の意を告げた。
……ほぼ悲鳴のようなものになったのは仕方のないことだろう。多分。
「そう言うと思ったから四分の一は色々と投資をして、四分の一は貯蓄に回して、五分の一を基本的な生活費に回して残りを麻利絵に使うね」
今回は当然奢りだから安心して遠慮せず食べてね!
……などと元也はぐっと親指を立てて言ってきたが、ほぼ変わっていない。
それに幸運男でも桁数しか言わないということは、少なくとも一番上の数字が四捨五入すると桁が変わるか変わらないかくらいは多分平気で当てているので“残りの金額”が確実におかしなことになっているだろうと麻利絵は推測する。
「何一つとして安心できる要素が見つからなかったな!?」
「今からでも麻利絵を養えるだけの貯蓄もあるし結婚しない?」
「その方向性で結婚はしたくないなお断りだ!」
何故か捻じ込まれた結婚話は、速やかに断るに尽きる。
結婚だとかに憧れたことはあるし、諦めた今となってはキラキラとした夢として居座り続けている。
それ故に同情で養われるための結婚など全力のお断り案件だ。
追加で言い訳するのであれば、 説明できない何かが怖かった。
それを凝縮したような舌打ちが元也から飛んできたので、麻利絵は意図的に聞かなかったことにして関連話題に逃げた。
「で、なんの面倒ごとを引き起こしたのよ?」
「今回最大の面倒だったのは強盗まがいかなぁ?
物理速攻で来たから計算尽くで撒くことも出来やしないし、力負けしたし運以外ではどうしようもなかった」
「いや運でしか切り抜けられないなら仕方ないのではそれは」
「麻利絵に使う以外の幸運なんてねぇよ!!」
麻利絵以外に使う運などない。それは小さい時からの元也の口癖だった。
幸運と言うより豪運に足を突っ込んでいる幸運者の当てつけかとも思えるのだが、元也は文字通り持っていう幸運を麻利絵に使いたいだけである。
その果てがどうなるか身を持って知っていても、だ。
「……。」
そんないつもの口癖を、麻利絵は無言で流した。
一体何になりたいのかいつも疑問に思うのだが、以前突き放そうと攻撃的に口にしたところ、時間単位で延々と語られ続けたので麻利絵の中で禁句の一つと成り果てたからだ。
避難先としてカフェオレを選んだが、カップの中身が空だったことに気付いた。
空にしてから注文をしたのを忘れていたのだ。
そっと視線を泳がすと、さっきの女性店員がおかわりを持ってきてくれた。
「カフェオレのおかわりお持ちしました」
「ありがとうございます」
テーブルに乗せられ、手が離れてからお礼を言う。
立ち去るのを見送ってから二杯目のカフェオレに手を付ける。
うん、おいしい。好みだ。
麻利絵が三杯目もこれにしようか他の飲み物を試してみようか迷っていると、その様子を盛大にむくれた元也がじっと見つめていた。
やがて麻利絵がその視線に気づくと 、元也はふっとその視線を引っ込めた。
怪訝に思った麻利絵が元也の名を口にしたが、元也は努めて明るく否定した。
「……何でもないよ? それより、麻利絵はどう?」
麻利絵は納得できないとばかりに首を傾げたが、それを口にすると延々と語られることがわかっていたので素直に話題に応じておく。
「私? いつも通りの不運だよ?
