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さよなら、かわいい夢

作者:


 長い睫毛の下の、色素の薄い瞳ばかり見ていた。

「石とか日なたに置いておくでしょ? そうするとすぐに暖まって、触れないくらい熱くなるよね」

 彼の長い指が、つるつるとしたきれいな石を一つ持ち上げ、わたしに手渡す。小学生のわたしはそれを受け取り、ぎゅっと握る。夏の日差しに照らされていた石は火傷しそうに熱いけれど、わたしは彼から受け取ったそれを離したくないと、強く、思う。

「やってみれば分かるんだけど、バケツに水を汲んで、同じように置いておいても、お風呂みたいに熱くはならないよね? つまり、石っていうか陸は暖まりやすく冷えにくくて、水、つまり海は暖まりにくく冷めにくい……」

 わかるかな、とわたしの瞳を覗き込む彼の視線が、私の目玉を通って喉の奥を突き抜け、心臓に深く刺さる。

 もう十年も経った今でも、彼の視線の針は私の心臓に刺さったまま、抜けない。



 この町に来るのは、大樹くんの、お葬式以来だから、八年、ぶりだ。

 一歩歩くごとに思考が寸断される。住んでいたときには気がつかなかったが、ここは坂の多い町だ。

 私は坂の途中で立ち止まって汗をぬぐった。化粧が崩れていないか心配になる。五センチのヒールだと、この坂を上るのは結構きつい。私はふくらはぎをさすり、また歩き出した。

 バス停から小学校のフェンスに沿って坂を上り、郵便局の角を曲がって、四軒目に私が住んでいた家はある。バス停のそばで買ったアイスがもう溶けかけているのが分かって、私は嫌がる足を無理に速めた。小学校の校庭では坊主頭の少年たちがボールを追いかけている。ときどき、キン、と高い音が響く。「オーライオーラァーイ……」という声が遠く聞こえた。

 この町には小学四年生まで住んでいた。十年前になる。両親の離婚で、私は母について祖父母の住む東京に引っ越し、父は昔からの家があるここに残った。父は律儀にも毎年二回会いに来るのだが、父は先月の末に足を骨折していつもの時期に来られなかった。「お盆で墓掃除やら何やらしなけりゃいかんが、この脚だと辛い。お盆の時期だけ帰って来ないか」という電話がかかってきたのは一週間前のことだ。

 どうにか坂を上り終え、もういちど汗をぬぐってから、父の家に向かって歩き出す。近所の人の姿が見えないのはありがたかった。田舎のこと、私の顔は覚えられているかもしれない。久しぶりだとか垢抜けただとか大人っぽくなっただとか、午前中の強すぎる陽射しの中で色々言われるのは面倒だった。アイスも溶ける。

 父の家の前に立ち、入る前にふと隣の家を見る。お隣の門には、いまだに「工藤貴樹 明里 大樹 幸樹」と書かれていた。大樹くんの名前が消されていないのはわざとなのだろうか、それとも面倒だからだろうか。門と道路の間には雑草がぐいぐいと伸びている。門の中、庭は綺麗なのだが。父の家の門に目を戻すと、雑草はきちんと抜かれていた。父のこういう几帳面なところと、工藤さんの微妙にツメの甘いところは変わりないようだ。というより、八年ぶりのはずのこの町は、あまりにも変わっていないように思えた。変わったのはきっと私くらいだ。大学生になった。赤い口紅を引くようになった。携帯が手放せなくなった。生足を出すのに躊躇して、レギンスやストッキングをはくようになった。

 私は頭を振って考えるのをやめ、門を開けて庭を抜け、父の家の扉を開けた。



 私の家と工藤さんの家は隣同士仲が良く、特に母親同士の仲が良かった。二人が話している間、よく私と大樹くんと、大樹くんの弟の幸樹くんとで遊んでいたものだ。中学生からしたら「遊んでやっている」という感じだっただろうが、大樹くんは嫌な顔ひとつせず、色々な話をしてくれた。

