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眠れぬ魚

掲載日:2010/09/06

 目覚めた時から気分はオレンジジュースだった、それでまっすぐにキッチンへ向かい白く小さな冷蔵庫――夜中それは虫の羽音に似た音をずっと立て続けている――を開けて瓶入りのそれを取り出す。行儀悪くキャップを外してから直接口をつけてごくごく飲んで、わたしが男だったらきっと喉仏が上下するのが適確にはっきりと分かってそのシルエットは美しいだろうな、と思った。けれども男の喉仏が一番意志を持ってくっきりと動くのは言いたい言葉をそっと飲み込んだ時だ、わたしはそれを知っている、飲み込まれたもう永遠に発せられなくなってしまった言葉が愛のものであれ別れのものであれ。

 オレンジジュースは喉をちりちりと傷めるように酸っぱくすべり落ちてゆく。妊婦は酸っぱいものが欲しくなると聞くけれど、生理前になるとオレンジジュースやグレープフルーツジュースが欲しくなるわたしもその素質を持っているということだろうか。

 急に哀しい気分になってきて、わたしはテーブルにキャップも締めずジュースを放り出すと、慌ててベッドへ戻る。恋人は静かでもない寝息を立ててやわらかすぎる枕に頭を預けていた。

「別れよう、」

「――ん、今、何時?」

 挨拶もなしでいきなり用件を言い出すと彼は寝惚けた顔で時間を聞いた。知らない、と答える、多分朝だよ、と付け足したけれどそれは彼の欲しい情報ではなかったようだった。

「なに、」

  酒臭いあくびをされて、そうだ昨日はふたりで随分飲んだんだっけ、と思い出す。飲んだ後シャワーも浴びずにセックスしたら疲れてそのまま寝てしまったのだった、思い出してもなんだかあまり良い記憶ではなかったのでわたしは思い出さなかったことにする。

「なに、」

 彼は半分寝ているような目でもう一度同じことを聞いた。サッカー青年の彼は真っ黒に日焼けしていてガリガリに痩せているくせにわたしよりもご飯を食べる、そして抱き締めるとお日様の匂いがちゃんとする男で、そういうのがベッドに寝ていると眠るのは健康に良いことなのだと真剣に思わされたりしてしまう。酒もタバコも好きで野菜は嫌いだしわたしが作らないとカップ麺だの牛丼だのばかりを食べているくせに健康そのものに見えるというのも不思議な感じだ、体力があるせいなのかもしれない、そしてまたわたしは哀しくなる。

「だめ、」

「なにが」

 口の中がオレンジ味でいっぱいでどうしようも切なくなる、別れようよ、と言ってしまうのはさっきのオレンジジュースと健康そのものの外見をした彼のせいだ。

「……寝惚けてんのか」

「違うよ、わたしの方が先に起きたもの」

「じゃあなんだよ」

 目つきの悪い彼はしっかり覚醒しても目は細いままで、その目がわたしをまっすぐに捉えているのでわたしも瞬きを忘れて凝視してしまう、目を逸らしたら負けの野生動物みたいに、彼のくちづけはライオンみたいに獰猛で素敵なのだ、健康な外見の野生動物、わたしの恋人。

「別れようよ、」

 わたしの恋人、が、いつまでわたしの恋人でいてくれるのか心配になって時々とても哀しくなってしまう、手に入れたものを知らない間に取り上げられたり逃げ出されたりしたらどうしていいのか分からなくなってしまうと、想像しただけでわたしは目の前が暗くなるのを実感する。半泣きで、それくらいなら自分から手放した方が何百倍もマシ、と別れを切り出してしまう。捨てられたくないプライドよりも、誰かにいつか取られてしまう恐怖の方が強かった、だからわたしの恋は元々誰かに所有されている人に向けられてのものが多かった。誰かの所有物なら、最終的にはわたしを捨てて所有者のところへ帰ってゆくのが分かっていたから、そうすればわたしは安心していられる。大好きな人を失くした恐ろしいほどの喪失感、それと同時に少しずつだけれど滲み出してくる安堵感。ほら、あれはわたしのものではなかったから、結局帰ってしまったでしょう、という類の。

 でも今の恋人は違う、彼は正真正銘わたしの所有する人――本人に言ったらもちろん嫌な顔をするだろう、でもわたしは所有という言葉の持つ甘い束縛が大好きで、自分の中の矛盾に吐き気もする――であり、建前上わたし以外の女とは関係を持ちません、ということになっている、それは結婚より効果が薄いかもしれないけれど、それがまた怖い。どうして彼がわたしを選んで所有しているのか、また、わたしの所有物になっているのかがちっとも理解できない。彼にはもっともっと可愛らしい人が似合うのではないかと、もしくはもっともっとスポーツ万能な女性が似合うのではないかと勝手に想像しては嫉妬しては落ち込んでしまう。

  もう実際わたしは半泣きになっていた、オレンジジュースを飲んだついさっきまでが遠い昔のように思えるくらい哀しくて頭がぐるぐるしていた、恋人のまだ眠たげな呆れ顔もちゃんと目に入っているのだけれど、ぐるぐると、頭が。

「――ちょっとこっちこい、」

  手招きされて身体を半分ベッドに乗せる、スプリングがわたしの膝の下で小さくきしむ。

「もうちょっと、」

「なに、あっ、」

 上半身裸で眠る癖のある恋人はあっという間に手を伸ばしてきて、わたしの頭をゴン、と殴った、軽い感じではあったけれど、それはちゃんと骨まで響いてわたしは声を上げてしまう。

