第3話 凍れる血の痛み
三度目の冬が、ようやく終わろうとしていた。
森の奥に射す光が少しだけ柔らかくなり、枝に積もった雪の重みがほどけはじめる。
凍った小川は細く音を立て、やがて流れを取り戻した。
冬の終わりは、いつだって寂しさを連れてくる。
白い世界がゆっくりと溶け、静けさがかたちを失っていくからだ。
アルマは小屋の前に立ち、空を見上げた。
灰と白のあいだに、うっすらと春の青が滲んでいる。
「三つ目の冬も、終わるわね」
つぶやく声は風よりも穏やかで、暖炉の火よりも静かだった。
背後から足音がした。
「アルマ、氷が動いてる!」
声の主――ネヴィスはもう七つになっていた。
かつては言葉の意味も知らなかった少年が、今は雪を蹴って走り、
世界に起きる小さな変化に目を輝かせている。
彼の髪は白銀色で、光を受けると雪解け水のようにきらめく。
背中の痣――氷の翼は、今も淡く存在を主張していた。
「春の前触れね」
アルマは微笑むと、氷の表面を指で叩いた。
音が鳴る。コン、と低く、遠くまで届く音。
その響きが森を巡り、どこかで小さな羽音が返ってきた。
*
昼、二人は森の奥へ薬草を採りに出た。
雪はまだ深く残っているが、地表のいくつかの場所で茶色い土が顔を出している。
ネヴィスは木の籠を背負い、アルマの歩幅に合わせて歩いた。
「アルマ、もう春が来たら、外の人にも会える?」
「どうかしらね。あなたを見て、怖がらなければいいけれど」
「僕、怖くないのに」
「ええ、私もそう思うわ」
アルマはやさしく言ったが、心の奥では警戒を緩めていなかった。
教会の探索者がこの森の近くまで来ている――そんな噂を、風が運んできていたからだ。
木立の影に入ると、ネヴィスが立ち止まった。
雪の上に、小さな赤があった。
溶けかけた血の色。
「……鳥?」
彼は膝をつき、両手でそっと包み上げた。
手の中には、小さな小鳥がいた。
羽は一部が凍りつき、胸の辺りに血の筋が走っている。
息はかすか。今にも消えそうだった。
「かわいそう……」
ネヴィスは顔を上げた。
アルマは何も言わずに見守っている。
その瞳は冷たいようで、深い悲しみを湛えていた。
「助けてあげたい」
「……触れてごらん」
アルマの言葉は、あの日と同じ調子だった。
恐れも急かしもせず、ただ静かに促す声。
ネヴィスは頷き、鳥の胸に手を当てた。
掌が震える。
彼は目を閉じて願った。
“生きて”と。
ほんのそれだけの、幼い祈り。
けれど、次の瞬間――
鳥の体が小さく跳ね、
その羽が、ひび割れた音とともに白く凍りついた。
息をのむ間もなく、血の跡までもが氷に閉じ込められ、
鳥は結晶のように静止した。
「……」
ネヴィスは、何が起こったのか理解できず、指先を離した。
掌の中で、命が止まっている。
赤は、もう色を持たない。
氷の中で眠るそれは、美しくも、あまりに静かだった。
アルマは近づき、しゃがんだ。
「あなたは悪くないわ」
その声は震えていた。
「どうして……僕は、治したかったのに……」
「力があなたの感情に応えたの。
あなたは“止めたい”と願った。
だから、止まったの。」
ネヴィスの瞳に、涙がにじむ。
「じゃあ、僕が……殺したの?」
アルマは首を横に振る。
「死は“壊す”ことではないの。
止まること。
世界はいつか必ず止まるわ。
でも、あなたはその瞬間を見ただけ。」
言葉はやさしいのに、
ネヴィスには何も届かなかった。
胸の中が痛い。
それは氷が割れる音ではなく、
心の奥で何かが沈んでいくような感覚だった。
*
家に戻ると、アルマは暖炉に火を入れた。
薪が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。
ネヴィスは黙ったまま椅子に座り、
掌を見つめている。
そこには何の跡もない。
けれど、確かに“冷たさ”だけが残っていた。
夕食の支度をしながら、アルマは何度も彼の方を見た。
けれど声はかけなかった。
悲しみを言葉で触れると、形を持ってしまう。
だから今は、沈黙がいい。
夜。