 あっちこっち飛び回る幸樹くんをあやしながら、地面に絵を描いたり、ごっこ遊びに付き合ってもらったりした。時には親とともに川にも遊びに行った。夏休みには特によく遊んでもらったし、学校帰りに一緒になると必ずお互いに声をかけた。

 れんげという名前が嫌いなのだ、と私は初めて彼に打ち明けた。それまで誰にも言ったことがなかった。比較的珍しい名前だし、ひらがなで、しかも濁音が入るのも嫌だった。同じ花の名前なら、さくらとか、すみれとかにすればよかったのに、どうして父親があんな地味な花の名前をつけたのかさっぱりわからなかった。あだながつけづらいのも問題だった。クラスメイト達はふつう、名前の最初の二文字をとって呼ばれていた。智夏ちゃんなら「ちな」、美穂子ちゃんなら「みほ」と言った具合だ。「れん」ではなんだか呼びづらいし、男の子みたいだ。ラーメンのスープを飲むためのスプーンがれんげというのだとクラスの男子が知って、からかわれたこともある。不満はいくらでもあった。

 私がそう言うと、彼はごく柔らかく微笑んで、「いい名前だと思うけどな。れんげ草、俺は好きだよ」と言った。続けて、「田んぼいっぱいにれんげが咲いてると、春だな、って思う。綺麗な名前だよ」とも。そして私の頭を二回ぽんぽんと撫でた。

 初恋だった。



 日が暮れてきた頃、父と一緒に、家からさらに坂を上った先にある墓地を目指した。普段ならせいぜい十分ほどだが、この暑さの中、松葉杖の父と一緒だと、十五分ほどかかる。

 この町は一応のところ横浜市だが、「横浜」と言って県外の人が一般にイメージするらしい町――みなとみらいだとか桜木町だとか新横浜だとか――とはだいぶ離れている。内陸だし、都会でもない。最寄り駅からは徒歩で四十分。坂と坂の間を拓いて田んぼと畑を敷き詰め、余った坂に家を立てた、という感じの田舎町だ。

「お前、工藤さんの家には顔を出したのか」

 墓地についたとたん、父が突然聞いた。「え。出してないけど」と返すと、「ちゃんと行け」と短く言い、足早にうちの墓へ歩いて行ってしまう。松葉杖の癖に、平地になると速い。私は入り口でお線香を買い、バケツと水と柄杓を借りた。ヒールで来たのは絶対に失敗だったな、と思いながら後を追う。足が痛い。

 大樹くんも、多分、この墓の群れのどこかにいるはずだ。

 父は先にお墓に手を合わせ、持ってきた箒で敷地に落ちた葉っぱを端に寄せていた。左手に松葉杖、右手に箒で、一歩移動するごとによろめくものだから見ていられない。私は父から箒を取って代わりに掃いた。からかうように「おお、親孝行するようになって」と言ったので、骨折していない方の足を掃いてやる。

「どかないとゴミごと捨てるけど」

「お前、弘美さんに似てきたなあ」

「どこが?」

「眉毛がキツいあたりとか」

「私、これ、描いてるんだけど」

 馬鹿な言いあいをしながら、掃き掃除を終えてお墓に水を掛ける。石の色がぐっと濃くなり、なんとなく涼しくなったような気がした。お線香を供えて手を合わせる。

 昔、ここに住んでいたころ、私はこの墓地が嫌いだった。いや、墓地が好きな子供はそうそういないだろうが。単純に住宅街の中に大量の骨があると思うと気持ち悪かったし、お盆にコンクリートと石で覆われたここに来るのはあまりにも暑かった。父は私を抱きあげて無理にでも連れて行き、必ずお線香を供えさせた。「れんげもいつかここに入るのだから、嫌がってはいけない」というのが父の言い分だった。嫁には行かせないつもりだったのだろうか。おそらく私はこの墓には入らないだろうが、それでもあの日の父の言葉は衝撃的で、今でもいつかここに入るような気がしている。