「だって、」

 彼が何も言わないうちにわたしは言い訳を始める。恋人歴が少し長くなってくると不安で不安で堪らなくなってくる、いつ捨てられるのか、いつ飽きられるのか、いつ他の女を片手に抱いて、お前なんてもう必要ないんだと言われるのか。

「お前は不安症過ぎる」

 まったく俺の睡眠時間返してくれよ、それと見ていた途中までになった夢も、と彼は笑った、唇の端をきゅうっと持ち上げる、どこか意地悪そうにも見えるけれど上機嫌な時しかしない、わたしの大好きな笑い方で。この笑顔がいつかわたし以外の誰かに向くのかしら、と、そう思ってしまうことも怖くてわたしは俯く。

 不幸が怖い、沈黙が続いて恋人の関心が他へ向いて、その時自分が相手を好きになり過ぎていたらどうしようと思ってしまう、わたしは半狂乱になるだろう、死んだ方がマシだと思ってしまったら実際に手首を切る用の安全カバーがついていないカミソリくらいは買ってしまうかもしれない、いつかくる最大の不幸よりは自分から選ぶ大切なものを自分の手で失う不幸の方が比較的軽いのではないかと、そこまで思った時点でわたしはもう既に自分が彼を好きになり過ぎていることに気付いた。

「だめ、」

 二回目の、だめ、は心許なくさっきよりも小さくそれでいて甘えた声で響いた、まるで自分の声ではないように。

「俺のこと大好きなくせに」

「……うん」

「別れようなんて、無理なくせに」

「……うん、」

「おいで、」

 わたしを叩いた手が今度はわたしのために広げられる、飛び込むと体温の高い彼の肌で触れた部分からわたしの不安がゆるゆると溶けはじめる。

「好き過ぎて、苦しい」

「男冥利に尽きるな」

「誰かに取られちゃったらどうしようって、いつも不安」

「お前が思ってるほど俺はモテないよ」

「わたしよりもっと似合う人がいつ出てくるか、びくびくしちゃう」

「俺は後何回お前に『もう別れる』って起されるかびくびくしちゃう」

 くくく、と彼が笑うと、見上げた視線の先で喉仏がそっと動くのが目に入った。心臓の音が張り付いた耳の奥へ流れ込んでくる、彼の体温はわたしのそれより遥かに高い。きっと情熱的に生きているせいだ、男、というよりは純粋な、男の子、としての情熱。サッカーが好きだったり、愚痴は言ってもプライドを持って仕事に接したりする、そういう類の。

「俺がお前以外の誰かを好きになったりする『いつか』とか考えても仕方ないじゃん」

 それよりお前は自分が俺以外の誰かを好きになった時のこととか考えないの、と聞かれて、わたしはポカンとしてしまった。そんなこと、考えたこともない。

「なにそれ、」

「俺だって、お前が誰か俺以外を好きになっちゃったらどうするんだろうって考えるよ」

「そんなことあるはずがないじゃない、他の誰か? そんなの好きになるはずがないじゃない、」

 そんなことも分からないの、わたしはあなたが大好きなのに、と言うと怒ったような声になった。それをまた、彼は面白がって笑う。

「そういうことを言う奴に限ってある日突然誰かを好きになって、今までの彼氏を平気で捨てるんだ、汚れたティッシュみたいに、それで振り返らない、新しく好きになった奴ばかりを真剣に見て、過去の男なんてちらりとも思い出さないんだから」

「そんな、」

「いつか捨てられるかもしれないっていう怖さは誰もが持ってるんだから、そんなの今は気にしないでいなさい」

 大きな手の平で頭を撫でられる、髪が指の間をさらさらと流れる静かな感触。

「今は?」

「今は」

「じゃあ、いつかは?」

「その時考えればいい」

「わたしが他の誰かに取られそうになった時は?」

「うん? ……そうだな、サッカーボール持って取り戻しに行くよ」

「なんでサッカーボール?」

「野球少年じゃなかったから家にバットがないんだ、代わりにボール」

 それを相手に蹴り込んでわたしを奪うのね、と、うっとりした声で言ったら鼻を摘まれた。

「絶対?」

「お前の好きな歌では、絶対なんかないって言ってるのに?」

 質問返しだ、彼は笑っている、わたしは喉の奥でオレンジジュースの味を感じている。

「絶対が絶対でなくても、約束してくれる? じゃあ、わたしが死んだら?」

「あのさ、この会話ってただのバカップルだと思うんだけどどうだろう?」

「いいの、わたしが死んだら?」

「神様にサッカーボール蹴り込んで返せって言ってやるよ、お前が地獄とかに落ちてたらどこにボール蹴り込めばいいんだ?」

「死んでも生き返らせてくれるの?」

「だから、こういうのってさ、」

 朝っぱらからいる会話ではないと思う、と照れたのか彼は身体を離してしまった。それでもわたしがそれでは不安がると思ったのだろう、手間のかかる女め、と大きな口を開けてわたしの鼻に軽く噛み付いてくる。間違えた、などと彼は言って、一度顔を離して、わたしはブルーのベッドシーツに沈んだまま彼の次の行動を知っていながら待っている。

「俺の存在で不安になるな」

「……サッカーボール、信じてていい?」

 見上げた形で彼が笑うのを見た、わたしの大好きな笑い方でその笑い方をすればわたしが喜ぶことを、彼は充分に知っている。手を押さえられて顔が近付けられる、静かに甘く空気が重なってくる。眠れない魚みたいにわたしはシーツの上で漂い続ける、けれども救いは彼の手がちゃんとわたしを繋ぎ止めているということだ、わたし達はどこにも行かない、甘い束縛という名の愛をわたしは信じている。

 愛の言葉を、溶けかけた状態で耳からではなく直接唇から聞いて、わたしは目を閉じた。

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