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第四章 雪解けの音

塔にやってきたヴァロークにサエラは雨の日に借りたマントを差し出した。


「縫い直してみました……護りの刺繍も」


ヴァロークは手を伸ばしかけ、眉をひそめた。


「……私は、こういうのは……」

兄や甥に遠慮し過剰なまでに華やかさを避けてきた彼は、サエラが手を加えた何故か装飾の多いマントに戸惑う。


そして初めて受け取る、大抵、この国の妻が施す”護りの刺繍”が施されている事に顔を赤くした。


その言葉にサエラは肩を落とし視線を外した。

「……そう、ですか」


声は静かだったが、灰色がかった紫の瞳がふっと更に陰る。

唇を噛んでしょんぼりと俯く姿は、とても幼く見えた。


ヴァロークは天井を仰ぎ見て、短く息を吐き、マントを受け取ると肩に掛けた。

「……すまん。いらないという意味ではない」


厚手の毛織の温もりに胸が少しだけざわめく。


「うわあ!本物の王さまみたい!」

ノエルが跳ねながら声を上げた。


「……やめろ。私は王ではない」

ぶっきらぼうに返すが、耳が酷く赤い。


サエラは柔らかく微笑んだ。

「元国王さま、です」


ヴァロークは答えず、頭を抱えて火の前に腰を下ろした。


ノエルが「王さまだ、王さまだ」と小声で繰り返してぴょんぴょんと彼の周りを跳ね回って、困らせ続けていた。



昼過ぎ、塔の外には雪がしんしんと降っていた。

窓の外の枝々は雪の重さで沈み、森全体が深い沈黙に包まれている。


三人は囲炉裏を囲んで座る。

火のはぜる音、温かな匂い。

サエラが野菜と干し肉を煮込みを匙でよそった。


ノエルは両手で器を抱え込み夢中で口に運んでいる。

「はふはふ……あったかおいしい……!」


ヴァロークは静かにスープを啜り火を見つめた。

サエラはノエルの着ていた上着のほつれを繕っている。銀の髪が焔に照られてキラキラと揺れる。


「……縫い物が得意なのだな」

ヴァロークがふと呟いた。


「私の衣を新しくするのは避けていますけれど……人の衣服を作るのは好きです」

サエラは針を進めながら答えた。


ノエルがぱっと顔を上げて言う。

「サエラさまはね、なんでも直しちゃうよ!ぼくのズボンもこの前、裂けちゃったの!」


「ノエル……それは、言わなくても」

サエラが気まずそうに小さく目を伏せると、ヴァロークは初めて声を立てて笑った。

深い緑の瞳が、柔らかく大きく揺れる。


サエラは驚き針を持つ手を止めた。笑う彼の顔は不思議なほど若く見えた。

ノエルも笑う。つられて小さくサエラも笑った。


三人の笑い声が重なって囲炉裏の火が揺れ、外の雪は深さを増していった。



塔の最上階、サエラの部屋。

窓の外では風が森を勢いよく渡る音が大きく低く唸るように鳴っていた。


サエラは机に向かっている。

ヴァロークはその隣で長椅子に腰を下ろし本を開いていた。真似して絵本を開いていたノエルはがうつらうつらし、ついにはヴァロークの膝に転がってしまった。


「……あったかぁい……」

ノエルは絵本を抱えたまま寝息を立てている。


「おい」

ヴァロークは眉をひそめるがそのまま受け止めていた。


サエラは毛布をノエルに掛け微笑む。

「……なんだか、親子のようですね」


「……私は妻もいないのだぞ」


「……ですが、用心深いノエルが貴方にはよく懐いていますから」


ヴァロークの口元も少しだけ緩んでいた。



風が強い。塔の石壁を渡るその音が、ときに笛のようで、ときに唸り声のようだった。


サエラは筆を置き耳を澄ませた。

「……昔、大昔は、この風を“北の竪琴”と呼んだのです」


ヴァロークは眉を寄せて低く答える。

「…音楽には聞こえんがな」