外の雪は止み、風の音が細くなっていた。
暖炉の火がゆらめき、部屋の影が長く伸びる。
アルマは本を閉じ、彼の隣に座った。
「アルマ……」
ネヴィスがぽつりと言った。
「どうして、死ぬの?」
アルマは少しだけ目を伏せた。
答えはずっと昔に失くしたのかもしれない。
それでも彼女は口を開いた。
「死は終わりじゃない。
ただ、動かなくなるだけ。
世界はね、動くことと止まることを繰り返しているの。
あなたが止めた鳥も、
またどこかで別の形になるわ。」
「でも、僕はあの羽を凍らせた。
血まで……全部……」
彼の声が震える。
アルマはそっと腕を伸ばし、彼の頭を胸に抱いた。
「あなたは優しい子。
優しさが強すぎると、世界は耐えられなくなるの。
だから、凍るのよ。
それは罰ではなく、祈りの形。」
彼女の胸に、ぽたぽたと涙が落ちる。
アルマは、涙というものを久しく忘れていた。
その重みが、彼女の中の時間を揺らした。
「あなたの冷たさが、
この世界の痛みをやわらげてくれる。
だから……恐れないで。」
ネヴィスは、嗚咽をこらえながら首を振った。
「僕、もう触らない。
何にも。誰にも。」
アルマの腕がわずかに強くなった。
「触れないことは、愛さないことと同じ。
……あなたが冷たさを恐れるなら、
世界の温かさも凍ってしまうわ。」
その瞬間、部屋の温度が少し下がった。
ネヴィスの背の痣が、布越しに淡く光る。
氷の翼が形を変え、薄く空気を震わせた。
室内の炎がゆらめき、アルマの髪に青い光が映る。
彼女はその光を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「その冷たさが、あなたの心臓の証よ。
心が凍らない限り、あなたは生きている。」
*
夜が明ける直前、
ネヴィスは静かに扉を開けた。
冷たい空気が肌を刺す。
東の空が白みはじめ、森の端に薄い光が差していた。
足元に何かがあった。
霜の花の上に、小さな氷の羽。
昨日の鳥のものだ。
けれど、その羽は凍ったままなのに、
まるで息をしているように微かに光っていた。
ネヴィスはしゃがみ、そっと手を伸ばした。
今度は凍らない。
指先で触れた氷の羽は、冷たいのに心地よい。
掌の上で、静かに輝いている。
「……ごめんね」
そう呟くと、風が吹いた。
羽がふわりと浮かび、朝日の中で溶けるように消えた。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
痛みが、少しだけ温かくなった。
背後からアルマの声がした。
「それが、命の続き方なのよ。」
ネヴィスは振り返った。
アルマは白い外套を羽織り、朝の光の中に立っている。
彼女の髪が風に揺れ、雪の粒が光を受けて舞った。
まるで、世界の理が祝福しているようだった。
「ねえ、アルマ……
僕、もう一度触ってもいい?」
「ええ。何度でも触りなさい。
痛みを知る手は、きっとやさしくなれる。」
ネヴィスはうなずいた。
そして空を見上げる。
雲の隙間から差す光が、氷の翼の痣を照らす。
その光は、暖かくもあり、冷たくもあった。
「……ありがとう」
「いいえ。ありがとうを言うのは私の方よ。」
アルマは彼の頭を撫でた。
その手の温度は、冬の名残を抱いた春のようだった。
*
日が高くなるころ、森の奥でかすかな金属音が響いた。
風が止まり、鳥たちが一斉に沈黙する。
アルマは振り返り、目を細めた。
遠くの木陰に、黒い影が立っている。
外套をまとい、胸に銀の紋章を光らせた男。
――教会の探索者。
アルマの指先がわずかに動く。
空気が張りつめ、家の周りに薄い結界が走った。
「アルマ?」
ネヴィスが不安げに見上げる。
「大丈夫。……まだ、静かにしていましょう。」
彼女は少年の肩に手を置いた。
その手には、確かな決意と、
あの日の“母のぬくもり”が宿っていた。
森の雪が光を受け、白く閃く。
風が動き、遠くで誰かの足音が聞こえた。
――凍れる血の痛みを知った少年の、
最初の春が、いま静かに始まろうとしていた。