ちょっとだけ毛色が違うなと思った奴は彼氏にな…なろうと? なりすまそうと? してきた奴がいた位で。
あ、仕事一個消えたね」
痴漢に遭ったり財布なくしたりとかあったけどいつも通りなので特には口にしない。
いつも通りの不運は言わなくていいか。
麻利絵はそう思いながら今回は凄い変わり種だったな、と何の気なしに呟くと、元也は若干白目になりながら口を開いた。
「どんな奴だった?」
私の不幸体質を盾に自分の不運の原因と不祥事を押し付けられた言い訳に最適な隠れ蓑が欲しかったらしいよ。
名目を得る前に事故にあったけど。
結果証拠隠滅に失敗して言い訳出来なくなって仕事先巻き込んで自爆したけどね。
言ったらやばそうな情報は、言わないに限る。
それにこの男に関してはどうしても自分の手で裁きを下したいので横槍を入れないで欲しい、と言う交渉を受けた後だったので麻利絵は保身と交渉相手を選ぶ。
「……。秘匿」
「……へぇ?」
「今あの男に関しては私の手を離れているのでね。今の私にはこれが最大。」
最も、元也は長年の付き合いと観察で笑い飛ばせない程度にやばい案件か何か取引があっただろうということは簡単に見破れるので、聞き取りは諦めた。
「……そう。なら、勝手にするね」
麻利絵は言わなくても駄目でした……! と心の中で盛大に謝罪を響かせながらカフェオレに癒やしを求めた。
カフェオレは相変わらずおいしかった。微妙な無言が痛いが。
それを打ち破ったのは女性店員だった。麻利絵が頼んだやつを持ってきたのだ。
「お待たせしました、ワッフルです。例の方はもう少しお待ち下さい」
「ありがとうございます」
救世主出現にうっかり手が離れるのを待たずにお礼を言ってしまい、いらぬフラグは建てないよう気を付けていた麻利絵はしまったと思った。
かといって麻利絵が何かしようとすると不幸体質が邪魔するので、祈るだけ祈ってフォローは幸運男に投げようと決めた。店員を見送り、早速一口。
さすが元也のおすすめである。絶対に外して来ない。
「おいしい!」
「それはよかった」
麻利絵が感想を告げると、ふっと元也の雰囲気が和らいだ。
ほっと一息ついて気になっていたことを口にした。
「元也が頼んだ例のやつって何?」
「秘密。でも多分そろそろ来ると思うよ」
「ふうん?」
はぐらかされてしまったが、そろそろ来るのならば来てのお楽しみでも問題ないか。
麻利絵はそういうことにして、更なる空気改善を求めてヒントを聞いてみた。
「時間がかかるような物なの?」
「のはずだね。一人で来たときには出してくれない代物だし」
「……メニューにあったの? 」
「一応あるよ」
裏メニューではなかったことに一安心し、何か該当しそうなメニューがあったかなと思い返していると元也が頼んだ物が来る方が早かった模様。
「お待たせしました、五段パンケーキです」
「はい」
元也は目礼し店員を見送る。
元也が受け取らないなんて珍しい。麻利絵は途中まで呑気に見ていたが、それを目にいれてビックリしていた。
そして注文時の店長の対応に納得した。
「とても大きいね…?」
「でしょ?」
元也が頼んだ五段パンケーキは厚焼きのパンケーキ5段にアイスクリームが乗せられ、ホイップクリームが大量にあしらわれた代物だったからだ。
そりゃああれだけ忠告するわけだよ!
それは明らかに一人分ではなく、数人でシェア するような大きさであり、かなりのボリュームだった。
甘いものが苦手な男だったら、少なくとも両手以上の人数で割る必要があるだろう。
いくら甘いものをぺろっと食べると知っていても、多分麻利絵であっても止めただろう量だった。
「食べてなかったのがそれなの?」
「うん。これで基本メニュー制覇。いつも一人で来るから食べられなくてね。食べる?」
「なら一口ちょうだい。って、これ食べたいだけなら適当にそこら辺の子引っ掛けて食べれば良かったでしょ」
それは嫌だと言いながらどうぞと五段パンケーキを麻利絵の側に寄せてきた。
私は一言お礼を言ってから一口食べる。
おいしい。でもこの量を麻利絵一人は無理だろう。
