第2話 凍てつく日々と、暖炉の灯
あの氷の夜から、三つの冬が過ぎた。
森の雪は変わらず白いが、少年の背は少し伸びた。
彼はもう言葉を覚え、足で歩き、手で世界を確かめることを知っている。
雪は夜じゅう降りつづき、明け方には森をさらに深い白で覆っていた。
枝は細い指のように凍り、朝日がまだ林の向こうで息をひそめている。
小さな家の屋根からは、ゆっくりと湯気のような白煙が立ちのぼっていた。
暖炉に火が入っている合図だ。
アルマはいつもと同じ時間に目を覚まし、灰をならして小さく薪をくべる。
赤い舌のように炎が顔を出し、しばらくすると室内の空気が硬い氷から布のような柔らかさへと変わっていく。
彼女は釜に水を張り、乾燥させた根菜を数片落とす。水面に小さな泡が集まり、ぱち、ぱち、と一つずつ弾けた。
寝台の上、ネヴィスは仰向けになり、白布の下で呼吸を整えていた。
三年前は泣くことしかできなかったその胸が、今は言葉を紡ぐために小さく動く。
背中の痣――氷の翼は淡く光り、呼吸に合わせてほんのわずかに明滅した。
朝の光ではない、彼の内側から滲む冷たい輝きだ。
「おはよう」
アルマは音を乱さぬように囁き、寝台の縁を指先でなぞる。
ネヴィスはゆっくりと瞼を持ち上げ、紫水晶のような女の瞳を見つめ返した。
「おはよう……アルマ」
小さな声。それでも、確かな言葉だった。
彼の舌はまだ少し幼く、声には雪解けのようなぎこちなさがあったが、アルマは微笑を浮かべた。
「今日も雪ね。……だから、よく燃える木を選ばないと」
棚から小箱を取り出し、乾いた葉をひとつまみ鉄のポットへ落とす。
茶の香りがすぐには広がらない。熱が巡るまでには時間がいる。
この家のすべてがそうだ。時間が、すべてをやわらげる。
湯が静かに震え、薄い湯気が立つ。
アルマは木の匙で鍋をかき回し、白い粥を器に移す。
匙の背で粥を押しつぶすたび、粒の輪郭が消え、湯気が甘くなる。
「熱いものは、あなたを遠ざけがち。……でも、少しなら大丈夫」
匙を唇に近づけると、ネヴィスはおとなしく口を開けた。
彼はもう、自分の冷たさで器を凍らせない。
それは三つの冬を経て、少しずつ覚えたことのひとつだった。
「いい子」
アルマは彼の頬を布で拭い、指先で撫でる。
ネヴィスは笑う。
笑うというより、表情がほんの少しだけほどける。
それだけで、部屋の温度が変わったように感じられる。
*
朝の支度が終わると、アルマは本を一冊選び、窓辺の長椅子に腰を下ろす。
背後で暖炉が、落ち着いた呼吸のようにパチパチと音を立てる。
ネヴィスは毛布にくるまれ、彼女の膝に頭をあずけた。
この森で三度目の冬を迎える今も、外の世界を知らない。
けれど、世界を知らないことを、まだ悲しむ必要はなかった。
「今日は、文字の形を見せましょう」
アルマはページを開いた。
古い羊皮紙の上で、黒いインクが流れる。
彼女は一本の指で一文字ずつなぞり、時折、窓の外の雪明かりに本を傾けた。
ネヴィスの目が、その指の動きを追いかける。
音はまだ不確かでも、形は覚えられる。
彼はそういう風に生まれついている。
「この線は“理”という字の一部。世界を結ぶ筋のことよ。……筋は見えないけれど、必ず在る」
アルマの声は一定のリズムで続く。
ネヴィスのまぶたが重くなり、落ちそうになっては戻る。
その繰り返しに、アルマはかすかに目を細めた。
三年前、泣き声しか知らなかった小さな喉が、今はこの静けさを受け止めている。
*
昼近く、雪が弱まると、アルマは外套を羽織り、ネヴィスに厚手の布を巻いた。
扉を開くと、冷たい空気が一気に流れ込む。
飲み込めるほど澄み渡った冷気。頬がほどよく痛む。
ネヴィスは外に出るのが好きだった。
雪を嫌うことも恐れることもない。
生まれた時から、冷たさは彼の世界の一部だから。
森は音を少しずつ返しはじめていた。
枝から落ちる雪の粒が、地面で小さな音を立てる。
遠くで鹿が駆ける音がして、ネヴィスは耳をすませた。
アルマは彼の肩に手を置き、足元の氷を確かめながら歩く。
この森は、彼女の記憶そのものだ。
