第一話
取り上げられて初めて産声をあげるのは人間だけではなく、野菜もそうだと、レイヤは思う。地に生えていたり木になっている時はまだ植物だ。それを収穫してようやく、植物だったものは、人間の食料という価値を得る。そこから先、どんな軌跡をたどるのか分からないところも人間と似ている。レイヤにも、今レイヤが持ち上げているキャベツにも、可能性があるのだ。
「いい色だな、美味しそう。水気がたっぷりで、ちぎってそのまま食べてもよし。調味料と合わせてもよし。スープに入れてもいいな。あぁー、ちょっと味見したい! きっといい味なんだろうなぁ」
レイヤは我が子を抱くようにしてキャベツを眺めた。じっくり隅々まで見回して、それから優しく荷車に載せた。畑の脇に置かれた荷車にはすでに山の如くキャベツたちがそびえ立っていて、今載せたのものが、収穫した最後の一つだった。
荷車を引いて、レイヤは畑から出た。がたがたと、二つの車輪が鳴る。地面がでこぼこしているため、畑の敷地から出るのに相当な体力を使うことになった。
畑からしばらく歩くと、石で舗装された大通りに出る。そこをまっすぐ行って、商店が立ち並ぶ繁華街を突っ切り、王都の中心にある王宮までこのキャベツを引いていく。成人男性二人分ほどの重量をたったひとりで引っ張っていくには長い距離だ。畑から王都の市街地まで、普通に歩けば三十分程度だが、荷車を引くと倍以上の時間がかかるだろう。
レイヤ・ワーカーは、王宮に収穫した野菜を納める契約農家だ。ここアイネシカ王国は毎年審査会を開いていて、優秀な者を奨励している。部門がいくつかあり、レイヤは昨年、農業の部門で奨励賞を獲得し、今年から王国と専属契約を結んだ。レイヤにとって契約農家は目標であったため、契約が決まった日は一日中嬉し泣きが止まらなかったほどだ。
そして今日は、王宮に初めて野菜を納める記念日。
通常は使いの人間が馬車を使って回収しにくるのだが、レイヤは今日に限ってそれを断った。初日は自分で王宮まで運びたかったのだ。それに、繁華街までは出荷で何度も行っているし、荷車も使い慣れている。そう言うと、王宮の人間はなんとか納得した。
「あらあらぁレイヤくん。今日もお仕事?」
繁華街までたどり着くと、恰幅のいい婦人が、猫なで声で話しかけてきた。彼女はレイヤの家の近所に住んでいる、ベラという婦人だ。夫は官吏を務めていて、そのせいか宝石のついたネックレスや指輪をじゃらじゃらと身につけている。
「はい、ベラおばさん。今日は初めて王宮に野菜を届けるんです」
レイヤは得意になって言った。嬉しさで緩みきった顔筋を動かして、へらりと笑う。
「まぁすごいじゃない。レイヤくん、契約とれたとき凄い喜んでたものねぇ。それにしても立派よね、レイヤくん。ウチの息子なんてもう五年も魔法学校に通ってるのよ。芽もでないのに。レイヤくんみたいに、しっかり堅実に頑張ってもらいたいわぁ」
「…………はぁ」
「もー、そんなに力なく笑わないの。レイヤくんカッコイイんだからぁ。そうそう、おばちゃんいっつも思うの。レイヤくん、第二王子のアナキュラス様に激似だなぁって! サラサラの金髪とか、大きくて青い目とか、シャープな輪郭もそっくりじゃない? 口の端がちょっとつり上がってるところも! あとは眉間にシワ寄せてきりっとすれば本人じゃないの!」
ベラという名前はベラベラとまくし立てて喋るところから来ているのかもしれないと、レイヤは思った。それから腕に痺れを感じた。荷車を支えて立ち止まるだけでも、かなり疲れるものだ。
「よく言われます。じゃあ、僕は仕事があるので」
「あらあら! ごめんなさいね、喋りすぎちゃったわね! じゃ、お仕事頑張ってねぇ」
ねっとりとした猫なで声で言うと、ベラ婦人は近くの服飾店に入っていった。その様子を見届けてから、レイヤはまた荷車を引いて歩き始めた。
王都の街は王宮を中心にして円状に広がっている。王宮からは東西南北に伸びる四つの大通りが通っていて、あとは無数の細い路地と住宅だ。つまり、この大通りをひたすら真っ直ぐ行けば王宮に着く。すでに王宮の門が、肉眼で視認できるくらいまで来ていた。
「契約農家のレイヤ・ワーカーです」
門前にたどりつき、鎧を着込んだ門番に言うと、レイヤの倍はある高さの門扉が音を立てて開いた。鉄が石畳を削る音だ。開ききると、門番の一人が「こっちだ」と先導した。レイヤはまた荷車を引いて後に続いた。本殿に続く道を左に逸れて、王宮の端にある倉庫の前までたどり着くと、門番が扉を昇降させる鎖を引いた。ゆっくりと倉庫の扉が上がっていく。中から冷気が漏れてきて、荷車を押してきたせいで火照ったレイヤの体を、少し冷やしてくれた。
