序章 書庫の塔
王城の奥の森深く。古い古い塔の上階はいつもひとつ灯りがついている。
石でできた細い階段ををのぼり切った先の小さくて素朴な部屋。
高く大きな窓。月明かりが降り注ぐ。
銀色の髪に褐色の肌の痩せた人物が窓のすぐそこの大きな机で何か物書きをしている。
月を絹糸にしたような長い髪が、古い羊皮紙の上に流れていた。空気が冷たい部屋は紙とインクとロウの匂いで満ちていた。
彼女は名を問われれば、サエラとだけ答える。
性はあまり聞かれない。長い種族名は千年前にサエラだけになってしまったから。
サエラの手は止まらない。止めてしまえば思い出に沈んでしてしまう。
書くことは息をすることに近い。サエラにとっては。
◇
――扉から、ぴょこんと金色が飛び出す。
少年が書物を抱えて入ってくる。金の髪に灯りで輪っかが出来た。大きな紫の瞳がくりくりしていて、サエラと同じ色なのにくすんだところが一つもなく、宝石のようだ。
「サエラさま!届きました」
サエラは顔を上げ短くうなずいた。
少年は机の端に巻物を置きしばらく静かに彼女の手元を見ていた。筆が走るたびサエラの銀の髪がわずかに波打つ。それが面白いのか、少年は小さく笑った。
「…ノエル、お風呂には入った?」
彼女が聞く。嬉しそうに少年は頷いた。
「…そろそろ寝たら」
ノエルは返事をしない。彼は絵本を開いてサエラの部屋のソファに座った。いつものことなのでサエラは軽くため息をつき、指を軽くふり、部屋を暖めてから作業に戻る。
夜は心を疲れさせる。
それでもいつもサエラは筆を置けない。置けば恐ろしい夢がやってくるから。
彼女の内側に形の定かでない顔がいくつもある。
痩せた頬、乾いた唇、呼びかけに間に合わなかった眼差し。思い出そうとすればするほど、喉が詰まるような苦しさだけが濃くなっていく。
愛という言葉は書くことさえ恐ろしい。
サエラ達の種族は神から呪いを受けたそうだ。それを自覚し、言葉にした時、命の灯火が減ってゆくと古くから言われている。
サエラの種族は滅びた。愛のせいで。
サエラはたった一人なのに、死ぬことを恐れていた。ずっと。
彼女の大きな机の引き出しに薄く光る金属が一つある。古いペーパーナイフ。今はもういない友人に貰ったそれ。サエラは引き出しを開け、指先で冷たさだけを確かめてまた静かに引き出しを閉じた。
冷たさは目を覚まさせる。
息を整えた。
一行、一行と、夜が細く刻まれる。
「サエラさまも食べましょうよー」
再び少年の声がした。今度は巻物ではなく、小さな包みを持って、蜂蜜の甘い匂いがするパンをサエラに差し出している
「ほら昨日作ってくれた蜂蜜パン。少しでいいから」
彼女は首を振った。食べ物の匂いはときどき気分が悪くなる。
少年は仕方なさそうに自分でもぐもぐと食べ、無理に勧めることはしなかった。
「じゃあ、あさは僕の好きなスープ一緒に食べてくださいね!」
少年の言葉に、サエラはかすかに目を細めた。
――不思議な子だ、と彼女は思う。
千年此処にいる間、何度も子供らが来ては去っていったが、ノエルほど踏み込んで来る子は珍しい。
少年はやがて部屋の暖かさと眠気に負けて、サエラが作り直したふかふかの長椅子に丸くなった。
サエラは立ち上がり、ノエルを運ぼうとし、自身の非力さに落胆した。
仕方なくそっと毛布をかけた。小さい背中。息は規則的で正に駒鳥のようだ。
サエラは額に手を当てた。
ふと思う。何も思い出さず、眠れなくなったのは一体いつからだろう。千年よりは前だろうが。
◇
夜明け前、石の螺旋階段で階下に降りてゆく。
サエラは小鍋を取り出し、水を温めた。
規則正しい音で根菜と肉を切る。
迷いなく、乾いたハーブを指先で摘んで落とした。香りが立ち上ると部屋の冷えがほんの少しやわらいだ。
料理は彼女にとって手慣れた仕事だった。
ただ、食べることは、体が拒むことがある。それでも料理は好きだった。
蓋を開けると、鍋から湯気がふわっと上がるのを見る。サエラは誰かのために作るときだけ、食べ物の匂いから来る吐き気が消えることを不思議に思った。
少年が目を覚まし、螺旋階段から顔を出した。
紫の瞳が丸くなり、にっこりしている。
「いい匂い……」
サエラは器を一つ置いた。
つい、と細すぎる手で手を洗うように指示する。
◇
湯気に顔を突っ込み、パンを喰みながら少年は聞いた。
「今日も書くのですか」
「ええ」
少年は器を持ったまま、窓に目をやった。
空は朝だというのに薄暗い。
「前の王さま、来ますか」
サエラは答えずに頬杖をついた。
習わしはいつから続いてきたのだろう。
この塔には時折その代やその前の王が話に来る。
けれど、足音のない日々が、今回は長い。
「天気が悪いから、来ないでしょう」
ようやく口にした言葉は、天気のせいにしただけだった。
少年はうなずき、器の底に残った温もりを名残惜しそうに手で包む。
◇
朝の光が塔の窓から差しはじめる頃サエラはまた筆を持ち直した。
新しい頁は空白のまま残っている。
最近は他の頁の書き直しばかり続けている。
彼女はその空白に指を伸ばし、しばらくなぞった。
サエラは指を離し、窓を見た。
塔の外で鳥の声が一度だけ聞こえた。
少年が掃除をしながら下の階へと降りていく。
靴音が石段に消える。
サエラは深く息を吐き髪を耳へかけた。
今日も此処は灯りは絶えないだろう。王族達の伝記を書くのがサエラの仕事であり、生きることだから。書庫の塔はサエラ共にそうして日を刻んで来た。千年という長い間ずっと。
彼女はこれから知ることになる。
朝がひとつも同じでないこと。
しかしまだこの塔は眠ったままだ。
始まりはいつだって静かであるべきだから。
サエラは遠い空に目を細めた。
風は少し弱まり、塔に日が射し始める。
空白の頁は、今日も静かに王族を待っていた。