第1話 氷の夜に捨てられた子
雪は音を奪う。
風は祈りを飲み込み、光は届かない。
その夜、イシュトリア王国の北端では、ひとりの女が雪をかき分けて森を進んでいた。
腕の中には、白い布に包まれた赤子。
その身体は驚くほど軽く、けれど抱く腕が凍えるたび、女の胸に走る痛みが鋭くなる。
「……ごめんね」
女は足を止め、息を吐いた。
「あなたは……神に見放された子。村の誰も、あなたを抱けない」
吹き荒ぶ雪が、その言葉を引き裂く。
教会の鐘が遠くで鳴り、まるで“赦し”を告げるように響いた。
けれど、赦しなどこの子には与えられない。
女の手は震えていた。寒さのせいだけではなかった。
村の神官たちは言った。
――この子の背には神の理に背く印がある。
――この子を抱けば、世界に冬が訪れる。
女はそれでも一度は祈った。
夜明けまで抱いていれば、きっと何かが変わると。
だが、神は沈黙し続けた。
やがて女は、森の外れで膝をつく。
雪の上に白布をそっと置く。
布の隙間から、淡い光が覗いた。
背中に――氷の翼の痣。
雪の結晶のような紋様が羽根を描き、
肌の下で青白い光が脈打っている。
まるで氷の羽が、今にも広がろうとしているかのように。
「……こんな小さな体で、罪を背負って生まれてきたのね」
女の声は震えていた。
凍える手で赤子の頬を撫でる。
その肌は冷たく、それでいてなぜか心を落ち着かせた。
「ごめんね。せめて、眠るように……」
女は白布を整え、立ち上がる。
風が彼女の髪を巻き上げ、雪を散らした。
遠くで犬が吠えた。
そして、女は去っていった。
残されたのは、雪と、泣き声と、ひとつの命。
小さな泣き声が、世界に微かな温もりを残した。
*
どれほどの時が流れただろうか。
吹雪が止み、代わりに、静寂が降りてきた。
その静けさを破るように、足音が近づく。
コツ、コツ――杖の先が雪を叩く音。
黒い外套を纏った影が、月光の下に現れた。
銀灰の髪、紫の瞳。
その姿はまるで夜そのものが形をとったようだった。
「……また、人の子ね」
その声は低く、透きとおっていた。
女は雪の上にしゃがみ込み、白布をめくる。
氷の翼を見て、息を呑む。
「……氷の理。まだ、残っていたのね」
指先で光に触れると、赤子の泣き声が止んだ。
冷たさの中に、確かに“生”の鼓動がある。
「触れられる……。凍らない……」
黒衣の女――アルマは微かに笑った。
その笑みは冷たく、それでいて、どこか懐かしかった。
「人はこの子を呪いと言うでしょう。
けれど、私にはそうは見えない。」
腕に抱いた瞬間、赤子が小さく息を吐く。
白い息がふたりのあいだで重なり、雪の冷たさを少しだけ和らげた。
「……お前の名は、ネヴィス。
雪の子という意味よ。」
月が雲間から顔を出し、二人を照らす。
氷の翼の痣が、淡い光を放った。
アルマはその光に目を細め、そっと呟いた。
「この子が世界を壊すというのなら、私が守る。
たとえ、神々を敵に回しても。」
その言葉は雪よりも静かに夜に沈み、
森の木々がそれを聞き届けたように枝を揺らした。
*
夜が明けた。
吹雪の去った森に、淡い朝の光が差し込む。
氷の枝が微かに鳴り、遠くで鳥が鳴いた。
小さな木造の家――魔女の住処。
暖炉の炎が柔らかく揺れている。
アルマは椅子に腰をかけ、腕の中の赤子を見下ろしていた。
ネヴィスの頬は冷たく、それでもわずかに赤みを帯びていた。
その呼吸は静かで、規則正しい。
「……眠っているのね」
アルマは本棚に目をやる。
そこには古い書が並んでいた。
“理法の記録”“神々の誓約”“人の罪と祝福”。
どの本も、彼女にとってはもう意味を失って久しい。
けれど今、彼女の腕の中にある小さな命が、
そのすべてを再び意味あるものに変えていく気がした。
「私にできることは、もう研究じゃないのね……」
アルマは微笑む。
その表情は、数百年ぶりのものだった。
窓の外で風が止み、
朝の光が、雪面に反射してまぶしく広がる。
「……雪が溶ける日まで、ここにいなさい。
世界がどう変わろうと、私はあなたの居場所でいるわ。」
赤子は、まるでその言葉を理解したかのように、
微かに笑った。
アルマはその笑顔を見つめ、静かに目を閉じた。
外では、雪の結晶が太陽の光を受けてきらめく。
凍てついた世界に、
ほんの少しだけ、春の気配が宿った。
――その夜から、世界は確かに変わり始めていた。