 また十五分をかけて家まで帰る。思ったよりも時間がかかってしまったせいで、長い夏の日もすっかり沈んでいた。暗がりで父が転ばないかはらはらする。

 私は父の指示に従ってなすときゅうりを準備し、おがらで迎え火をたいた。お盆の記憶などもうほとんど薄れてしまって、細かいところは全然思い出せない。なすが牛できゅうりが馬で……というくらいしか覚えていない、と言うと、父は「都会っ子め」と笑って、おがらから出る煙を眺めた。

 お隣は静かで、煙が見えるどころか人の声も聞こえてこない。私も同じように煙を見上げ、首筋を掻いた。数えると、全身で十一ヶ所、蚊に刺されていた。田舎め、と私が言うと、父は楽しそうに笑った。



 今思い出してみるに、私は大樹くんの大人っぽいところが好きだったのだと思う。

 大樹くんは私の四つ上だから、あたりまえのことだが、身の回りの同級生より体が大きかった。手が大きく、声変わりも終わり、もうすっかり大人と言っていいように思えた。

 大人とも対等に話した。母とおばさんがなにかニュースについて議論しているとすっと入っていったり、質問をしたりしていた。母や父に対しても敬語は使わず、同い年であるかのように気楽に話した。それが無礼には見えなかったのは、本人が大人っぽかったからだろう。

 お隣へ遊びに行くと、大樹くんが一人で雑誌をめくっていたこともあった。私が後ろからそっと近付いて「わあ」とおどかすと、大樹くんは雑誌をばたんっと大きな音を立てて閉じた。振り返って、「なんだ、れんげちゃんか」と苦笑のような表情を浮かべると、雑誌をすっと横にどけた。表紙の白いワンピースの女性が見えた。赤く塗られた唇。大樹くんはこういうのが好きなのかな、と何となく印象に残った。漫画以外の雑誌を読んでいるのは、身の周りで大樹くんだけだった。

 彼は雑誌の代わりに、縁側に置いてあった理科の教科書を手に取ると、「いい加減夏休みの宿題もやらなきゃなあ」と言った。覗きこんだ中学校の教科書は、とてつもなく難しく、魅力的に見えた。私がしつこく教科書に書いてあることを教えてほしいとねだると、彼は海風と陸風の話をしてくれた。中学に入ってその範囲をやったときは、陸は暖まりやすく冷えにくくて、海は暖まりにくく冷めにくい、と教科書が大樹くんの声で再生されて、胸が苦しくなったのを覚えている。上昇気流、という言葉すら大人っぽく聞こえたものだ。あの時貰った石はどこにやってしまっただろう。

 大樹くんが亡くなったときのことは、なにがなんだかわからずにずっと泣いていた気がする。引っ越したあとも私は大樹くんのことが好きだったし、他に好きな人などつくるまい、という気持ちがずっと心の奥にあった。そのせいか単にモテないのか、二十歳を過ぎた今も彼氏いない歴イコール年齢だ。事情を知る数少ない友人には、もう早く吹っ切れてどうにかして彼氏を作れ、と言われている。

「思い出は裏切らない」と友人は言った。「あんたはテレビの中のアイドルにあこがれて彼氏作らない奴らと一緒だよ。アイドルが『女の子は黒髪ストレートが好き』って言ったとたんに髪黒くする奴らがいるだろ、付き合えるわけでもないのに。あんたはアレと一緒。うっとおしいったら」と。

 そうなんだろうか。私は考えながら、赤い口紅が塗られた唇に触れる。私は大樹くんのことがあったから、彼氏がいないのだろうか。いくらなんでも思い出すたび涙が止まらなくなる、という段階は通り過ぎたものの、たしかに、完全に吹っ切れてはいないのかもしれない。

 それにしても、「だろうか」だの「かもしれない」だの、自分のことなのに、いい加減なことだ。あの友人が聞いたらきっと怒るだろう。頭の中で、友人が私の後頭部をごんごん殴ってきた。



