第三章 揺らぎの日々
朝の光が白く塔を照らす時間、夜の冷えがまだ部屋に残っていた。
サエラは机に向かい夜通し筆を走らせていたが、ふと胸の奥がせり上がり、口元を押さえた。
吐き気が昨日から続いている。食事を避ける身体の癖は、千年間ずっと治らない。
サエラの視界が揺れる。
床に倒れそうになって目を瞑ったその瞬間、全身を大きく熱いものに支えられた。
「……大丈夫か」
ヴァロークの低い声。
いつの間にか来ていたらしい。
サエラは彼の腕の熱さに驚き、反射的に逃れようととしたが立てず、今度は抱えられる。
「…大丈夫です」
「…大丈夫ではない」
深い緑の目にサエラは視線だけ逸らした。
「いくらなんでも細過ぎる。あまり普段から食べられていないのか」
答えられずにいるとヴァロークは困ったように眉を下げた。
彼に優しく長椅子に置かれ、壊れ物のように長い銀髪をそっと撫でられる。
「……眠ると夢を見ます」
「……夢を気にすることより生きることの方が大切だ」
吐き気がすぐに収まるわけではない。身体はふらつく。悪夢は恐ろしい。けれど、その一言に重さがわずかに和らぎ、サエラは少し目を閉じていた。
◇
昼を少し過ぎたころ、街へお使いに出掛けていたノエルが鼻を赤くして顔を出した。
紫の瞳が潤み咳をしている。
「……喉がいたい」
サエラは眉をひそめた。
「白花の喉草を煎じなければ。すぐ戻ります」
サエラが外套に手を伸ばすと扉の前に立っていたヴァロークが遮った。
「一人で行くつもりか」
「ええ。森の端までですから」
「――断られてもついて行く」
言い切られて、サエラはわずかに眉を寄せた。
しかし寝台に運んで布団に包んだノエルの呼吸が浅く、押し問答に時間を割くことはやめた。
◇
森は緑の匂いが濃く香った。
川べりに白花の草が群れ、露が光っている。
「根は残して下さい。来年のために」
サエラとヴァロークは共にその川べりに屈み詰んで行く。
サエラがわずかに震えた。吐き気の波が来て、視界が揺いだ。
「――」
言葉の前にヴァロークの太い腕がためらいなく腰に回り込んだ。しかし傷付けないように、落ちないようにそっと。
風に煽られた銀髪の香りが彼に届く。薬草と仄かな石鹸の香り…彼は短く息を止めた。
そして腰の細さに胸が熱くなる。あまりに軽く細い。サエラの一人に慣れた様子、その割に弱々しさのある脆さの対比を感じて、胸の奥が跳ねた。
「すまない。……立てるか」
「ありがとうございます――大丈夫です」
彼の手が離れると、温度だけが残った。
サエラは呼吸を整え白花をまた摘みはじめる。
ヴァロークも膝を折り言葉もなく続けた。二人とも耳だけがこっそりと染まっていた。
◇
大きな雨の粒が二人に叩きつけられる。
もう雨の匂いが濃い。
はっとしてサエラが声を上げる。
「戻らなければ…!」
「待て」
ヴァロークはためらわず外套を脱ぎサエラの肩へ掛ける。
断りかけた言葉は目線だけで静止された。
雨は強く降り出し、すでに道はぬかるむ。歩幅の大きい彼は彼女に合わせ優しく追ってくる。その距離感が何故かくすぐったく感じ、サエラは一生懸命歩いた。
しかし雨粒は大きく強くなるばかり。
ヴァロークがサエラの体調を心配し、大木の根の空洞に二人で身を寄せ、しばし雨をやり過ごすことにした。
◇
外套を纏い、縮こまる。
視界の端で草が入る籠から水滴が垂れる。
二人の距離は近く、息が混ざるほどに密着していた。サエラの下履の布も濡れた肌にひんやり貼りつき、銀の髪も首筋へ細く流れる。
灯りのない森の薄闇。サエラの褐色の肌が薄い白布の生地に透け、膨らみも淡く透けていた。ヴァロークは戦慣れして夜目のきく目を逸らしてみて、すぐに戻す。近過ぎて逸らしきれない。
「……冷える」
彼はサエラの肩から手を回し、その小さな身体も手も両掌で包んだ。
指先の冷たさをゆっくりと摩る。
彼女は一瞬ためらい、それから素直に身体を預けた。二人の胸の鼓動が近くなる。互いの脈が溶け合っていく。知らない温かさにサエラはぼんやりとした。
「…生きることを、罰と思わないでくれ」
雨音に紛れるほどの小さな声でヴァロークは言った。珍しくサエラも素直に小さくうなずいた。
随分と年上な彼女の、その幼なげな様子に彼の視線がまた揺れた。
やがて雨が和らぐのに合わせて温もりが二人の中間に落ち着いていった。
◇
塔へ戻るとノエルは毛布の山から顔を出した。
紫の瞳は熱で少し潤んでいるが目を丸くして笑った。
「二人とも、ずぶ濡れだ……!」
「すぐ温めます」
サエラは魔法で暖炉に火を灯し、乾いた薪を組む。ヴァロークは濡れた外套を彼女の肩からそっと回収し無造作に絞った。
――布越しの体温がお互いまだ残っている。
白花の草を刻んで湯にかけ、蜂蜜をたっぷり落とす。
サエラが甘い香りのするエメラルド色の薬湯が入ったカップをノエルに渡す。
ヴァロークは勝手に注ぎ、黙ってサエラにもカップを渡す。
大人しく受け取るサエラにノエルが意外そうに目を丸くする。
ヴァロークは黙ってノエルに片目を瞑り、ノエルが笑いそうになるのを誤魔化した。
サエラは小動物のように一生懸命ちびちびと口を付けていてそのやりとりは全く見ていなかった。
三つの器に同じ湯気が立ち同じ甘い匂いが満ちる。
「……明日は、お休みにしましょうね」
サエラの声は静かでいつもより柔らかかった。
ノエルがうなずき布団に潜り込む。サエラは優しくノエルの頭を撫でた。
ヴァロークは立ち上がり、短く言う。
「また、来る」
サエラが少し迷った後、はっきりと頷いた。
「……お待ちしてます」
さっき二人で森で分けあった体温はもう冷めてしまって分からない。けれども、ほんの少し胸の奥で鳴る鼓動のリズムが早い気がしていた。




