2-1.流れてきた人
2-1.流れてきた人
遠くの海からやってきた嵐は徐々に雨足を強くし、夜にはオドベヌス島全土を覆った。
風は右から左から横殴りに吹いてきて、雨も刺すように勢いよく降ってきた。海は大荒れで、海岸線がオドベヌス島の内側へと移動しているほどだ。
そんな海岸部から少し内陸に位置する森の中には、動物や獣人たちが多く存在している。しかし、いつもなら夕方から活動するヤマネコやフクロウなどの動物や獣人も、さすがに雨風のすさまじい嵐の夜にはそれぞれの棲み処で大人しくしているようだ。
夜でも外を歩き回るフーラも、イタチ族の動物や獣人が棲み処にしているほら穴の中で、今夜は大人しくしていた。
ほら穴の中にいても、外から聞こえる風の音で、どれだけ嵐がすさまじいのかが分かる。ほら穴近くの木々は、強い雨風を受けて、隣同士でぶつかるほど大きく揺れている。細かい石や木の枝が、ほら穴に勢いよくぶつかる音も聞こえるほどだ。
外から入ってくるすきま風は、ほら穴の中を冷やす。一応、ほら穴内には、麻で織られた布の他に、朽ちてしまった動物たちの毛皮でつぎはぎされた毛布なども沢山あるが、それでも湿気を含んだ風は冷たく、凍えるほどだ。
そんな夜はみんなで固まって暖をとるのが一番だと、イタチやミンクやカワウソなどの動物と獣人たち同士で寄り添い合って、同じ毛布の下で寒さをしのぐ。
そうして眠っているうちに、嵐はオドベヌス島から去っていく――――。
翌朝。
起きたら風の音も雨の音もしなくなっていたので、フーラはほら穴の外に出てみる。
昨日の夜には前に進めなくなりそうなほど吹いていた風も攻撃的に降っていた雨もすっかり止んで、外はすっきりさわやかに晴れ渡っていた。
木々の間から漏れる朝日はさんさんと降り注ぎ、葉っぱから葉っぱへと落ちるしずくをきらきらと照らしている。昨日の雨でたくさん揺らされた草木は、からだいっぱいに水を含み、生き生きとしている。フーラたちと同じように巣の中で大人しくしていたウグイスやスズメたちは、気持ちよさそうに歌っている。
そんなすがすがしい朝の森の新鮮な空気を全身で味わっていたら、ふとあることに気がついて、フーラはほら穴の中に戻る。
そしていつものようにかごを持って、海岸の方へと向かう。
「やあフーラ。朝から海の方に行くだなんて、相変わらずだね」
と、後ろから声をかけてくるのは巣穴から出てきたばかりのエンパッサー。
エンパッサーたちアマドリの巣は、フーラたちのほら穴近くの木の上にあるが、夕べの風でひやひやとだいぶ不安だったようで、少しげっそりしている。
「えぇ、だって昨日の嵐でまた色々と流されたに違いないもの」
しかしフーラはそんな相棒の疲れた様子を気にとめるでもなく、うきうきしながら軽い足取りで海岸の方へ向かった。
昨日の嵐でオドベヌス島の内側へとだいぶ食い込んでいた海岸線は、すっかり元の位置まで下がっているが、フーラの予想通り、潮が引くときに浜辺に置き去りにしていったものがいくつか転がっていた。
いつものようにフーラは嬉々としてそれを拾いに行く。エンパッサーはいつものようにそんなフーラを呆れた様子で眺めながら辺りを見渡す。
そこまではいつもと同じ光景。
しかし、いつもとは異なる光景にエンパッサーは目を見張る。
「ねぇ、フーラ。向こうの方になんだか大きいものが見えるよ」
エンパッサーは足下の漂着物に夢中になっていたフーラに声をかける。
その声に、フーラもエンパッサーと同じ方向に目を向ける。
そして目を大きく丸くした。
視界の先にあったものは、いつものように自分の手に収まるサイズのものではなく、大きな大きな漂着物。
フーラの何倍もあるのではないかというほどの大きさの、白い三角の物体。
思わずフーラは近くまで寄って、まじまじとそれを観察する。
砂浜に乗り上げた白色のカゴは、フーラも乗れるほどの大きさで、陸側に向かってとんがった形をしている。そのカゴの後ろの方には、茶色の棒がまっすぐに空に向かって伸びていて、白い三角の布がその棒の根本からめいっぱいに広がっている。
