追跡の黎明
夜明け前の森は、冷たく、静まり返っていた。
雪の上を歩くたび、靴底が音を立てる。
アルマとネヴィスは、北の山脈を目指して進んでいた。
「寒くない?」
アルマが振り返ると、ネヴィスは首を横に振る。
「ううん、平気。……氷が守ってくれてる感じがする」
「そう。あなたが“氷の理”と呼吸してる証拠ね」
風が頬を撫でる。
空がわずかに明るくなり始め、雪の結晶が朝日に光った。
「森を出たら、どうするの?」
「山を越えるの。南の境界には、“理法の泉”がある。
そこに行けば、少なくとも神法の影は届かない」
「泉?」
「“理”がまだ純粋だった頃の名残。
神々が世界を作ったとき、最初に流した光の跡よ」
ネヴィスは目を丸くした。
「そんな場所が本当にあるの?」
「ええ。……でも、行くのは簡単じゃない」
アルマの声がわずかに低くなる。
その瞬間、風が変わった。
鳥が一斉に飛び立ち、森の奥から鈍い振動が伝わる。
――ドン……ドン……ドン……。
「……来たわね」
アルマは足を止めた。
「第二列。王都直属の“祈祷軍”。
レオネルの時より、ずっと厄介よ」
ネヴィスは息を飲む。
「でも、戦わないと――」
「戦うんじゃない。逃げるために止めるの」
アルマは杖を構え、地面に打ちつけた。
氷の紋章が雪の下に広がり、影が連動して動き出す。
それは、まるで森そのものが生きているかのようだった。
「“影移動”。」
アルマが小声で唱えると、
二人の姿がふっと闇に溶けた。
*
その頃、数キロ後方――
教会の第二列が雪を踏みしめて進んでいた。
「目標、北へ移動中!」
「速度は……速い。まるで森が案内しているようだ!」
騎士たちの報告に、
先頭の男――カーディス・ヴェルンが口角を上げた。
「アルマ・ヴァレン、やはり“森”ごと術式化しているな」
その声には、感嘆とも愉悦ともつかない響きがあった。
後方からレオネルが馬を駆って近づく。
「この地で無理に攻めれば、森が暴走する。
魔力の濃度が高すぎる。結界の層が乱れてるんだ!」
カーディスはちらりと視線を向ける。
「危険を恐れるのは兵の仕事だ。私は“成果”を恐れない」
「成果?」
「神を越える力があるなら、見てみたいだけだ」
レオネルは歯を食いしばる。
(……やはり、こいつの狙いは“研究”じゃない。
“神を超える”――その欲だけだ)
*
一方、影の中を走る二人。
世界は色を失い、時間が歪んでいた。
氷と影が混ざり合う空間で、音も匂いもない。
「……ここ、変な感じ」
ネヴィスが手を伸ばすと、指先が影に沈んだ。
「普通の人間なら、ここで迷うの。
でもあなたは、理を“感じる”ことができる」
「感じる……うん、冷たいけど、やさしい」
アルマが微笑む。
「氷は拒絶じゃないの。
“触れ方”を選ぶだけ」
その時――
影が大きく波打った。
「来た!」
アルマが叫ぶ。
次の瞬間、光の刃が影の空間を裂いた。
祈祷軍の詠唱。
現実と影の狭間に、金の輪がねじ込まれてくる。
「空間侵入……早すぎる!」
アルマが杖を構えた瞬間、ネヴィスが叫ぶ。
「僕がやる!」
氷の翼が広がり、光の輪と正面からぶつかる。
青と金。
冷たさと祈り。
相反する理が衝突した。
「止まれぇぇっ!!」
少年の叫びと同時に、時間が一瞬止まる。
光が砕け、祈祷軍の侵入が弾かれた。
アルマは息を呑み、彼を見た。
「……できたのね、“影の中での凍結”」
「よくわかんないけど、感じた。
この光は“壊したら”ダメで、“眠らせたら”いいって」
アルマの目に、ほんの一瞬、涙が浮かぶ。
「それが、理を理解するってことよ……ネヴィス」
影の空間が揺らぎ、出口が開いた。
二人は外へ飛び出す。
*
地上。
朝の光が森を照らし始めていた。
雪原の向こうに、黒い山脈が見える。
「見て、アルマ! 山が!」
「ええ。もうすぐ境界よ」
だが――その直後。
空に光の線が走った。
祈祷師たちの詠唱が届いたのだ。
空を割るように降り注ぐ“神罰の光”。
アルマは杖を突き立てる。
「――《影転結界・第二層展開》!」
影と氷が同時に立ち上がり、光を受け止める。
空気が爆ぜ、雪が舞い上がった。
「アルマ!」
「大丈夫! でも……っ、押される!」
ネヴィスは迷わず前に出た。
「僕もやる! 二人で!」
「いいわ、一緒に!」
アルマが手を伸ばし、ネヴィスの手を握る。
氷と影が共鳴する。
世界の線がゆっくりと変わっていく。
――白と黒が、ひとつの色になる。
爆音と共に、光が消えた。
静寂。
朝の風が、ようやく吹き抜けた。
「……終わった?」
「まだ。でも、これで“始められる”」
アルマが笑う。
その笑みは、凍てついた夜明けの中で、確かに温かかった。
ネヴィスは空を見上げた。
雲の隙間から、陽が差し込む。
「綺麗……」
「ええ。夜明けはいつだって、祈りより強いわ」
風が二人の間を抜け、雪を舞い上げる。
遠くではまだ、祈祷軍の旗が揺れている。
でも、彼らはもう恐れなかった。
――追跡は続く。
けれど、その足跡こそが、
やがて神話と呼ばれる“理の道”になるのだ。