サエラは口元をかすかに緩めた。そしてぽつりと呟く。


「……嵐の夜は、幼い時から嫌いでした」

サエラがぽつりと言った。


ヴァロークは視線を上げる。

「なぜだ」


「風が強いと身を寄せ合います。身を寄せ合うと、愛が生まれます。そして……そして……誰もいなくなった……」


サエラが大きく震える。

ヴァロークは言葉を探し、やがて不器用な固い声で短く答えた。

「……ここには、私も、ノエルもいる」


サエラは目を細め少し俯いた。

それ以上は何も言わずまた筆を動かした。


ノエルが寝息を立てる。

大きな風の声に混じって小さく囲炉裏の火がぱちぱちと鳴った。


沈黙にぬくもりが満ちていた。



夜深く、寒々しい部屋の壁に灯りが細い影を揺らしていた。書机の前にサエラがひとりぼんやりと座っている。息苦しそうに呼吸を繰り返す。


引き出しを音もなく開く。


薄い金属の鋭利な冷たさ――古いペーパーナイフの刃に触れた途端、目の裏に苦しげな顔ばかりが並ぶ。枯れ木のような腕。冷たくなった身体。


呼吸が浅くなり、刃先が細い手首へ――


「やめろ!」


低く強い声。

振り向くより先にヴァロークの手が彼女の手首を包み、赤い鮮血と刃が床に跳ねた。

灯りがふたりの影を重ねる。


「……眠れなかったのですか」


努めて平静に言うサエラの手は、逃げようとするたびに震え、彼は強すぎず弱すぎない力で留めた。血が一筋細い手首をつたいゆっくりと垂れた。


「……罪は俺も背負っている。自分を罰する心は多少、理解できる。だが……サエラ、私が同じことをしていたら、君も止めるだろう?」


紫の瞳が大きく揺れる。

喉の奥の言葉が、掠れて、呼吸と共に吐き出される。


「……止めます」


「…そうだ、だから、俺も止める」


ヴァロークはもう片方の手で刃を拾い、引き出しのいちばん奥へ押しやった。


「……生きることは罰ではない」


囁きが冷たい部屋に落ちた。



沈黙のあと、ヴァロークが手早くサエラの傷を処置した。されるがままのサエラは、ぼんやり窓の外を見つめる。


サエラの骨張った背を大きなヴァロークの手が落ち着かせるようになでる。突然、滲み出すようにぽつりぽつりとサエラが口を開いた。


「……わたしは、愛さなかったのです。

 言葉にすればわたしたちの種族は死ぬ。だから、避けて、遠ざけて。そうしてひとりで生き残ったのです」


目が遠くを見ている。


「思い出すのは、どれも苦しむ顔ばかり。誰も彼もわたしは……」


言葉が速く、荒くなる。胸の奥からせり上がる熱に押され、細い身体が固くなる。


「わたしは卑怯で、わたしは卑怯だから、生き残った。呼べば届いたかもしれない声を、いつもわたしは選ばなかった。死ぬのがこわくて。

 だから、みんな夢に、いつも現れる。わたしが、誰も、愛さなかった罰。

 その罰を、痛みは……ほんの少し、いつも軽くして……」


涙が零れた。

水滴が頬を伝い、顎の先で止まる。


「怖いのです、眠りが、夢が、長い時が、あったはずの幸福まで、奪うから」


ヴァロークは彼女を正面から覆った。何もかもから守るように。そして驚かせないようにゆっくり囁く。


「……大丈夫、大丈夫だから、私と共に呼吸を」


戦場で部下の呼吸を戻したときと同じように。

サエラは震えながら従い――やがて胸がゆっくり上下するようになった。それでも涙は後から後から溢れてゆく。


ふと、灯りが寿命を終えて消えた。


「……わたし、忘れていくのが怖いのです。

 あの人たちの笑顔を、あの人たちの営みを、その苦しみも、幸福も、生きた証を…!」


「……忘れても、確かにそれはある」


泣き顔のままサエラは微かに笑い、暗闇でヴァロークを仰ぎ見て、幼子のようにたどたどしく聞いた。


「……ある?」


