第六章 家の在処
朝早く、塔の上階は温まり、サエラは寝台で静かに眠っていた。眉間の皺もなく銀の髪が枕に流れている。
ノエルはそっと鞄から薄い黒板を取り出した。
掌に微かな熱。指先ですぅっと円を描くと、板の表面が乳白に曇り眠るサエラの輪郭がそこに写された。
少年はじぃっと息を止め、くっきりと色がついたその薄く透明な紙を光に透かした。
「……」
少年はとても嬉しそうに、にっこり笑う。
ノエルはその薄紙を小さな缶に滑らせる。缶の中には、もういくつもの“サエラ”がいた。
缶の蓋がわずかに鳴る。
誰も起きない。
誰も知らない、その秘密。
◇
その日も雪は細く降り続いていた。
ヴァロークは外套を羽織り、固い口調で言う。
「――少し、城に行ってくる」
サエラは不安気に頷いた。
「……お気をつけて」
ノエルは背筋を伸ばして胸を叩く。
「塔もサエラさまもぼくが守ります!」
その言いぶりに、ヴァロークは口の端をわずかに上げ、ノエルの頭に手を置くと扉へ向かった。
◇
王城の回廊は青白く冷たい。
広間にはヴァロークの甥である若い王、宰相、司祭長が待っていた。空気は張りつめ、外の雪音さえ際立たせる。
宰相が先に口を開く。
「王弟殿。――王族だというのに千年の魔女に“愛”を教えるつもりなのですか。禁忌だと承知のはず」
この国の最高司祭もまた、低く重ねた。
「塔の主は“愛”を口にした時、消えてなくなってしまう。遥か昔、千年前の貴方の祖先が彼女に守護を約束したというのに…」
王は沈黙し、ただ皆を見ていた。
ヴァロークは目を逸らさず、言った。
「私は、もう王ではない。王位に興味もない」
宰相と司祭の眉間の皺が深くなる。
「……ただ、彼女を愛している」
誰もすぐには続けられない。
重たい沈黙のあと、王がゆっくり口を開く。
「王弟よ。あなたはいつも責務を選ばれてきた。国のため自身を捨てて。それでも…」
「…私は彼女の側にいることを選ぶ」
ヴァロークは言い切った。
「…分かりました。ただのヴァロークよ。愛する者の元へ、行くがよい」
勢いよく立ち上がり広間を出る彼を大臣たちが止めようと動く。
しかし、王は手を上げ、静かに制した。
「――今までありがとう!ヴァロークおじさん」
ヴァロークの歩みが、一瞬だけ止まる。
けれども振り返らないまま扉の向こうの雪に消えた。
◇
森はまだ白く化粧をしていた。
塔へ戻る小径で、ノエルが小道から飛び出してくる。ヴァロークにぶつかりそうになり、鞄の口が開き小さな缶が雪に転がった。
「…すまん」
ヴァロークが拾い上げる。
缶の蓋がずれて、たくさんの薄紙が覗いた。
銀の髪の輪郭。灯りの下。長椅子の端。
ノエルは俯き、唇を噛む。
「……駒鳥は、禁じられてるんだ。――でも、でも、忘れたくなかったんだ」
ヴァロークは黒板を指でなぞり、短く言う。
「……彼女自身がかける、忘却の術の話だな。知っている」
ノエルがはっと顔を上げる。怯えと期待が揺れる。
少年は大人になるのが嫌だった。大人になってもサエラを忘れたくなかった。それでも時は過ぎていくから、悪足掻きをしたかった。
ヴァロークは缶の蓋を閉じ少年の手に返した。
「これからは――共犯者だ」
ノエルの紫の瞳がぱっと明るくなる。
雪の上に小さな足跡と大きな足跡が並んだ。
◇
塔の扉が開く。
サエラはそこに立っていた。
薄着でどれくらい立っていたのかわからないが、頬も鼻先も少し赤い。
彼女は何も言わず、二人をそのまま強く抱きしめた。
「ただいま!」
ノエルが胸を張って言う。
ヴァロークは一瞬迷い、低く、短く。
「……ただいま」
サエラの紫がかった瞳がふっと潤む。
微笑み、涙の光り、彼女は小さく囁いた。
「――お帰りなさい」
ヴァロークは目を逸らした。
胸の奥で先ほど広間で発した言葉よりも強い感情が暴れ、熱が降りてくる。
“家”を持たない三人の新しい居場所だ。
◇
長椅子に並んで座った二人。
火の音を聞きながら、いつの間にか互いの肩にもたれ合い、眠りに落ちていた。
サエラの銀の髪がヴァロークの分厚い肩でゆっくり呼吸に合わせて上下する。
手と手は触れそうで触れない距離で止まっている。
見つめていたノエルが小さく笑って、鞄から黒板をそっと取り出し、すぅっと指先で円を描く。
薄紙に色が広がり、二人の姿がそこに写る。
「……忘れない」
少年は誰にも聞こえない声で呟き缶に戻した。
◇
雪はやみ、空は明るく晴れている。
台所では、サエラが香草と野菜を刻む音が小気味よく続いている。
鍋に油の音が鳴り、野菜の甘い匂いが立ちのぼる。塩をひとつまみ。
ヴァロークは上階から聞こえる珍しい歌声に少し笑った。そして扉の内側に置いていた荷を肩に担ぎ直す。磨き込まれた鍛錬用の剣、薄い毛布、無造作に紐で縛られた書籍類。
ノエルが先に階段の踊り場に箱を下ろす場所を作りうとする。
「そこは通路だな。塞ぐな」
「じゃあここ! ――そこも通路!」
「……こっちだ」
すぐに並んで動き始める。
扉の脇にヴァロークの外套の定位置ができ、毛布はサエラと同じ部屋に運ばれる。
キッチン横の小さな棚の一段をサエラが指す。
「使ってください」
ヴァロークは短く頷き本を並べた。
塔に、ひとつ新しい生活の音が混じる。
「ヴァローク!」
ノエルが胸を張る。
「引っ越し完了!」
「……半分だ」
「えっ」
「残りは、明日だ」
サエラは鍋の蓋を開け、器を三つ並べた。
湯気が揺れ、香りが部屋に満ちる。
塔は、少しだけ形を変える。
塔に少しだけ物が増えた。
沈黙も三人分に増えた。
その沈黙は以前よりも少しだけ温かかった。