幸澤の親族は幸運故によく食べるのかよくわからないが、麻利絵以外揃いに揃って大食いである。幸運に比例するように食べる量も増えるので、親族トップクラスの幸運たるこの男の食事量は、かなり凄いことになっている。
多分この男だったらこの量くらい問題なく食べきるだろうと判断して麻利絵は自分で頼んだ物に手をつける。
「もういいの?」
「ワッフルを食べきってから考える」
「小食だもんね」
「私は普通だ、この大食い……!」
そう? と言いながら元也も自分で頼んだものに手をつける。
「ん、これなら二つ目イケる気がする」
うまい、と呟きながらさくさくと食べていく元也を、知り合いの店長と女性店員、他居合わせた客の一部が目を剥きながら見ていた。
三十代男が一人で二つ目もイケる気がするとか言いながらさくさくと食べていくなんて普通は誰も思わない。
当の本人が全く気付かず食べ進めているので、何も気付かなかったフリして続きの一口を放り込んだ。
あれだけあった五段パンケーキを半分くらい食べ進めた所で、周りからの視線に気付いたのか疑問を呈していた。
「何で?」
「三十代男が女性数人で分け合うことを想定したスイーツを一人で食べ尽くそうとしてたら視線は集まるでしょ」
何のための忠告だったと思っているのと突っ込めば、元也はぴしりと固まった。
麻利絵はそれを視界に入れないように窓の外に目を向けると、ちょうどそばを通りかかった女性に目が止まった。
黒髪ショートの巨乳、かわいさより格好良さに割り振った、年の近そうな――身長が平均的な人。
「駒江ちゃんが正常に身長が伸びていたらあんな感じになったのかな?」
「……駒江?」
「同じ学年でいたじゃない、あの背の低い退学しちゃった人」
駒江とは二人の高校時代のクラスメートで、脊椎損傷で身長が絶対に伸びなかった人だ。
だからさっきの女性は絶対に駒江ではないのだが、それでもどこかで似ている気がした。
「え? あぁ、駒江ってあの社長令嬢? 最後派手だったよな」
麻利絵は元也が駒江のことを思い出したことに安心したが、思い出した内容の一点に関しては許容出来なかった。
手にしていたフォークをくるりと持ち替えてフォークの持ち手で元也の頬を刺して全力で主張する。
「十年以上前に社長を継いだ人に対して社長令嬢は失礼でしょ!」
駒江は社長を継ぐ前提であの高校に入ったものの、実際に継ぐときになって先生達が揃って抵抗したため学校ごと振り払ったのだ。
学年トップの最難関有望株だっただけに学校全体を巻き込んで騒ぎになったし、よく覚えている。
「駒江ちゃんは社長を継ぐために退学を選ばざるを得なかったんだから!」
「そうだった……今も社長なの?」
「代替わりはまだ聞いてないから、まだ社長のはずだよ」
ざっと思い返してみても高卒認定に合格したとか会社の体制を整えているとかは聞いたが、代替わりしたとは聞いていない。
社長令嬢と言えば、だ。
「今の駒江ちゃんは社長令嬢じゃないけれど、社長継いでから見つけ出した親戚の子が社長令嬢になったはずだよ」
今年で二十歳だったと思うけど、と付け足せば、随分と年の近い親子だな、という呟きが返ってきた。
「叔母と姪というよりは年の離れたいとこと言った方が早いような年の差だからね、仕方ないね」
「よく引き取って養子にしたな」
「元々高校退学した時点で結婚を諦めたみたいだし、後継者は手元に置いておきたかったんじゃない?
……まぁ、捜し当てられたときにはかなりボロボロで回復に駆けずり回ったようだよ」
「大丈夫なのかその娘は」
「両親が生きてた頃の近所の子と再会して回復したとは聞いているよ。」
聞いている、とは言ったが本当はあったことがある。
だけどその初対面はあまりに無様すぎる上、それによって引き起こされた一連の出来事はあまりに苦すぎた。
こみ上げてきた嫌悪感をカフェオレと共に流す。
おいしい。けれどそれ以外が苦くてたまらない。
続けてもう一口飲んでみても、苦さは残った。
「あの子と言えばさ、凄く綺麗になったんだよ。」
引き取られてすぐの頃はあんなにボロボロだったのに!