「…ああ。必ず、君の中に」


その瞬間、堰を切ったようにサエラが泣き出す。

サエラがヴァロークの胸に強く縋る。

細い腕が厚い胸元の布を痛いほど強く握った。


激しく慟哭し、子どものように途切れ途切れに『ごめんなさい』と口にする。

優しい暗闇に長く深く孤独と苦しみがとどめなく溢れていった。


ヴァロークは強く抱きとめ、頭の後ろをしっかりと片手で支え、もう一方の大きな手で肩甲骨の間をゆっくりさする。


壊さないように、急かさないように優しく。


彼は知った――知らない類の熱、胸の内側に立ちのぼる激しい熱を。それの名を彼は知らない。


ただ、自分にだけさらけ出された弱さが愛おしく、それを引き出した自分が何故か誇らしく、込み上げるような感情の濁流を感じていた。


やがて泣き声は嗚咽になり、嗚咽は細く小さくなっていった。サエラは胸に額を押し当てたまま、少し照れたように掠れ声で囁く。


「……ありがとうございます。ヴァローク」


名を呼ぶ声は甘く、苦く、やさしい。

彼は短くうなずいた。包む腕に意図せず少しだけ力がこもった。



サエラはベットの上、袖で涙を拭き、窓の外を見た。

大きな窓の外は暗い空が広がるが、星も月も瞬く。案外、灯りがなくても眩しく感じた。


ヴァロークは階下のキッチンで湯を沸かし蜂蜜を落としたカップを彼女の手に持たせた。

サエラはちいさく会釈しひと口飲んだ。


「眠るまで見張っている――ここで」


彼がベットの横に椅子を運ぶと、サエラは突然彼の顔に頬を寄せた。銀の髪が掠める距離にヴァロークは驚き、反射的に身体を引く。


「見張られると、眠れません」


耳元でサエラが呟く。


「なら――」


「違います」


サエラは彼の袖を指先でつかみ強く引っ張った。半ば無理やり布団の上に引き込む。

その顔は泣き腫らして赤く、仕草も子供っぽい。


「あなたも、一緒に眠るのです。……お願い」


言葉は弱々しく震えているが掴んだ手は強かった。


ヴァロークは額に手を当て苦笑に似た息を漏らしたが、静かに布団に身を横たえた。


サエラは満足げにうなずき大きなヴァロークの身体に寄り添うように丸くなる。


長い銀の睫毛が閉じられる。

無防備な横顔に、ゆっくりとした呼吸。


彼女が先に眠った――ヴァロークは胸の高鳴りを自覚した。

彼は自分の鼓動に驚き、目を逸らし、すぐに戻す。逸らしきれない。


「……ああ、厄介だな」


身体を起こそうとすると小さな反発があった。服がまた掴まれ眠りの底から、か細い声がこぼれる。


「……いかないで」


困惑と愛おしさが溢れそうになる。

ヴァロークは体を起こしかけていたのをやめた。

彼女の手に自分の手をそえて、その存外強い力が緩むまで待つことにする。

戦場でも玉座でも無駄に思っていた人を待つ時間が、今は惜しくも感じる。


「……ここにいるから」


小さく囁いた。

たったそれだけで、サエラの指先がほどけた。


彼は静かに横になり、大きく息をし、天井を仰いだ。胸の拍は不規則だが、不快ではない。


――彼はようやく感情に名前をつけた。



夜明け前。窓から雪に光が反射し淡く明るい光が差し込んでいた。


ヴァロークは浅い眠りから目を開け、胸に乗る軽すぎる温かさを見た。


サエラが静かに眠っている。眉間の皺はなく呼吸は深い。


彼はそっと身を起こし、部屋の囲炉裏に薪を入れ、火を起こした。

少しでも彼女の眠りが続くように。


ヴァロークは外套を肩にかけ、扉へ向かう。

去り際、銀髪の小さな頭をそっと確かめるように撫でた。


そして、音も立てずに扉を閉じる。

塔の主の久方ぶりの眠りは太陽が真上に昇るまで守られた。

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