「ご苦労だったな。あとは、ここに置いてくれればいい」
門番が倉庫の一番手前を指差した。レイヤはその通りに、荷車を倉庫内に入れた。その時、二人の兵士が倉庫の前に現れた。少し慌てているようで、小走りだった。
「おい、第二王子が逃げた! 探すのを手伝ってくれ」
「何? もう遠征に出発する時分だろ」
「あぁ、だから必死に探してんだよ」
「了解した。君、すまないが倉庫の扉を閉めておいてくれ」
門番はレイヤに言い残して、さっさと兵士に混ざって行ってしまった。レイヤとしても仕事は終わったので、まぁいいかとしか思わなかった。
荷車を下ろして、レイヤは倉庫を出た。鎖の留め具を外して、ゆっくりと扉をおろしていく。扉が下りきって一息つくと、突然レイヤの首に圧力がかかった。
「な……ぁっ」と呻きながら藻掻く。首にまとわりついている物を引き剥がそうと掴み、レイヤはそれが人の腕であることに気づいた。誰かが後ろから拘束しているのだ。幾ら体を揺らしても、この拘束は解けなかった。まるで木に縛り付けられた気分になった。
しかし、そろそろ呼吸も苦しくなってきたところで、あっさりと解放された。レイヤは激しく咳き込みながら、自分を苦しめた正体を見た。
それは、女性だった。
肩甲骨まで伸びた艶のある黒髪に、水晶の破片のように鋭く輝く目。右目が髪の毛に隠れているせいで、左目の輝きが強く見える。綺麗な顔立ちだが、睨むような表情は、目の前にあるもの全てを斬り伏せてしまいそうだ。腰のベルト部分に携えた長剣が、彼女は危険であると示していた。体型は細く華奢に見えるが、眼光から指先まで、刀剣のように洗練された鋭さがある。どうやら騎士のようだ。
「探しましたよ」
「え?」
「全く、あなたという人は、どうしてそう臆病なのですか! 遠征の、出発直前にいなくなるなんて! わざわざそんな庶民の格好をして! 泥までかぶって! この遠征にどんな意味があるのか、分からないわけではないでしょう?」
「いや、僕」
「いつまで芝居を続けるつもりですか! ほら、もっといつもどおり、意地が悪そうに眉をつり上げて! お召し物も用意しますから! とにかく急いでください!」
レイヤは女性の剣幕に押され、何も言えぬまま、本殿へと連れて行かれた。普段は目にしない鏡のように磨かれた床を踏みしめ、半裸の男女をかたどった彫刻たちを尻目に、ずんずん奥へと引っ張られていく。
「ソラ様、ようやく捕まりましたか!」
前方から駆け寄ってきたのは、門番を連れて行った兵士の二人だった。
「あぁ、やはりお前たちの勘は当たりだったよ」
「おかしいなーって思ったんですよね。雰囲気は違ったんですけど、顔が同じで。そっくりさんにしても似すぎだって」
「門番も言ってましたよ。考えてみたらおかしいって。契約農家が自分で野菜を運んでくるの」
「全く、別人を装えば誤魔化せるとでも思ったんですか? あぁ、お前たち、ありがとう。下がっていいぞ」
兵士二人は敬礼すると、揃って去っていった。
「さぁ、アナキュラス様、これに着替えて」
渡された鎧は藍色に金の装飾が施された特注品だった。レイヤが立ち尽くしていると、ソラが強引に着せた。
「さぁ、アナキュラス様、これを羽織って」
渡された皇族衣装は、白の生地に赤と青の宝石が装飾されたローブだった。また立ち尽くしていると、ソラが着せた。
そしてまた手を引かれ、馬車に乗せられ、街に出ると、国民たちの歓声が聞こえた。外はいつの間にかお祭り騒ぎだった。馬車が通る道が作られ、両脇には溢れんばかりの人間が蠢いている。
「手を振って下さい」
ソラに押されて窓から上半身を突き出し、言われるがまま手を振ると、完成がさらに大きくなった。
そのままレイヤを乗せた馬車は大通りを突き進み、王都を出る直前、一人の観衆が声を張り上げて言った。
「アナキュラス様! ドラゴン退治、頑張ってくださーい!」
その一言で、レイヤは我に帰った。
ドラゴン? 確かに王国の中部でドラゴンの目撃情報があったってニュースは見たけど……。
「遠征ってドラゴン退治だったの?」
ぽつりと、レイヤは呟いた。
同乗していたソラはすぐさま剣を握った。
「誰だ貴様」
左目が異様な光を放って、レイヤを捉えていた。こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれたソラの瞳は、レイヤの些細な挙動も見逃さんとしている。動いたら確実に首をはねられるだろうことが分かった。
七台の馬車は隊列を一列にして、王国中部を目指し続けていた。自然が生んだ凹凸で揺れる車内で、レイヤは未だに剣から手を離さないソラに対して事情を説明していた。その間、レイヤは口以外動かさなかった。