 迎え火を終えた次の朝、燃えかすを片付けたあと、勇気をだして隣の家の門の前に立った。インターホンの上を指がさまよって、押さないまま手を下ろしてしまう。

 門のそばに、きゅうりの馬となすの牛が置いてあるが、蹴飛ばされたのか転がっている。私がここに住んでいたときは、工藤さんの家は特にお盆はきちんとやる家ではなかったはずだ。ひょっとしたら、大樹くんが亡くなったあとに始めたのかもしれない。私はしゃがんできゅうりの馬を立てなおした。

 私が立ち上がろうとした瞬間、工藤さんの家のドアが開いて男の子が出てきた。

 心臓が、ごとっと音を立てて飛び跳ねた。

 おそらく中学生か高校生だろう。うっすらと日に焼けた首、大きな手、やや茶色がかった短い髪、穏やかに下がった目尻。

 色素の薄い瞳が、私の姿をとらえた。

「大樹、く……」

 声に出しかかった瞬間、少年はぎゅっと眉を寄せて首をかしげた。私は我に返って、よく少年の顔を見た。似ているが、口が大きく、童顔だった大樹くんよりいくらか男らしい。弟の幸樹くんだ、と気がつくのに少し時間がかかった。最後に会ったときは多分八歳か九歳だったはずだ。十二歳の私が二十歳になっているのだから成長しているのは当たり前なのに、彼が成長しているという事実は、とてつもなく不自然に思えた。

「どなたですか?」

 声はそっくりだ。私は慌てて「あ、どうも……あの、隣の……」としどろもどろになりながら頭を下げた。

「隣? おじさんだけじゃないの?」

「あ、娘の。里帰りで……」

「れんげちゃん? れんげちゃんじゃない?」

 顔を上げると、おばさんが家から出てくるところだった。記憶より幾分痩せ、しわも増えていたが、細くいつも笑っているような目はそのままだ。

「お久しぶりです」

「まあ、まあ、大きくなったわねえ! お母さんはお元気?」

「ええ、元気です」

「幸樹、あなた覚えてない? あなたが六歳か七歳くらいまでお隣に住んでたれんげちゃん、よく遊んでもらってたのに」

「覚えてねえよ、小一のときなんて」

 幸樹くんの言葉を無視して、おばさんは私の手を取った。

「久しぶりねえ、大樹が亡くなった時以来だから、八年くらい……ねえ、大樹にお線香上げていって」

「はい、ぜひ」

 大樹が亡くなった時以来、と私は口の中で繰り返した。いぶかしげに私を見ていた幸樹くんと目があってしまい、お互い気まずく目をそらした。



 お仏壇にお線香をあげ、目を閉じて手をあわせてから、私は遺影をじっと見た。学ラン姿の大樹くんが照れくさそうに笑っている。私の記憶よりも、すこし大人っぽい。高校入学のときに撮ったものだ、とおばさんが言った。

「もうねえ、気がついたられんげちゃんももう二十歳だものねえ……大学生なの?」

「はい。経済学部です」

 おばさんは感心したように二度頷いて、私にもう一度お茶を勧めた。冷たい緑茶がグラスの器に入って涼しげだ。ありがとうございます、と言ってから口をつける。

「本当、大樹と仲良くしてもらって……」

「いや、逆ですよ、いつも遊んでもらって……それなのにご無沙汰してしまって」

 なんだか大人みたいなことを言っている、とおかしくなった。おばさんに対しては、いつまでも子供と大人の関係のような気がしていた。なんとなく視線を合わせられずに、とても食べ切れない量のお菓子が盛られたおぼんを見つめる。

「ねえ、よければ大樹の遺品をなにか貰っていただけない? 多少は残っているから……」

「遺品……ですか」

「本当は前から何か差し上げたかったんだけど、お葬式のときはばたばたしていたから」

「やめろよ、そんなもん貰っても渡辺さん困るだけだよ」

 幸樹くんが口をはさむが、おばさんは何も気にせずに「ねえ、見るだけでも」とくいさがる。私が曖昧に頷くと、おばさんは嬉しそうに二階に上がっていった。

「嫌なら嫌って言えばいいのに」

 幸樹くんは私の向かいに腰を下ろすと、出してあったおせんべいを一つ手に取った。包装を開けるまえにばりばりと砕き、欠片をひとつずつ丁寧に食べている。

 本当によく似ている。多分、大樹くんが亡くなったときと同じ年齢のはずだ。声など本当にそっくりで、聞くたびに心臓が跳ね上がる。年上に敬語を使わないのまで似たのだろうか。しかし、いざ自分が年上になってみると、生意気なものだ。

