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第一章 仮初の王との対話

朝、サエラは新しい頁の端を撫でた。未だ空白のそこに眉間に皺を寄せた。


「ノエル」


呼べば階下で箒の音が止み、靴音が明るく響き、螺旋を上がってくる。

金の髪が先にぴょこんと見える。


「はい、サエラさま」


「王弟ヴァロークの元へ行ってくれますか」


少年は一度瞬きをして、大きくうなずくと弾かれたように階下に降りていった。


サエラは棚の上に背伸びをして手を伸ばし、埃を被っていた豪奢な箱に手を翳した。ひとりでに箱が開く。中から紋様の刻まれた古びた木の板を取り出した。表には宝石が埋め込まれその横には王家の紋、裏には彼女の名が刻まれている。


「”呼応の札”これを渡し『書庫の塔がお待ちしています、近日中にいらしてください』と」


ノエルは慎重に受け取り、サエラお手製の背中の皮鞄に入れた。


サエラはノエルの瞳に合わせて作った金色のマントを肩にかけてやり首元の留め具を確かめる。

指先は細いが、動きは手慣れていた。


「今日も冷えます。無理はしないように」


「はい!……蜂蜜パン、持っていってもいいですか?」


「好きにしなさい」


ノエルはにっこりと笑って包みも皮鞄に収める。

サエラは心配そうにそっと髪を撫でた。


「……サエラさま。王城まで反刻です。僕、大丈夫です」


ノエルが励ますように言うが、サエラは塔の下で長々と見送っていた。



森の道から王城の外郭へ向かって歩いていた。

枯葉の上を小さな靴が踏み、ザクザク鳴らす。

鳥が枝を揺らす音に少年は空を仰ぎ見た。

ノエルは皮鞄を背負い直した。


城の門で、ノエルは胸を張り、声を出した。


「書庫の塔から、王弟さまへ!」


門番は一瞥し短い会釈をした。

「やあ、駒鳥くん。今日は大層なお使いだな」

揶揄うように言う。

「ノエルだってば!」


門が少しだけ開く。

王弟は城ではなく、外翼の古い兵舎を改めた棟にいると告げられる。


回廊は冷たいが、サエラの魔法で外套が勝手に身体を暖めてくれていた。

自分自身には無頓着なのに、駒使いに対しては心配性な主人を思い出して、くすりと笑いが漏れた。



兵舎の棟は外から見ても静かだった。

戸口に吊された風鈴が風に微かに鳴る。

ノエルが叩くより早く戸が内から開いた。


現れた男は想像していたよりも大きい。

肩は広く、簡素な服を着、手は硬い。

黒い髪に白髪が交じり、鋭い深い緑の目が少年を見た。それから、力を抜くように目尻を下げた。


「……ご用件は」


声は低く短い。

ノエルは胸を張って木札を差し出す。


「書庫の塔からです。……サエラさまが、お待ちしています」


男は札を受け取り、表と裏を見た。

眉間の皺が深くなる。

視線が少年に戻る。緑の目が、紫の目をまっすぐに映した。


「……私は王ではない」


「はい。王弟さまです」


「…私は、もう何者でもない」


ノエルは返す言葉を探し肩にかけた皮鞄を握った。


「”呼応の札”です。受け取ったら、必ず近日中にいらっしゃるものだと……」


男は短く笑い、首を振った。


「慣わしは王族だけのことだ」


ノエルは黙り、少しだけ泣きそうになる。

ふと、鞄に入れた包みのことを思い出す。意を決して袋から出したパンを彼に差し出した。


「これ、これは蜂蜜パンです。サエラさまが昨日作ってくれたやつです。甘いです」


男は目を瞬かせ受け取った。

匂いを確かめ端を少し齧る。

それから、子供のようにほんの少しだけ目を細めた。


「……うまい」


「はい」


しばらく黙って二人は蜂蜜パンを食べた。

男は札を受け取ったまま、ノエルの頭にぽんと分厚い手を置いた。