「何かしらこれ。とてもすてきだわ」
初めて見るものに、フーラはじわじわと胸が高まってくる。
きっとこれも大陸から流れ着いたものだとどきどきが収まらないフーラは、思わずそのカゴの上に飛び乗る。
勢い余って飛び乗ったせいか、その大きな物体は少し左右に揺れる。
そしてフーラはぺたぺたとその中のあちこちを触ってみる。
カゴも棒も布も、今まで触れてきたものとは違う感触で、つるつるしている。そんな初めての感触に、フーラの興奮は増すばかりだ。
「フーラ、すっかり気に入ったようだね」
と、この白い物体の第一発見者のエンパッサーは、棒の上に止まってはしゃぐフーラを見下ろしている。その視線の先で、フーラは楽しそうにカゴを左右に揺らしている。あんまり勢いよくフーラが揺らすものだから、寝不足気味のエンパッサーはそれで少し気持ち悪くなる。
フーラはすっかり興奮状態だし、エンパッサーは不調であったから、いつもは冴えている勘も、すっかり鈍くなってしまっていた。
だから別の気配に気づくのに、遅れてしまった。
最初に気づいたのは、やはりエンパッサー。
エンパッサーは陸地の茂みの方に目を向ける。
「ねぇ、フーラ。あれ……」
先ほどと同じように、エンパッサーは目先のことに夢中になっているフーラの肩に飛び乗って耳打ちをする。
それで我に返ったフーラも、エンパッサーと同じように陸地の茂みの方に視線を向ける。
そこにいたのはこっちを見て突っ立っている、人の姿。
短く刈られた淡い乳白色にも見える金髪に、すらーっと伸びた体躯。
ルタや他の獣人のオスと同じように、たくましい背格好をしているのが遠くからでも分かるが、どんな顔をしているのかまではさすがに分からない。しかし、明らかにルタたちとは違うのは、頭から耳が飛び出ていないところだ。それだけなら一見サル獣人にも見えなくないが、下半身にはいているズボンからしっぽも垂れ下がっていない。
フーラが初めて出会う種族だった。
その人はフーラと目が合ったことに気がつくと、一歩ずつこちらに向かって歩いてきた。
フーラはどうしてよいか分からず、その場で動けずにいる。エンパッサーは肩の上であわあわと声を上げている。
まだ何十歩も離れた先にいるというのに、まっすぐに合わさった視線は、何故か逸らすことができない。
蛇に睨まれた蛙というのだろうか。
いや、この場合は違う気がする。
何かの力に引き寄せられるように、視線が吸い込まれる。
一歩、また一歩と距離が縮まるごとに、何とも言えない緊張感が増してくる。
それと同時にその人の顔もだんだんはっきりと見えてくる。
短く刈られた髪は鳥の巣のような形をしていて、まだグルーミングをしていないのか、毛先があちこちにはねている。前髪は顔の左側から右側へと少し長くなっている。
その淡い金髪の下で、形のいい眉とどんぐり型の目が、少し焼けた色白の肌にアクセントを与えている。獣人たちの多くは黒とか灰色とか茶色とかの目の色をしているのに、その人の目の色はオドベヌス島の周りを囲む海のように、碧く透き通っている。
鼻は高く、すーっと通っていて、獣人たちの中でもかっこいい鼻を持つオオカミ獣人よりもきれいな形をしている。
今まで見たこともない種族の人。
どの獣人とも類似しない顔立ちの人。
そう思うと、心のどこかでどきどきと音を立て始める。
そうして、あと一歩の距離までその人はやってきた。
その人は珍しいものを見るように、どんぐり型の瞳を丸くしている。
フーラも何と声をかけたらよいのか分からず、その瞳を見つめ返す。
お互い何も喋らず、じっと見つめ合ったまま。
聞こえるのは波の音と遠くで鳴くカモメの声だけ。
だけどそれですらフーラには遠くのことのように思えた。
まるでそこだけ時間が止まったかのようにゆっくりで、そこだけ世界から切り取られたかのようにとても静かだった。