「俺のこと覚えてる? 俺はほとんど覚えてないんだけど」

「覚えてるよ」

 四つ年下というのは、どれくらいの距離感でしゃべればいいのだろう。二人称に迷ったあげく、「君はまだ六歳だったし、覚えてなくてもしょうがないかな」と言ってみた。

「きみ」

 怪訝そうに繰り返されてしまった。顔が熱い。聞こえなかったふりをして、「よく遊んだんだけど」と付け足した。幸樹くんは答えなかった。

 おばさんが大きな紙袋を一つ抱えて降りてきた。「もうほとんど処分したり、大樹の友達にあげたりしてしまったんだけど」と言いながら、菓子盆をどけて紙袋をテーブルに下ろした。のぞきこむと、ノートや漫画、なにかの缶やヘッドホン、洋服、タオル、キーホルダーなど、十代の男の子の部屋にありそうなものがいっぱいいっぱいに入っていた。CDや漫画を見せてもらう。有名な男性シンガーソングライターのものが多い。ゆっくり見ていいからね、と言い残して、おばさんは台所に去って行った。

 幸樹くんはなぜか私の手元をじっと見つめながら、お菓子を食べ続けている。居心地悪く、ちらちらと幸樹くんの様子を窺いながら、紙袋に入っていた漫画をひっぱりだした。知らないタイトルだ。ぱらぱらとめくってみるとどうやらギャグ漫画らしい。バトル物だとか、いかにも少年漫画らしいものを読んでいるイメージだったので少し意外だった。

 私がふと顔をあげると、幸樹くんは私の手元から私の顔に視線を移していた。まともに目が合う。戸惑っていると、幸樹くんは突然「あ」と声を上げて、紙袋の中から封筒を出した。

「思い出したかも。俺、渡辺さんちと一緒に川にいかなかった?」

「え、うん。行ったことあるね」

 幸樹くんは封筒の中から写真の束を出して繰り始めた。覗きこむと、工藤さんの家の家族写真がほとんどだった。旅行先、運動会、入学式。幸樹くんは手を止めて、「あった」と一枚の写真を差し出した。

「これ? じゃない?」

 河原で、十四歳の大樹くんと十歳の私が笑っていた。六歳の幸樹くんは大樹くんに抱えられ、よそを向いている。私は棒立ちでピースをしている。赤いワンピースが懐かしい。

「あ、そうそう、これ。よく覚えてたね」

「いや、河原に行ったのは覚えてないけど、この写真は覚えてたから。化粧と年でわかんなかったな」

 写真を手にとってじっくり眺める。大樹くんは年の離れた弟をよく可愛がっていた。ずっと弟か妹が欲しかったのだ、と言っていたのを思い出す。

「……大樹くんのこと、どれくらい覚えてる? 亡くなったときのこと、とか……」

 言ってしまってから、無神経な質問だっただろうかと不安になる。幸樹くんは特に気にする様子もなく、写真の束を置いて首をかしげた。

「まあ、八歳だったし、あんまりよく意味がわかってなかったっていうか……二度と会えないのは雰囲気でわかったし、泣きまくってたけど。でも兄貴がどういう人だったかとか、そういうのになると、あんまり……なんていうか」

 なんていうか、なんていうか、と繰り返したあと、唸り声を上げて写真に視線を落とした。今の幸樹くんにそっくりな大樹くんが、どの写真も、どの写真も、笑っている。

「色んな人が、俺のこと兄貴にそっくりだそっくりだって言うし、写真見ても確かに似てるし、なんか、兄貴のことよく知ってるみたいな気になる」

「……そっか」

 この写真はあとでコピーでも取らせてもらおう。私は写真を置き、紙袋からまた出したノートに視線を落とした。ひとつひとつが小さく縦長で詰まっていて、読みづらい字だ。少しの沈黙の後、幸樹くんが言った。

