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『氷の理を宿す子 ― 森の魔女に拾われて ―』  作者: テレン


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第4話 森に立つ影

朝の光は、まだ冬の名残を引きずっていた。

雪はやみ、枝から落ちる雫が、ひとつ、またひとつ、薄い音を立てて地面に吸われていく。

三度目の冬の終わり。空気には春の匂いがほんのわずか混じって、冷たさの輪郭をやさしく曖昧にしていた。


ネヴィスは戸口に立って、吐く息の白さを確かめた。

白はすぐに形を失い、風に紛れる。

掌をひらいて、閉じて。背中の痣――氷の翼が、衣の下で淡く脈打つ。

昨日、掌からこぼれ落ちた小さな命の重さを、彼はまだ胸のどこかで触っていた。


「薪は、細いものからね」

背後でアルマの声がした。

彼女は鉈を渡し、雪解けで湿った薪を指さす。

「太いのは火が落ち着いてから。順序を守ると、火も安心するの」


「うん」

ネヴィスは頷き、薪割り台の上に細枝を並べる。

刃が木目を割る音が、森の呼吸に溶けていった。

三年のあいだ、アルマは何度も同じように教え、少年は何度も同じように覚え直してきた。

失敗しても、責める声はない。ただ、順序があるだけだ。


薪を三束作り終えたころ、アルマは空を仰いだ。

「……音が浅い」

ひとりごとのように呟く。

ネヴィスは顔を上げる。「浅い?」

「風の層。森の手前で音が跳ね返る。――何かが、木々の間に入っている」


ネヴィスの喉がかすかに鳴る。

彼は昨日、アルマの背に守られながら、森の端に立っていた黒い影を見た。

胸の内側に小さな氷片が滑り落ちるみたいな感覚がよみがえる。


「家の中へ」

アルマは扉を押しながら、低く囁いた。

「結界を少し強める。……今日は、静かに過ごしましょう」


ネヴィスは素直に頷き、室内に入る。

扉が閉まると同時に、木目の間を淡い光が走った。

薄い幕――アルマの結界が、家の内側に張り渡される。

音が一段やわらぎ、暖炉の火の音だけがくっきりと残った。



昼までの時間、二人はいつもと同じように過ごした。

ネヴィスは文字の練習をし、アルマは調薬と書き物に耽る。

スプーンが器を叩く音、ページを繰る音、火が薪を飲み込む音。

すべてが見慣れた日常の楽器だった。


違うのは、外の沈黙が、いつもより“作為的”だったことだ。

聞こえないのではなく、聞かせまいとしている沈黙。

その差を、アルマは皮膚の内側で感じ取っていた。


「ネヴィス」

書き物を置いて、アルマは少年の方へ向き直った。

「今から、少し外に出てくる。あなたは家から出ないこと。結界の線を跨がないこと。――約束して」


少年は唇を引き結び、真剣に頷いた。

「約束する」

「いい子」

アルマは彼の頭をいたわるように撫で、扉に近づいた。

取っ手に手をかける前、ふと振り返る。

「もしも――」

言いかけて、言葉を変えた。

「怖くなったら、暖炉を見て。火はあなたの敵じゃない。私がそうしたから」


扉が開くと、冷たい光が床を横切った。

アルマの外套の裾が、ひらりと揺れる。

少年はその揺れに短い別れを見て、静かに息を吸い込んだ。



森の端、雪の少ない場所に、男が立っていた。

黒い外套。首もとに銀の紋章。

紋章には、光の柱を象った意匠――イシュトリア王国の教会が用いる印。

男の髪は土色で短く刈られ、目は春の前の氷と同じ色をしている。


「久しいね、アルマ・ヴァレン」

男は礼節を踏むように軽く頭を下げた。

声は丁寧だが、敬意は薄い。


「誰だったかしら」

アルマは雪に杖の先を埋め、まっすぐに男を見返した。

その瞳は、過去を削り取るための刃物のように冷ややかだ。

「記憶にない顔だわ。数百年、森で暮らしているから」


「レオネル・カイン。王都聖堂付・巡礼騎士。……異端審問補佐の任も帯びている」

男――レオネルは、寒さに頬を赤くしながらも、口角だけで笑った。