「なるほど。それで間違えられたまま、言うに言い出せず、ここまで来てしまったのか」
「ごべんなざい……」
「な、泣くな。殺しはしないよ。気づけなかったこちらにも落ち度がある」
構えを解きながら、ソラは号泣するレイヤに言った。口では冷静でいたが、ソラは唇を噛んだ。そうだ、驚くべきことに、気づけなかったのだ。ソラの目の前で泣きじゃくる男が、アナキュラス第二王子ではないということに。
それにしてもこの男、少し垂れた目は寝起きのアナキュラスにそっくりだと、ソラは改めて思った。少し眉をつり上げるだけで、彼はアナキュラスだと通用するだろう。そこだけの違いで、あとは同じ顔だ。
そんなことが有り得るのかと、ソラは驚愕していた。
「改めて、私はソラニア・ハンニブル。筆頭騎士だ。ソラでいい」
「あ……レイヤ・ワーカーでず」
「そうか。レイヤ、安心してくれ。これは完全に私のミスだ。君は次の休憩場所で、護衛用の馬車に乗せて王都に帰す」
「ありがとうございます……」
それから、微妙な沈黙が車内をつつむ。ソラは特に意味もなく、窓から外を眺めた。木が生い茂るだけのつまらない光景だった。だが初対面の男をまじまじと見るわけにもいかず、薄暗い木々の隙間に動物でもいないものかと思って、目を向けるしかなかった。
ふとソラは、本物のアナスキュラのことを思い出した。正面に座る涙目の青年はただ写身のように似ているだけで、肝心のアナスキュラは見つかっていないのだ。アナスキュラの脱走は初めてではなく、大抵は王都の街のどこかで遊んでいるのだが、ソラは急に心配になった。嫌な汗が出てきた。
その時、馬車の揺れが止まった。
「どうしたんだ? まだ休憩地点ではないはずだが」
外から男の絶叫が聞こえてくる。兵士の悲鳴だ。
これは明らかな異常事態だ。ソラは馬車から飛び出した。そして目にしたのは、首をもがれた三頭の馬と、四肢がちぎれた八人の兵士だった。
死体と血だまりの中に、人間が一人立っている。
「あれぇ、女の人だー」
ソラを見つけて嬉しそうに言うのは、まだ十歳ほどの少年だった。だが無邪気な笑顔と裏腹に全身が血濡れていて、ただの笑みでも狂気が混ざる。平然と血だまりにいるこの少年が惨劇を作り出したのは間違いなかった。
「あー、ぼく知ってる。お姉さん、筆頭騎士でしょー? よかったー」
連れてきた騎士たちは、いずれも精鋭たちだ。国の第二王子を守護するに十分な戦力を連れてきたつもりだった。それを簡単に殺した相手となると、子供であってもソラは警戒した。
「ソラ様、我々も加勢します!」
「すまない、助かるよ」
後ろ三台の馬車に乗っていた七人の兵士たちも駆けつけてきて、ソラは少し安堵した。
「ええー、こんな子供に卑怯だー。大人はずるいや」
「その大人を八人殺しておいて、よく言えたものだな」
ソラが長剣を抜刀しながら言うと、少年はまた笑顔を浮かべた。それからぶつぶつと何かを呟いた。
「しゃがめ!」
ソラは腰を深く落としながら叫んだが、時はすでに遅く、七人の兵士たち全員の上半身が吹き飛んだ。少年は一歩も動いていない。しかし不可視の斬撃を繰り出してきた。
魔法だ。この少年は魔法を使うのだ。
「やったぁ、王子さま見ーっけ」
ハッとして振り向くと、ソラが乗っていた馬車も半分吹き飛んでいた。王子の格好をして身をかがめているレイヤが露わになっている。ソラは馬車に駆け寄りレイヤを引っ張り出した。
「逃がさないよぉ」
少年がパチンと、指を弾いた。ソラは空気が揺れるのを感じた。その揺れた方向に剣を向けると、鋼同士がぶつかり合う鈍い音がした。また不可視の斬撃が迫っていたのだ。
「あぁ、お姉さんには通じないんだ、これ」
肩を落として分かりやすく落ち込む少年を尻目に、ソラはレイヤを引いて、森の中へ駆け込んだ。レイヤを守りつつあの少年に勝つことが想像できず、今は逃げることが得策に思えたからだ。
少年は一人その場に残された。
「うわー、めんどくさ」
女騎士と王子が消えた方向を眺めて呟く。そして唐突に、歌った。
『ねぇねぇミスターライトニング。この肉を食べて頂戴。そしたら私、光の速さで飛んでいけるわ』
それは魔法を発動するための呪文だった。詠唱の後、少年を光が丸く包む。光球の中から現れ出たのは、龍の頭を持つ、金の鎧を纏った男だった。その出で立ちに、少年どころか人間の面影もない。
龍頭の男は甲高く鳴いた。それから一点を見つめて、「あっちか」と言った。その声だけは、元の少年のものだった。
男は空高く跳躍した。大砲のような勢いで、逃がした二人を追い詰めに行った。