「……なあ、兄貴の遺品、もうちょっと見る? 俺、個人的に貰っといたやつがあるんだ」



 幸樹くんがなぜか少しにやにやしながら持ってきたのは数冊の雑誌だった。「他にもあるんだけど、よく読んでたっぽい奴」と言って私の目の前に積み上げる。

 私は山を崩して、何冊か見比べた。どの表紙も、整った顔の女性がカメラ目線で微笑んでいる。私はその中に、赤い唇の女性を見つけて、あ、と小さく声を上げた。

 あの時、ちらっと見た物だ。白いワンピースの女性がクールにこちらを見ている。真っ赤な口紅が印象的だ。今の流行よりチークが濃く睫毛が少ない。金色のピアスをつけて胸元の開いた服を着たその女性は、昔見たときより、なんというか、下品に見えた。これを私に見られたときの、大樹くんの苦笑が思い出された。

「俺、兄貴の年に追いついたから、兄貴どんな顔してこんなの見てたのかなあって思ったりするよ」

 私は何気なく表紙をめくり、手を止めた。最初のページはグラビアで、水着姿の女性が笑っていた。茶色のビキニ。腰に巻いた長い布から、太ももがちらりと見えている。大きな乳房はしみひとつなく白く、濡れた髪が張り付いてむやみに色っぽい。私は動揺を隠してページをめくった。男の子なんだから、グラビアのある雑誌くらい買うだろう。そう思っても、あの日の大樹くんの苦笑が頭から離れなかった。

 男の子向けの雑誌を見るのは初めてだったが、大体予想通りの雰囲気だった。女優やアイドルのインタビューやファッションに関する記事、それに漫画が並んでいる。十年くらい経っても、十代の男の子が求めるものは変わっていないのだろう。

 私はあまり記事を読まずに、見出しや写真を見ながらぺらぺらとめくっていった。大樹くんはこれをどんな風に読んでいたのかな、と考える。考えながらめくって、あるページで手が凍りついた。

『大学生500人アンケート! 初デート・初キス・初体験の失敗談』

 あ、と幸樹くんが小さく声を漏らすのが聞こえた。「ジョセイが読むのはちょっときわどい記事もあるかも」と言ってくるが、私は構わず本文に目を通した。

『初デートで延々どうホテルに誘うか考えて上の空……結局そんな展開にはならずフラれました(10代・男性)』

『舞い上がりすぎてゴムがないことに直前で気付く(笑)彼女に怒られ、俺はもうギリギリなのに叩きだされてコンビニまで買いに走った。帰ってくる頃には萎えてた(10代・男性)』

『彼女の家に泊まったあと、彼女と自分と友人二人で遊びにいったら、首筋のキスマークを指摘され赤面(20代・男性)』

 私は息を吸って、吐いた。あんたもうどうにかして彼氏つくりなよ、と言った友人の声が脳裏に響いた。友人の彼氏の顔がちらつく。

 顔を上げると、大樹くんにそっくりな顔が、照れたような笑いを浮かべた。

「いや、ほら、兄貴だってさ」

 大樹くんの顔がそれ以上何か言う前に、私は立ち上がって部屋を出た。声が追いかけてくるが聞かなかった。私はおばさんに「お邪魔しました!」とだけ言って玄関から出ると、家とは反対方向に走り出した。



 青々とした田んぼの間を、帽子がないことを後悔しながらゆっくり歩く。風が吹くと稲のにおいが抜けて気持ちがいい。休耕田には雑草が生い茂っている。春になるとここに大量のれんげ草が咲くのだ。

 田んぼを抜けて、少し歩くと川に出る。幅が五メートルほどの、細い川だ。地面よりも二メートルばかり下を流れていて、道と土手はフェンスで区切られている。今まで気にしたことがなかったが、まっすぐだし、人工の川なのかもしれない。車で十五分ほどのところにもう少し大きな川があるから、多分そこから水が来ているのだろう。両親と工藤さん一家と一度行った、あの川だ。