「魔女殿を名で呼べる栄誉は、そう多くない」


「呼びたければどうぞ。ただ、私が応じるとは限らないけれど」


レオネルの視線が、アルマの背後――森の奥を探る。

「ここに、“器”がいる。氷の理を宿す器だ。王都の測定具は嘘をつかない。……三度目の冬、北の森で強い凍結波が観測された。あなたしか、この場所を保てはしない」


アルマは肩をすくめた。

「観測とは便利ね。見えないものに名前をつければ、知った気になれる」


「知ったどころか、我々は危険を測る」

レオネルは外套の内側から筒状の魔具を取り出す。

先端が薄く光り、微細な紋様が雪面に走った。

「あなたはかつて宮廷魔導士として王に仕えた。だが、禁書庫から理法の記録を持ち出し、失踪した。――教会は、その“失われた頁”を取り戻しに来たのだ」


「王は『研究を続けろ』と言い、教会は『それは神の光を奪う』と言った。私は、両方の声を持つ世界の、片方から追放された――ただそれだけの話よ」

アルマの声は乾いている。

「それに、頁が歩いて逃げるはずがないわ」


レオネルの唇に、短い不快が走る。

「境界を軽んじる者は、いつも言葉で飾る。……“器”を引き渡せ。

我々は処置を誤らない。幼いならなおさらだ。神法は理を正す」


「正す?」

アルマの紫の瞳が、わずかに細くなった。

「あなた方の“正す”は、いつも一方向ね。

丸いものを四角に入れるために、角を削る。

削った欠片は、どこへ行くのかしら」


レオネルの背後で、二つの影が動いた。

護衛の探索者だ。

片方は背丈の高い女、もう片方は痩せた青年。

女は手に短杖を持ち、青年は聖句の刻まれた鋼板を構えている。

三人の位置は三角形。逃げ道を塞ぐ形だ。


アルマは杖を握り直し、雪面に紋を描いた。

線は一度、風に消される。

だが、風の下に描かれた線は消えない。

理法は、音と同じく層を持つ。

彼女は下層に触れる術を知っている。


「最後にもう一度だけ言う。器を渡せ。

我々は“神の理”に従ってそれを扱う。

それが人のためであり、君のためでもある。……アルマ・ヴァレン。王都は――君の頭脳を惜しんでいる」


「頭脳?」

アルマは、ふっと笑った。

それは稀な笑みだった。

「惜しまれたのは、いつだって結果だけ。

そこへ至る道で失われたもの――弟子も、恋人も、森の名も――誰も惜しまない」

杖の先が、雪の下の地面を軽く叩く。

「帰りなさい、巡礼騎士。

神に誓うなら、まず“見ないこと”に誓いなさい。」


レオネルの瞳に苛立ちが灯る。

彼は短く手を上げ、合図を送った。

護衛の女が短杖を掲げ、青年の鋼板が冷たい響きを帯びる。

空気が、薄い紙のように張り詰めた。


「――光の句、第一節。雪よ裂けろ」

女の短杖から、白金の閃光が走る。

それは雪を跳ね上げ、地面の筋を露わにする――はずだった。


だが、雪は裂けない。

光は空中で動きを止め、薄い板になって静止した。

世界が一瞬、止まった。


アルマは杖を少しだけ傾ける。

時間の層に指をかけ、ほんの一呼吸、下へ引いた。

止まった光の板に、雪の粒がきらめく。

レオネルの瞳孔がわずかに開く。

「……時間凍結、か」


「名付けが好きね。

止めただけよ。凍らせたのは、あなたの“判断”」


光の板が粉々に砕け、雪明かりに溶けていく。

青年の鋼板が震え、聖句が逆流するように薄れた。

レオネルは一歩、雪を踏みしめた。


「――氷の理の器を、庇う理由は何だ。

あの子は君を焼く。

君は凍らないが、世界は凍る。

人は、君の愛を受け止められない」


アルマの睫が、かすかに揺れただけだった。

「それでも、愛さない理由にはならないわ」


レオネルの顎が強張る。

次の瞬間、彼は腰の魔具を引き抜いた。

銀の柄、刃はない。

音を切るための音剣。

彼が振ると、周囲の音が一瞬――消える。

静寂が、真空のように押し寄せた。


アルマの影が、雪面でふたつに分かれた。

影法。

彼女は音の消えた空間に自分の影を滑らせ、音剣の軌道から身を外す。