ぐっと手を握ってそう主張すると、
「女性はそもそも綺麗になるものでは?」
というツッコミが返ってきた。
「内心はどうあれ物理的に磨けば綺麗にはなるけどね。あの子の綺麗はそう言ったものじゃなくて…何て言えばいいのかな、纏う空気が綺麗になったとか、内側から綺麗になったというか、物理じゃないところが綺麗になったのよ」
勿論物理的にも綺麗になったけどね!と追加の主張をするとそこまでなのか?という疑問を呈された。
「見とれると思うよ? まぁその前に牽制が飛んでくると思うけど」
「お手つき済なのか?」
「手順を踏まずに手を出すのは許さないって言ってたね」
駒江ちゃんはしっかり釘差したらしいよ。
麻利絵が流石だよねと言えば、的確な時期にえげつねぇなという深刻な呟きが元也から漏れた。
「で、その生殺し食らってる奴は?」
「両親が生きてた頃の近所の子。あの子と同い年だよ」
「更にえげつねぇな」
「その彼もあの子の回復を優先したから承知の上だと思うよ」
だからこそ回復して綺麗になったと思うんだけどね。
「それで手を出さずに生きていられるのかよ?」
「さっさと手順踏んで手を出せばいいのにね。
あの子がきれいになった原動力の一つは彼への恋愛感情な訳だし。」
「少年はヘタレなのか?」
「駒江ちゃん曰わく回復優先させすぎて鉄壁の独占欲の塊、らしいよ?」
この間も愚痴が来ていたと言えば、元也は興味を示した。
麻利絵は巻き込んでみようと決めて前提から口にする。
「あの子の髪は生まれつき茶色なんだけどね、駒江ちゃんが見つけた時には黒だったの」
「? ハーフとかではなく?」
「いや、数代遡っても日本人だったって。」
日本人だから黒だと信じて疑わなかった“親族”は黒じゃない髪色を受け付けられなかった。
「だから見栄で引き取った叔母が黒に染めさせたのが始まりで、あの子に黒でないといけないという呪いを植え付けたのよ」
いつかその叔母から厄介払いを受けて他家に行っても黒に染め続け、駒江に引き取られるまで止まることが出来なかった。
「髪が痛むだろう、それは」
「駒江ちゃんは歯が立たないほど酷かったって言ってたね」
聞いたところによると上がったばかりの中学から呼び出しを受けた際、駒江は逆に先生たちに質問攻めにしたそうだ。
「今も黒なのか?」
「いや、今は元の茶色 だよ。王子様が現れたからね」
「少年か。何やったんだ?」
「再会した時に周りが美容院を勧めて、綺麗になったところを見惚れたらしいよ」
綺麗だと言ってくれたから、好きだと言ってくれたから、髪色を戻して伸ばそうと思います。
あの子は黒の呪詛を破ったことを、そう言っていた。
もちろん呪詛は簡単に消えてくれるわけでもなく、発作的に黒に染めてしまったりしたそうだ。
髪を染めることは出来ても髪の手入れの仕方をを知らなかったりしたので、そう簡単にはいかなかったけども。
「ちゃんと口説き切れたんだろうな?」
「口説き切れたらもう手を出しているんじゃないかな?
ただ、駒江ちゃんが連日家を空けるようなときには彼の家に預けていたと聞いたし、あの子の髪を乾かしたり整えたりしてたらしいよ」
「少年がその子の髪をやったのか?」
女性にとって髪は命とも言えるのに、少年に触らせたのか?という驚きを込めて呟いた元也に、是を返した。
それは駒江が知るあの子の目に見えて分かる初めての変化だった。
「拒絶しなかったというか、されるの好きだって言ってたよ」
それはつまり無害で信頼のできる、絶対に安心安全な聖域だと認識したという事でもあり、彼の生殺しの始まりだった。
元也はまじかよ、とだけ呟いて、数口分の五段パンケーキを口の中に放り込んだ。
ここまでが前提だよ、と麻利絵は心の中で呟いて本題に突入する。
「この間来てた愚痴はそれの進化形なんだけどね」
「……は?」
「あの子が外に行ったり来たりで物理的な接触が減って回数は減ったものの、違和感ない程度に進化してて気が付いたら凄いことになってたらしいよ」
「続いてる上に進化するのかよ!」
「あの子自身がやるよりかなり上手になったらしいよ。この間は写真付で来たよ」
麻利絵はそう言いながらカバンから携帯を探り当て、目的の写真を探す旅に出る。
数分格闘して見つけ出したその写真群を時系列順に並べて表示する。
「これがあの子が彼と再会する前に駒江ちゃんが悪戦苦闘した後」