 大樹くん、と思っただけで、肺が押しつぶされるような気がした。私が思い描いてきたのは何だったのだろう。思い出は裏切らないなんて嘘だ。思い出は美化され、加工され、自分の都合のいいように形を変える。そして現実の過去を見た時、ガラスケースに入れて飾っておいたはずの思い出が作り物だったことを知る。

 田んぼの方から幸樹くんがくるのが見えた。私に気づいて小走りでやってくる。少し離れた所から、ふざけたように姿勢を正して、「謝れって言われてきましたぁ」と言う。

 私は答えずに、川に石をひとつ投げ込んだ。ぽちゃんと小さな音がしたのが聞こえる。幸樹くんは構わずに「何がよくなかった?」と近寄ってくる。私が逃げるように川に沿って歩き出すと、そのままついてきた。相手の方が足が速いだろうし、逃げようがない。

「何に怒ってんのか言ってくれないと分かんないんですけど。渡辺さーん?」

「ねえ」

 ふと思いついて、足を止めてみる。

「海風と陸風について説明してみて」

「は?」

「中学の理科で習わなかった? 昼と夜で風向きが変わる話」

「やった……かも」

 えーと、と考え込む幸樹くんを置いて、またゆっくり歩き始める。振り返ると、幸樹くんは足元の小石をいくつか拾い上げていた。

「日なたに置いておいた石は熱くなるけど、水を日なたに置いておいてもぬるくなるだけでお湯みたいに熱くはならないだろ?」

 私は幸樹くんに背を向けて、目を伏せた。懐かしい声が響く。

「で、夜になると石は結構すぐ冷えるけど、お風呂のお湯は朝でもぬるいじゃん? つまり地面は暖まりやすく冷めやすく、海は暖まりにくく冷えにくいから……何、これ何の意味あるの?」

「いいから」

「……ってことは昼は地面の方が海より温度が高いから、空気が暖まって上昇気流ができて、海から風が流れ込んでくる。夜はその逆。こんな感じ?」

「それさ、結構簡単だよね?」

「なんだよ、一生懸命説明したのに」

「中学生くらいなら別に普通に説明できるよね」

「できるんじゃない?」

「別に頭よくないんだ」

「は?」

 私は橋のところで立ち止まって、顔を覆った。「え、嘘、泣いてんの」と幸樹くんが慌てた声を上げた。

 あのころ、中学生は大人だと思っていた。私の知らないことを知っていて、頭がよくて、何でもできて、大人と対等に話せるのがすごいと思っていた。

 大樹くんの年齢を追い越した今、大樹くんとそっくりな幸樹くんは、生意気で子供に見えた。敬語も使えない、とくに頭もよくない、雑誌のエロい記事に興味のあるただの子供だ。見上げていたものを、私はもう、見下ろす立場にいた。

 成長してしまった私は、もう二度と、あのころの気持ちを本当の意味で取り戻すことはできないだろう。大樹くんを好きだった気持ちも、大樹くんが亡くなったときの気持ちも、薄れ、弱まっていく。忘れたくない。

「泣くなよ、大人なんだから」

「……大人にならなきゃよかった」

「はあ?」

「私が十歳で、大樹くんが十四歳で、きみが六歳で、ずっと、一生……」

 手の甲で唇を力を込めて拭った。赤い口紅が取れて滲む。

「勘弁してよ。俺、早く携帯欲しいんだよ」

 顔を上げると幸樹くんが困ったように笑っていた。

「……持ってないの?」

「十六歳になってからだって」

「不便じゃない?」

「超不便」

 私は少し笑って、立ち上がった。それから自分の両手に余るほどの大きな石をつかむと、川に投げ入れた。青空が映っていた水面が割れて、どぼんというおおきな音がした。幸樹くんが「うわ」と小さく声を上げたのが聞こえた。