同時に杖の先から氷の糸が解かれ、レオネルの足元に走った。

糸は透明で細く、光を通して存在を保つ。

足首に触れる直前、レオネルの外套が微かに膨らむ――防御の聖布。

氷糸は布に触れ、形を変え、霜となって広がった。


「下がれ!」

レオネルが短く命じる。

護衛の女は短杖を地面に突き、聖句の輪を広げた。

輪は目に見えない風壁となって、アルマの影を押し戻す。

青年が鋼板を前に出し、反詠唱を始める。

神法の輪と、理法の糸が、白い森の中で見えない形を組んだ。


アルマは息を吸い、吐く。

次の攻撃を――しない。

彼女は杖を下げた。

「ここは私の家の前。

あなたたちにとっては獲物の近く。

私にとっては――子の眠りの隣」


レオネルの眉がわずかに歪む。

攻めねばならない場所で、攻めてこない相手ほど厄介なものはない。

彼は外套の内側に視線を落とし、別の印を指でなぞった。

「……確認したいことがある」


彼は首を傾げ、アルマのすぐ横――家の方角を見た。

結界の膜は薄く透明で、外からはただの空気に見える。

だが、そこに温度の差があることを、感覚の鋭い者は嗅ぎ分ける。

「内に……気配があるな」


アルマの視線が、杖の先だけで注意を示す。

「――見ないことに誓いなさい、と言ったわ」

声は低く、しかし刃よりも鋭い。


その刹那、家の中で、なにかが共鳴した。

遠くから鐘の音が聞こえるよりも先に、

近くで、氷の翼が薄く光った。

アルマの理法が家の内側で揺らぎ、

結界の膜が呼吸をした。


ネヴィスは扉の向こうで、両手を胸に当てて立っていた。

結界の線を跨いではいない。

約束は守っている。

ただ、耳を澄ませていた。

暖炉の息、母の声の温度、外の雪の音。

そして、自分の背の痣が、母の魔法と同じ呼吸をしていること。


「……」

アルマは一瞬だけ振り返るふりをして、振り返らない。

目線を戻すと、レオネルが見てはいけない角度で家の方を測っているのがわかった。

音剣を下げず、けれど上げもせず。

彼は“観測する態度”で立っていた。


「レオネル・カイン」

アルマは名を呼び、言葉に重さを乗せた。

「あなたは、かつて宮廷図書塔で見習いをしていた。

私が禁書庫に出入りするとき、あなたは目を逸らした。

――覚えている?」


レオネルの目が瞬く。

若い頃の記憶が、氷の下の泡のように浮かんでは消える。

「……記憶の喚起は、審問の一手ではあるが、私には効かない」


「効くわ。

見ないことに誓った者は、いつか見ることを赦される。

あなたが見たのは、私ではなく、恐れだった」

アルマは杖の先で雪をつつき、息を吐いた。

白が薄く流れて、すぐに消える。

「恐れは、光に似ている。――一方からしか来ない。

だから、影を作る」


レオネルの唇が硬く閉じられた。

しばしの静寂。

彼の背後の二人が、呼吸を整える音が聞こえる。

鳥が一羽、枝から枝へ移動する乾いた音。

世界が、判断を待っていた。


「……撤収だ」

レオネルは低く言った。

護衛の二人が驚き、彼を一瞬だけ見る。

「ここで派手に剣を振れば、森ごと凍る。

“器”は子だ。――子を狙う手は、神法が最初に嫌う」


「しかし――」

女の護衛が言いかけ、レオネルは首を横に振った。

「聖堂に報告する。

氷の器は確かに存在する。

次は儀礼の形で来る。……聖句の隊列で」

彼はアルマに視線を戻す。

「そのときも、君は止められるか? アルマ・ヴァレン」


アルマは答えない。

代わりに、ほとんど聞き取れないほどの小声で告げた。

「止めるためにある力は、止めるために使う。

それだけよ」


レオネルは短く息を吐き、外套の裾を払った。

雪が舞い、三人の影は森の白に紛れるように薄くなっていく。

数十歩ののち、彼らの音は風に吸われ、痕跡は雪に消えた。



静けさが戻った。

戻った、というより、位置を変えて座り直した。

アルマは杖を地面から抜き、家へ向かって歩き出す。

数歩で、膝がわずかに笑った。