状態が悪すぎる少し長めの黒髪。
「これが彼が口説いた後」
綺麗に切り揃えられて何らかの手入れがされた状態。
「これが髪色を戻している途中」
かなり色が明るくなっていて状態が良くなってきている状態。
「これが髪色が戻った後のデフォルト」
綺麗な茶色になって何も手を加えられずただストンと髪を下した状態。
髪を下した状態が今のデフォルトである。
「ここまで綺麗になると見事だな」
「でしょ?」
麻利絵は元也に写真を見せながら反応を窺う。元也は素直に感心していた。
麻利絵は社長を継ぐことに全てを賭けた嘗てのクラスメートの娘への激情の結果を嬉しく思うのだが、次からの画像を見せることに躊躇する。
ただ、その次を見せないことには本題とはならないのだ。
意を決して、次の画像を呼び出す。
「これが駒江ちゃんが気付いた時で」
「うん?」
何事もなかったように三つ編みが添えられている状態。
「これがこの間駒江ちゃんから愚痴と共に届いた写真」
「……とても豪華、だな……?」
編み込みが四つとお団子に添えられた三つ編みが二本のハーフアップの状態。
あの酷い真っ黒だった頃を見た後に見ると本当にきれいになったと感激するのだが、この髪型をやったのがあの子自身ではなく彼だ。
どうしてここまで来てしまったと言うツッコミが抑え込めない。
「…何て愚痴が来たんだ?」
私はこみあげてきた生温かい笑みを隠そうとせずに、メール原文の一部を読み上げるべく該当のメールを表示させる。
「花への嫉妬と言えどこれは酷くない?」
ツッコミの嵐でしかないのだけど麻利絵はこのメールが来た時には吹き出した。
「花に……嫉妬……?」
「どうやら彼は前日自宅の庭に生えていた花をべたつかないようにしてあの子の髪に飾ったらしいんだけど、生花だから時間が経ったら駄目になってしまうじゃない?」
そこで切ると元也はそれは仕方ないなと同意をした。
麻利絵も同意である。…その辺りまでは。
「あの子はそれが悲しかったらしくて、それを彼に言ったらしくてね?」
「その結果がその編み込みと三つ編みなのか?」
遠い目をして答えを言ってきた元也に私はにっこりと笑って是と返した。
「駒江ちゃんが写真撮って見せるまでどんな髪型になったのかも知らず、追加で礼を告げようとしたらしいよ。」
「ひっ……!?」
そこまでになっておいて何もしてないのが理解できねぇよ。
元也はその後も理解出来なさを呟きながら天を仰いだ。
ですよねーという気持ちとそこなのかという気持ちが同時に浮かび上がり、ワッフルとカフェオレを胃に収めながらぼんやりと眺めていた。
やがて言い切って疲れ果てた表情で元也は麻利絵に感想を求めた。
麻利絵の感想など当の昔に決まっている。
「恋の力ってすごいよね。」
「そこかよ!」
どうしてそうなったと言わんばかりの鮮やかなツッコミが店内に響き渡った。
「…その二人の関係は?」
「本人たちは幼馴染と言い張ってるらしいよ。」
「なんでだよ……!?」
「あの子は彼の事が好きだけど彼からは依存を許されているだけだと思っているし、彼はあの子のことを好きだけどあの子から依存されているだけだと思っているらしいよ。
両片思いだね」
もちろん彼視点は駒江情報だ。
本人たちは大真面目にそう思っているので、外野はつついたりして見守るしかない。
「それだったらいっそ俺と麻利絵が付き合ってるって言い張った方がましだろ」
「なんで私」
今度は麻利絵が理解できないと言わんばかりにツッコミを入れ
た。
「俺は麻利絵が好きだよ、付き合ってください」
今までとは打って変わって真剣に紡がれた声は、伝えたかった相手だけではなく、元也の知り合いたる店長の他に近くにいた人たちの視線と興味を引き付けた。
麻利絵はそれを振り払おうとカフェオレを一口。
変わらずおいしいのだけど、この場の麻利絵に手助けはしてくれなさそうだった。
「今年中に死ぬ様な不幸体質に同情する暇があったら、普通に寿命を全うできる子を捕まえて生きなさいよ」
元也はだから同情では、と低く唸るが、麻利絵は目もくれずそもそも、元也の勢いを削いだ。
「私の年齢忘れた?」
年齢と言う単語に、元也の方がびくりと揺れる。
同い年のいとこなのだから知らない訳がない。
現時点で三十二、誕生日が来れば三十三。女性の十九と三十三と三十七、男性の二十五と四十二と六十一。