「…用件は承知したと伝えてくれ。その内行く」


「……はい」


ノエルは頭を下げ、戸を閉められる音を聞き、ふうと一息付いた。



塔に戻る道は行きと同じ長さだった。

森は静かで風は冷たいが少年の足取りは軽かった。蜂蜜の甘い匂いが少しだけ残っている。


「どうでした」


サエラは扉のすぐ内側に立っていた。

ノエルはうなずいて、首を縦に振るという不思議な仕草をした。


「札は受け取ってくれました。……でも、王じゃないからその内って」


サエラは目を伏せ、眉間に皺を寄せ、しばらく黙った。

彼女は机からもう一枚、別の札を取り出す。

今度は裏に細い文字を刻む。


「もう一度、お願いできますか」


「はい」


少し怒っているような声のサエラにノエルはおかしくなる。

ノエルの手に両手で一瞬触れた。

それは祈りに似た所作だった。彼女は言葉を選び、短く告げる。


「伝えてください。『王でなくても結構。歴史を刻むのがこの塔の仕事です』と」


ノエルは新しい札とサエラを交互に見て、しっかりうなずく。

サエラは最後に小さな布包みを差し出した。焼きたての蜂蜜パン。少年は笑った。



二度目の道は空の色だけが違っていた。

城門の脇では、見張りが笑いながらノエルの肩を叩いた。

兵舎の棟の前でノエルは一度だけ息を整えた。

戸が開く前に、低い声が中から届く。


「…また君か」


男はノエルを中に案内し、椅子に腰掛けた。

まだ温かいパンを二人で食べて男が入れた少し甘いミルク入りコーヒーを飲む。男はまた口にする度、目を細めて少し唸った。


一息つくとノエルは改めて札を差し出し、サエラの言葉を繰り返す。


「『王でなくても結構。歴史を刻むのがこの塔の仕事です』」


男は黙って札を握った。木札が塔の方角へ煌々と一筋の光を射した。


「……厄介だな」


男はぼそりと言い、頭をガシガシと掻いて立ち上がる。椅子の脚が床をこすり、短い音がした。

ノエルは思わず笑う。

厄介だ、と言うときの大人は、だいたい結論が出ているものだ。


「今からか」


「はい。……今日は天気がいいです」


男はその場で着替え、外套を取って扉を開く。

緑の目が一度だけ少年を見、頷く。

歩幅は大きく足音は重い。

けれど決してノエルを置いては行かなかった。



塔の下まで戻るともう日が傾き始めていた。

螺旋階段に薄い光が照らされている。

ノエルは先に駆け上がろうとして、振り返る。

大きな影が一段ずつ重い音を立てて上がってくるのを、確かめるために。


「…古い塔だな」


上階の扉は閉じていた。

ノエルが軽く叩くと、すぐに返事があった。

扉が開く。銀の髪が光を受ける。


サエラはいつもより少しだけ背筋を伸ばした。

彼女は来訪者の顔を見、わずかに会釈をした。


「お入りください」


男は一瞬だけ躊躇い、足を一歩進める。

紙とインクの匂いに戸惑う。


サエラは深い赤の椅子を彼に勧めた。この部屋で浮いている豪奢な装飾が輝く。

じっと見つめてくるサエラと長椅子に気ままに座り足を揺らすノエル。沈黙に耐え切れず男が口を開いた。


「…ヴァローク、と申します」


男が名乗る。

サエラはうなずき、短く答えた。


「知っています。私はサエラ。――この国の王族について書に纏める仕事を大昔の貴方の祖先から承りました」


向かい合う。


「…私は王を辞めたのだが」

「では、空白の頁を作りますか?千年続く歴史書に」


サエラが間髪入れずに言い、ノエルは目を輝かせる。少年はこれから始まる話の重さは知らないが、わくわくするような昔の王たちの話を知っている。


ヴァロークは大きく溜め息をついた。

二人の間の沈黙は暫く続いた。

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