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第六章 家の在処

朝早く、塔の上階は温まり、サエラは寝台で静かに眠っていた。眉間の皺もなく銀の髪が枕に流れている。


ノエルはそっと鞄から薄い黒板を取り出した。

掌に微かな熱。指先ですぅっと円を描くと、板の表面が乳白に曇り眠るサエラの輪郭がそこに写された。

少年はじぃっと息を止め、くっきりと色がついたその薄く透明な紙を光に透かした。


「……」


少年はとても嬉しそうに、にっこり笑う。

ノエルはその薄紙を小さな缶に滑らせる。缶の中には、もういくつもの“サエラ”がいた。

缶の蓋がわずかに鳴る。

誰も起きない。

誰も知らない、その秘密。



その日も雪は細く降り続いていた。

ヴァロークは外套を羽織り、固い口調で言う。


「――少し、城に行ってくる」


サエラは不安気に頷いた。

「……お気をつけて」


ノエルは背筋を伸ばして胸を叩く。

「塔もサエラさまもぼくが守ります!」


その言いぶりに、ヴァロークは口の端をわずかに上げ、ノエルの頭に手を置くと扉へ向かった。



王城の回廊は青白く冷たい。


広間にはヴァロークの甥である若い王、宰相、司祭長が待っていた。空気は張りつめ、外の雪音さえ際立たせる。


宰相が先に口を開く。

「王弟殿。――王族だというのに千年の魔女に“愛”を教えるつもりなのですか。禁忌だと承知のはず」


この国の最高司祭もまた、低く重ねた。

「塔の主は“愛”を口にした時、消えてなくなってしまう。遥か昔、千年前の貴方の祖先が彼女に守護を約束したというのに…」


王は沈黙し、ただ皆を見ていた。

ヴァロークは目を逸らさず、言った。


「私は、もう王ではない。王位に興味もない」


宰相と司祭の眉間の皺が深くなる。


「……ただ、彼女を愛している」


誰もすぐには続けられない。

重たい沈黙のあと、王がゆっくり口を開く。


「王弟よ。あなたはいつも責務を選ばれてきた。国のため自身を捨てて。それでも…」


「…私は彼女の側にいることを選ぶ」

ヴァロークは言い切った。


「…分かりました。ただのヴァロークよ。愛する者の元へ、行くがよい」


勢いよく立ち上がり広間を出る彼を大臣たちが止めようと動く。


しかし、王は手を上げ、静かに制した。

「――今までありがとう!ヴァロークおじさん」


ヴァロークの歩みが、一瞬だけ止まる。

けれども振り返らないまま扉の向こうの雪に消えた。



森はまだ白く化粧をしていた。

塔へ戻る小径で、ノエルが小道から飛び出してくる。ヴァロークにぶつかりそうになり、鞄の口が開き小さな缶が雪に転がった。


「…すまん」


ヴァロークが拾い上げる。

缶の蓋がずれて、たくさんの薄紙が覗いた。

銀の髪の輪郭。灯りの下。長椅子の端。


ノエルは俯き、唇を噛む。

「……駒鳥は、禁じられてるんだ。――でも、でも、忘れたくなかったんだ」


ヴァロークは黒板を指でなぞり、短く言う。

「……彼女自身がかける、忘却の術の話だな。知っている」


ノエルがはっと顔を上げる。怯えと期待が揺れる。

少年は大人になるのが嫌だった。大人になってもサエラを忘れたくなかった。それでも時は過ぎていくから、悪足掻きをしたかった。


ヴァロークは缶の蓋を閉じ少年の手に返した。


「これからは――共犯者だ」


ノエルの紫の瞳がぱっと明るくなる。

雪の上に小さな足跡と大きな足跡が並んだ。



塔の扉が開く。


サエラはそこに立っていた。


薄着でどれくらい立っていたのかわからないが、頬も鼻先も少し赤い。

彼女は何も言わず、二人をそのまま強く抱きしめた。


「ただいま!」

ノエルが胸を張って言う。

ヴァロークは一瞬迷い、低く、短く。


「……ただいま」


サエラの紫がかった瞳がふっと潤む。

微笑み、涙の光り、彼女は小さく囁いた。


「――お帰りなさい」


ヴァロークは目を逸らした。

胸の奥で先ほど広間で発した言葉よりも強い感情が暴れ、熱が降りてくる。


“家”を持たない三人の新しい居場所だ。



長椅子に並んで座った二人。

火の音を聞きながら、いつの間にか互いの肩にもたれ合い、眠りに落ちていた。


サエラの銀の髪がヴァロークの分厚い肩でゆっくり呼吸に合わせて上下する。

手と手は触れそうで触れない距離で止まっている。


見つめていたノエルが小さく笑って、鞄から黒板をそっと取り出し、すぅっと指先で円を描く。

薄紙に色が広がり、二人の姿がそこに写る。


「……忘れない」


少年は誰にも聞こえない声で呟き缶に戻した。



雪はやみ、空は明るく晴れている。

台所では、サエラが香草と野菜を刻む音が小気味よく続いている。

鍋に油の音が鳴り、野菜の甘い匂いが立ちのぼる。塩をひとつまみ。


ヴァロークは上階から聞こえる珍しい歌声に少し笑った。そして扉の内側に置いていた荷を肩に担ぎ直す。磨き込まれた鍛錬用の剣、薄い毛布、無造作に紐で縛られた書籍類。


ノエルが先に階段の踊り場に箱を下ろす場所を作りうとする。


「そこは通路だな。塞ぐな」

「じゃあここ! ――そこも通路!」

「……こっちだ」


すぐに並んで動き始める。

扉の脇にヴァロークの外套の定位置ができ、毛布はサエラと同じ部屋に運ばれる。

キッチン横の小さな棚の一段をサエラが指す。


「使ってください」


ヴァロークは短く頷き本を並べた。

塔に、ひとつ新しい生活の音が混じる。


「ヴァローク!」

ノエルが胸を張る。

「引っ越し完了!」


「……半分だ」

「えっ」

「残りは、明日だ」


サエラは鍋の蓋を開け、器を三つ並べた。

湯気が揺れ、香りが部屋に満ちる。


塔は、少しだけ形を変える。

塔に少しだけ物が増えた。

沈黙も三人分に増えた。

その沈黙は以前よりも少しだけ温かかった。

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