日本人なら一度は耳にしたことがあるであろう風習。
「私本厄だよ、それも大厄」
麻利絵の不幸体質は、一人であるか否かや厄年などの外的要因に大きく左右される。
つまり、幸澤に生まれてくる不幸体質にとって厄年とは年単位で変動する大きな波だ。
だからもう、麻利絵は答えを出している。
「きっと今度こそ私の体質は近くにいた誰かを不運で殺すよ。
ならばその原因たる私は、私自身の死を選ぶよ」
「……死を、」
「私が死ねば、世代交代する程度の期間は幸澤から不幸体質も違いなくなる。
これでいいじゃないか」
麻利絵を含めたこれからの世代は、不名誉だとか不適格だとかで命を奪われることを許さないし、どうであれ生きることが義務となる。
だけど。
「私はもういいや。……疲れた」
夢は見た。ここまで生きて来られた。
だから、もういいのだ。麻利絵には、それで十分だった。
麻利絵はそう言ってゆっくりと目を閉じた。
だから激情でゆらりと揺れた元也の瞳が、著しく歪んで大粒の涙をぼろりとこぼしたことを麻利絵は知らなかった。
「 」
元也は何か言葉を言ったつもりだったのだろう、唇は動いていた。
ただし、動いたのは唇だけで声は出ていない。
それ故に目を閉じていた麻利絵は知りようもなかったのだが、それを目に留めてしまった他の人達は二人の動向を見守る以外の選択肢を奪われたかのように動きを止めた。
元也は一つ、二つと呼吸を繰り返し、麻利絵が避けていると知っていて彼女の手を握った。
目を閉じていても伝わる熱は、すぐに元也が麻利絵に手を握られていることを知らせる。
弾けたように目を開けた麻利絵は、その事実を確認してしまい、すぐさま青ざめた。
それとほぼ同時に息の吸い方を間違えたような、上手く機能しなかったような音が麻利絵の喉から零れ落ちた。
「麻利絵」
今まで聞いたことのないような低くて真剣な元也の声が辺りを支配した。
それを聞き取った麻利絵はそれが何であるか脳に判断材料が届けられる前に脊椎が危険だと判断し、体に逃亡命令を出した。
けれどそれは熱の主が許すわけもなく、力尽くでこの場に縫いとめる。
「……放して、」
他人の手はとても温い。それは誰でも知っている。
だけどおまけ付きの不幸体質を持つ麻利絵にとっては恐怖の対象でしかない。
「放せ、放せったら!」
「嫌だ」
絶対拒否と言わんばかりの声音は、麻利絵に言葉による状況の打開の不可を叩きつけるには十分すぎた。
幼い頃から自分の手を握り続けたその手の主に牙をむき続けた前回の本厄の一年間を思い出してしまい、恐怖で麻利絵から正しい思考を奪う。
ぼろりと零れた一粒の涙を合図に、麻利絵の身体の制御が己の手から零れ落ちた。
寒くもないのに震えが止まらない。
催涙弾を食らったわけでもないのに涙が止まらない。
身体の制御がない以上、それらを止めることは出来ないし、正常な思考が奪われている以上、それらを止めようと思うこともできやしない。
今までの会話の感じから、麻利絵は元也のことを嫌ってはいないことしかわからない周りの人達は、どう手を出せばいいのかわからず、固唾を飲んで見守ることを選んだ。
「いい加減に麻利絵は俺が逃す気もなければ放す気もないって気付こう?
何年言ってると思ってるんだ?」
元也と麻利絵は親族だ。
特に疎遠でも何でもなく、物心つく前から交流はあった。
だから逆に、麻利絵はそう言われ始めたかを覚えていない。
それ以上に焼き付いて離れないのは、前回の厄年でこの男を"運悪く"死に掛ける光景。
「そうやって前回何度死に掛けたと思って……!」
一回だけじゃない。二回三回、何度も何度もこの体質が、殺しかけている。
あの一年間で一番この体質が殺しかけたのは、間違いなくこの男だ。
しかし当の本人は、昨日の晩御飯のメニューを忘れたかのような軽さで答えた。
「さぁ?最初から数えてないね」
「あの親族内で一番死にかけたのは元也でしょ!」
第三者が聞けば何言ってんだこいつ以外の何物でもないが、殺しかけた本人が言ったところでどこ吹く風だ。
回数なんて親族の誰かが数えているからそれでいいらしい。
「でも俺は生きてるし麻利絵も生きているし、好きな人に生きてほしい以上に何か要る?」
「……、は?」
この男は何にこだわっているんだ。
そんな麻利絵にお構いなしで元也は続きを口にする。
「好きな人に生きて欲しいというのも法にも倫理にも触れない手段を行使するのも悪なの?」