時間の層に触れれば、わずかでも支払いがいる。

彼女はそれを承知で、支払った。


扉の前に立つと、内側から気配が近づいた。

結界の膜が薄く揺れ、扉が開く。

ネヴィスが立っていた。

目は大きく、唇は固く結ばれている。

彼の手が、迷いなく伸びた。

アルマの肘を支える。

小さな手。けれど、確かな温度があった。


「……ただいま」

アルマが言う。

ネヴィスは短く首を振った。

「おかえり」

それは、三つの冬を越えた家の言葉だった。


アルマは笑った。

笑みは深くはない。

でも、長くは続いた。

彼女は杖を扉の内側に立てかけ、靴の雪を払う。

ネヴィスが手を離さないので、片足ずつ、滑稽なほど丁寧に。


「怖かった?」

「……ううん。ちょっとだけ」

「ちょっとは、怖くていいのよ。

怖さは、見ないことと違う。

見るから、怖いの」


ネヴィスは頷いた。

頷き方が、少しだけ大人になっていた。

昨日、小鳥の羽を掌から空へ返した少年は、今日、母の肘を支えた。

順序は守られる。

火のつけ方と同じように。


「アルマ」

ネヴィスは言った。

「さっきの人、また来る?」

「来るわ。今度はたぶん、列で」

「列?」

「祈りの列、言葉の列、光の列。――人は、列を作ってから“正しさ”を始めるの」


「止められる?」

アルマは息を吸い、吐き、少年の頬に手を当てた。

「止めるわ。

私ひとりでじゃない。

あなたと、家と、森と――

止めることを選ぶ心で」


ネヴィスの背で、氷の翼が微かに光った。

部屋の空気がそれに合わせて、ほんの少しだけ遅く流れる。

時間がやわらかくなる。

暖炉の火が、静かに姿勢を変えた。


「お腹、空いた」

ネヴィスがぽつりと言う。

アルマは笑い、鍋の蓋を持ち上げた。

「今日は、塩と草のスープ。

緊張した後は、薄い味がいいの」


香りが部屋に広がり、壁がその匂いを覚える。

匙の音が一度、二度、響く。

外の森では風が向きを変え、鳥が帰る場所を探していた。


二人で席につき、

「いただきます」と言う代わりに、

アルマは少年の額にそっと唇を触れさせた。

それは祈りではない。

約束に近い。


匙を口に運びながら、ネヴィスはふと思い出したように呟く。

「ねえ、アルマ。

“見ないことに誓う”って、どういう意味?」

「――見てはいけないものは、この先のあなたの未来にはいらない、という誓い」

「見ないで、守れるの?」

「見ないから、守れるものもある。

見るから、守れるものもある。

どちらかだけでは足りないから、二人で生きるのよ」


ネヴィスはゆっくりと頷いた。

頷きは、火の揺らぎと同じ速度だった。

外の雪はときどき強く、ときどき弱く、

けれど確かに――冬から春へ、列を作って進んでいる。


食事を終え、片づけをして、

アルマは扉に手を当てて結界を撫でた。

薄い膜は、触れられるたびに微かに音を立てる。

この家の心音。


「今日の文字は、ここまで」

本を閉じると、紙が小さく呼吸をした。

ネヴィスは眠たげに目をこすり、寝台に横になる。

アルマは灯りの球を一段落として、椅子に腰を下ろした。

夜は、まだ長い。

けれど、その長さは昨日ほど冷たくはない。


「アルマ」

「なあに」

「さっきの人、名前、覚えた」

「そう」

「レオネル」

「ええ、レオネル。――忘れてもいいし、覚えていてもいい」

「忘れない。……忘れない方が、怖くない」

「賢い子」


アルマは目を閉じ、浅い眠りに身を預けた。

ネヴィスは天井の木目を数え、

背の痣が布の下で穏やかに呼吸するのを感じた。

昨日、止まった羽。

今日、歩いていった影。

すべてが、列を作って遠ざかり、

そして、いつかまた近づいてくる。


――森に立つ影は、去った。

――だが、影はつねに“光の形”をして現れる。


彼らはそれを、もう知っている。

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