「ねえ、私、君のお兄さんが好きだったんだよ」

「そうだろうと思ったよ」

 幸樹くんは簡単に答えた。稲の青い匂いが、風に乗って流れてきた。



 送り火をした翌朝、洗面所で念入りに日焼け止めを塗っていると、父が顔を出して「かぼちゃいらない? あとジュースは? 水羊羹は?」と次々聞いてきた。どうして親というのは里帰りした子供に色々持たせたがるのだろう。「重たいから水羊羹だけでいいよ」と言ってビューラーを掛けていると、父は水羊羹とかぼちゃが入った紙袋を置いて洗面所から出ていった。重いと言うのに。

 化粧を終えてリビングに戻ると、父はまた別のお菓子やらカルピスやらを並べていた。

「持っていきなって」

「だから重いって」

 交渉の末、かぼちゃの代わりにカルピスとそうめんをもらった。それにしても十分重い。文句を言いながらそれらを紙袋に詰める私の顔を、父はじっと見つめた。

「口紅変えた?」

 私は思わず口元に手をやった。試供品で貰ったものがたまたまポーチに入っていたので、今日はピンクベージュにしてみたのだ。

「似合わない?」

「いや。大人っぽく見える。うん」

 私は「大人って、それおばさんぽいってこと?」と笑いながら、大人について考える。二十歳はもっと大人だと思っていた。中学生は大人だと思っていたし、高校生を超えて大学生など、もう立派に自立しているのだと思っていた。

 私は知らないうちに進んでいる。いつのまにか、ずっとずっと前の方へ。気がつかないうちに「中学生=子供」と思うようになり、小学生のころどんな気持ちだったのか正確に思い出すのは難しい。きっと、気がついたら大学生は子供だ、と思っているだろう。今の気持ちだってどんどん薄れて行くだろう。

 私はふと思いついて、聞いてみた。

「お父さん。どうしてお母さんと離婚したの」

「なんだ、いきなり」

「なんとなく」

 父はしばらく黙っていた。視線が私の足のあたりを彷徨い、部屋の端に移動し、柱を経由して天井まで上がっていった。私はもちろん、離婚の原因は母の浮気なのを知っていた。知っていたが、この温厚で律儀で優しい父が、浮気程度で――いや、「程度」という言い方はどうかと思うが――母を追い出すとは思えなかった。母が浮気相手と再婚しようと家を出たのかもしれないが、母は再婚していないし、それにもしそうだとしたら、母は父が毎年会いに来るのを嫌がるだろう。ずっと前から聞けなかったのだ。今なら聞ける気がした。

 やがて父は諦めたようにひとつため息をつき、短い髪をがりがりとかき回した。

「……子供が、大人同士のことを知りたがるもんじゃない」

 私は思わず脱力して、笑いだしそうになった。「あの、一応ハタチ超えたんですけど。仮にも成人なんですけど」と笑い混じりに言うと、「なにが成人だ、まだ早い」と憮然として返された。

 きっと私が六十になっても、同じように言うのだろう。中学生が小学生を、高校生が中学生を、大学生が高校生を、子供だと思うのと同じように。

 父は駅まで送るといったが、足のこともあって断った。玄関先で手を振って別れ、庭から出る。お線香の燃え残りがところどころに散らばっていた。工藤さんのうちは静かだ。高校生の夏休みなら、まだ寝ているかもしれない。

 赤い口紅はポーチの奥にしまってある。たぶん、捨てないだろう。

 遠くの山の上に、触れそうな立体感を持った入道雲が湧いている。夕立がくればいい。休耕田に雨がしみこみ、雑草が力を取り戻すのが目に見えるようだ。

 バス停に向かって、ヒールでは歩きにくい坂を、ゆっくり、ゆっくり、下って行く。


いかがでしたでしょうか。

よろしければサイトThe fastened winds(http://666snowwing.web.fc2.com/frame.html)にもおいでください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々とした語り口がとても好きでした。 日常の中のさりげない風景、情景、何気ない会話……。 そういったものが丁寧に描かれていて、サラリとしているのに胸にギュッと響きました。 田舎の雰囲気、…
2011/09/11 22:55 退会済み
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