相手の生を願う、それは悪ではない。
それは麻利絵にも身に覚えがある。そして世間は出来る者に厄介払いとまでに押しつけるだろう。
「好きな人に近付きたいとか好きな人に触りたいとか考えることは、おかしいことなのか?」
それはきっとおかしく ないことだ。本能なのだから。
本能に従うあまり常軌を逸したり悪質になると法律が拘束してくるのだが、それ自体を否定することは出来ない。
店長は応援しながらひやひやしていた。
「その結果俺が不運で死んでもいい」
それ自体は一向に構わないと元也は静かに言い切った。
握った手を見つめたまま微塵もこちらを見ようとしない麻利絵にどこかで煮えくりながら、元也は好都合とばかりに言い訳を積み重ね始めた。
好きな人に好きだって言うのに何が悪い、好きな人に好きになってもらえるように努力するのに何が悪い、
「俺は麻利絵が好きです、生きていて欲しい」
元也は言い訳の途中で素直に零れ落ちたことに動揺しつつも、一呼吸二呼吸で覚悟を決め、短く息を吸い口を開いた。
「俺と結婚してください」
静かで低くて真剣な声だったが、店長には祈りや懇願が混ざっているように思えた。
これでだめなら元也は立ち直れないのではないかと不安になったが、声を出さないようにするので精いっぱいだった。
そんな言われた側の麻利絵は結婚を申し込まれたようだとぐちゃぐちゃな思考状態であるに関わらず答えを出してしまい、ぐちゃぐちゃなまま言葉を引きずり出した。
「……嘘でしょ?」
ついに私は幻覚を見るようになったのか、凄いな?
……と、この状況を麻利絵の中で正当化するべく答えをはじき出した。
その答えを察知したのか、元也は掴んだままの震えの止まらない麻利絵の手を更に握りこみ、震えを物理で止めた。
当然かなりの力がかかっているので痛いし、これが現実だと知らしめるには十分だった。
幻覚じゃないならからかいかなと思い付き、ふっと顔をあげて元也の顔を見てしまった。
正常な思考の時ならば合わせたらヤバいと気付く代物なのだが、手を握られたショックで手放している麻利絵に気付けるはずもなく、目が合わせてしまった。
逃げ場をなくしてから目を合わせてはいけないことに気付き、青ざめた。
視線を動かそうにも動かない。
「……返事は?」
他の何も聞き取れない中、元也の声だけがすとんと入ってくる。
ふと返事で退路をひらいてみることを思い付き、マイナス要素を口にすることにした。
「親族同士は血が近すぎるはずだよ?」
「一定範囲外なら問題ないよ」
「……いとこだよ?」
入るんじゃなかったっけ?と返せば結婚不可は三親等までと返される。
「いとこは四親等だな」
「……だとしても他の親族の印象はよくないでしょ?」
イメージが良くないと言えば、元也は口角が少し上がり、いつから好きだと思ってるのさ、と前置きを口にした。
「皆知ってる」
「……は?」
構わないが自分で頑張って口説けと言われた、と元也は楽しげに告げた。
麻利絵は信じられない物を見る目つきになったが、まだ負けまいと次のマイナス要素を口にした。
「私は“他人から運を奪う”不幸体質だよ。」
「そうだね」
一番近くにいる人を優先して運を奪う。
外の隣より、内の方が絶対的に近い。
「子供は絶対に望めないよ」
「それでもいいさ」
「元也が死ぬことになっても?」
「当然」
何の淀みなく言い切った元也は、ただじっと麻利絵の反応を待つ。
身体は動かせない。
手の震えだけが
他者の熱が制圧している。
視線が動かせない。
マイナス材料が、思い付かない。
呼吸数だけが増えていく中、先に折れたのは麻利絵の方だった。
「私は、不運で元也を殺したくない」
こぼれ落ちたのは前回の本厄の時に染み付いた本音であり、拒絶文句だった。
嫌いではない、生きていてほしい。だから麻利絵は親族から離れることを選んだ。
親族たちの過保護から抜け出す時に使った文言だったので、全員に知れ渡っている。
だから当然いとこにあたる元也も知ってはいるのだが、知っていてそれより前から固定されて動かない逆の答えを麻利絵に突き付けた。
「なら大厄を過ぎた一年後、隣で生きていたら俺と結婚してください」
元也は瞬きせずにようやくこちらを向いた麻利絵に視線を固定して返事を待つ。