少し進むと、小さな凍った池が現れた。
水面は薄いガラスのように平らで、風も波紋も閉じ込められている。
ネヴィスが手を伸ばし、氷面に触れた。
冷たさが掌に流れ込み、彼の指先に細かい亀裂が広がる。
それでも氷は割れない。
彼は三年かけて、壊さずに触れることを覚えた。
「アルマ、これ、生きてる?」
「止まった水。……動きをやめたものは、別の形で生きているの」
ネヴィスは目を凝らした。
氷の下で小さな泡が動いている。
止まっているように見えて、動いている。
その矛盾が、少し面白かった。
さらに進むと、雪の間から小さな芽が顔を出していた。
白に溶けてしまいそうなほど薄い緑だ。
ネヴィスが手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、芽の周りに細かい霜が広がった。
葉の輪郭が透明な磁器のように精密になり、やがて動きを止める。
「ぼく、こわしちゃった……」
彼は小さな声で言った。
アルマは同じ高さにしゃがみ、結晶化した芽を見つめる。
霜は美しかった。破片も傷もない、完全な静けさだ。
「壊していないわ。眠らせただけ。
……動きが速すぎると、世界は自分の形を見失うの。
あなたは“形を守る”ことができる。止めることで、守れるものがあるのよ」
ネヴィスは芽の結晶を見つめた。
透明の中に小さな筋が走っている。
アルマの言う“理”の筋――見えないはずのそれが、今は見えるような気がした。
「守れる……?」
「ええ。あなたは破壊の子じゃない。静けさの子。
名付けは嘘をつかないもの。」
アルマは芽のそばに掌をかざし、わずかに熱を与える。
霜がほどけ、結晶が線になり、線が水になって土へ染みていく。
芽は再び柔らかさを取り戻し、葉先が小さく揺れた。
ネヴィスは息を飲む。
彼女の手は、冷たさと熱の境を自在に行き来する。
「魔法?」
「魔法は願い。理法は真理。
魔法は“こうなればいい”という意志を熱に乗せる。
理法は世界の筋を見つけ、そこに触れる。
あなたは筋を感じられる子。
だから、いつか願いに頼らなくても動かせるようになる。」
ネヴィスは彼女の顔を見上げる。
アルマの瞳は夜より深く静かだ。
彼女は多くを言わないが、必要なことは必ず言う。
言葉の温度を、彼は三年かけて少しずつ覚えてきた。
*
帰り道、森の影の向こうで枝が折れる音がした。
アルマは立ち止まり、耳を澄ます。
雪はやみかけ、空は薄く光りはじめている。
風が方向を変え、音の根を隠した。
「……鹿か、狐。あるいは、見知らぬ人」
彼女はそれ以上言わず、歩調を少しだけ早めた。
ネヴィスはその手の速さに合わせる。
指先の冷たさが濃くなる。
冷たさは恐怖の形ではない。
彼にとっては、考える時の癖のようなものだった。
家に戻ると、アルマは扉に手を当て、低く囁く。
木目の間に淡い光が広がり、扉の内側に薄い膜が張られる。
外からは見えない。
だが空気は確かに変わった。
音が柔らかく遮られ、家は殻のようになる。
「結界?」
「ええ。家は“静けさ”の入れ物。静けさは守らないと逃げるの。」
彼女は暖炉に薪を足し、鍋の蓋をずらした。
湯気が室内に広がり、空気は香りを記憶する。
甘い根の匂い、少し焦げた皮の匂い。
ネヴィスは目を閉じ、息で匂いの形をなぞった。
「お昼にしましょう」
二人で卓につく。
匙の音が一回、二回。
音の数だけ日が積み重なる。
アルマの手つきはいつも変わらない。
けれど、ネヴィスの指の長さは少しずつ変わっていく。
三度目の冬。
暖炉の火も、彼の指先も、
少しずつ上手に温度を扱えるようになっていた。
*
夜が更け、扉の向こうで雪がさらりと落ちる音がした。
アルマは振り向かず、火を少し強める。
音が一段階深くなり、外の小さな音が見えにくくなる。
「……今夜は、ここまで。」
彼女は静かに目を閉じ、
ネヴィスの寝息を確認してから、椅子にもたれた。
三年前、孤独しか知らなかった部屋。
今はその孤独が、灯りのように穏やかに燃えていた。
――凍てつく日々の真ん中で、
――確かな灯がそこにあった。