そんな危険を冒さずに自分のいない時間で生きていてくれればそれでいいのだ、と返して拒否を示そうとした麻利絵の口から出た言葉は違うものだった。
「私の隣で、同じ時間を一緒に生きてくれるのなら」
「……、それは、」
元也が怒りとは逆の方向に声を震わせながら、言葉を選びながら口にする。
そんな反応を見た麻利絵が、今なんて言っただろうかと疑問を持ったその時、
某えんだー曲が流れた。
カップルが発生したり結婚式でよく流れる定番曲だ。
突然店内で鳴り響いた音に、当事者二人以外の人達の目が発生源へと向けられた。
元也の知り合いたる店長へ。…正確には店長の携帯電話。
ここまで固唾を飲んで見守ってきたのに何してくれたんだ――そんな視線を店長は全力で喰らい、逃げるように口を開いた。
「式を挙げるときには夫婦揃って呼んでくれ! ドリンクの提きょ」
「謝罪」
「着信鳴って済みませんでした」
そんな店長の逃げの口上は十秒ももたずに女性店員に沈められた。
「話の邪魔をして申し訳ありませんでした。
……さあ店長、皆様の視界から外れる店の裏までお越しくださいませ?」
続いて追加の謝罪を二人にした後、店長に裏への誘いをかけた。
ご臨終、と言う単語が野次馬勢の中で共鳴した。
一方、当事者たる麻利絵は聞き慣れたメロディーを切欠に正しい思考が帰ってきた。
帰ってきた 正しい思考は、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中を整理し、今の状況を導き出す。
when 大厄の二月の日中
where 雨が降っている東京のカフェ
who 元也
what 私に告白
why 地雷を踏んだため
how 手を握りながら
result 某えんだーが流れた(物理)
要約すると、結婚を申し込まれてはいっぽい流れになったということだ。
今日も仕事が一つ消えた後片付けの帰り、雨が降っていて、傘を持っていなくて雨に濡れて入手した途端雨が止んで麻利絵だけが濡れているいつもの不運な一日になるはずだった。
なのに何で結婚なんて話になったのだろうか、と麻利絵は盛大に頭を捻りながら、最大の原因に疑問を呈した。
「結婚って人生の一大事の一つじゃなかったっけ……?」
「そうだね。だから麻利絵に申し込んだんだけど?」
だから何で私なんだ?と言う麻利絵の呟きには好きだからだね、と言う変わらぬ答え以外は返してこない。
麻利絵が解せぬという結論を隠さない表情をしていると、元也は握りっぱなしだった手を自分の方に引き寄せた。
「……それで」
「うん?」
「麻利絵が大厄の今年を隣で乗り切ったら結婚してくれるんだよね?」
どうやら話は終わった訳ではなかったらしく、麻利絵は一瞬機能を停止しかけた。
逃亡先を見つけたと言わんばかりに手が握られっぱなしだったことに気付き、声を上げる。
「元也、手を放して」
「結婚してくれるんだよね?」
答えにならない答えを返され、質問に答えないと手を放すという選択肢はないだろうなと悟った麻利絵は、先延ばしが出来そうな回答を用意した。
「大厄を乗り切ったら婚約位なら219パーミリアド位は考えるけど?」
「2.19パーセント位は考えてくれるんだね?」
頑張る、と気合いを入れた元也を見て失敗だったと感じた。
パーミリアドはパーセントの百分の一なので、少し与えすぎたかもしれない。
と言うか知っていたとは。ひっかけてぬか喜びさせようと思った麻利絵にとってはちょっと残念な結果だった。
なあんだ、と思っているとふっと手から熱が離れた。
「言質は取ったからな?」
元也はさっきまでと打って変わってにっこりと笑いながら麻利絵の頬を撫でる。
ただの上機嫌とは違う砂糖を煮詰めたような笑みと、不機嫌さの混ざらない心地のいい低い声。
今までとは明らかに違う接触。
……あれ?これは恋人たちがやるようなやつでは?
麻利絵は変に意識してしまい、その手を払い除けることを忘れてどういうことだと問い詰めようと口を開いた。
「……元、也……?」
だが麻利絵の口から零れた声は、明らかに動揺を伝えていた。
それを差異無く読み取った元也は、一度きょとりとした後、煮詰めた砂糖に甘いけれど絶対に溶けない何かが混ざったような笑みをこぼし、へぇ、と呟いた。
何がへぇなんだ? と麻利絵は何も考えず精神的に逃げようとして――足元の圧雪アイスバーンと化したはずの雪がざくりと音を立てたような気がした。