62.冥界
長い長い時間。
やがて光が収まると、その焼け跡には一体の獣が横たわっていた。
シンは呆れたようにかすかに苦笑する。
本当にすべてのものを焼滅させるつもりの切り札だったのだ。それを使ってさえ消し去るどころかまだ生きている事実に困惑すら抱く。
「……とどめ、刺す?」
確認するようにアイシスはおずおずと尋ねる。
「いや、やめておこう。……というより、たぶん無理だ」
シンは首を横に振る。
微動だにしない眼前の狼ではあるが、いくらか体に傷は見られるものの致命傷と思われるものはない。おそらく、これ以上戦ってもこれを倒すことはできないだろう。
今の一撃でシンは自身の魔力の大半を消費している。同様に、厳しい戦闘をしながら限界解放を連発したアイシスも体力魔力にほとんど余裕はない。もはや自分たちにできることはほとんどないだろう。。
であるならば余計なことはしないほうがいい。変な刺激を与えて立ち上がられる方がやっかいだ。
という考えもあった。
だけど、それだけでもない。今はこれを優先すべきではないと思っているのだ。
シンにとって何より気になっているのがこの空間のゆらぎだからだ。なんとなく理解できる。おそらくそれはシンのいた場所に繋がっているであろう次元の門であるはずだ。
シンの目的はもとよりこちらなのだから。
「シン……?」
その門の前で立ち尽くすシンに、心配そうにアイシスは呼びかける。
アイシスも、それがシンの目的だということはわかっている。だからこそ疑問なのだ。シンの反応が鈍いことが。
シンはまるでなにかを恐れているかのようにためらいがちにそのゆらぎに手を触れる。
「……なんでだ」
苛立ったような声を上げると、シンはもう一度そのゆらぎに手を押し付ける。だけど、その手は堅い壁にぶつかったかのように何かに阻まれる。
その先に進めない。
アイシスはその隣に駆け寄ると、シンの顔を覗き込む。
そして、その視線の先にアイシスも手を伸ばす。だけど、シンのときとは違い、その手は何にぶつかることもなく、するりとすり抜けた。
「え? どういうこと?」
シンとは異なる現象にアイシスは困惑の声を上げる。
一方のシンは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて言葉を絞り出す。
「さあ……わからないな」
「―――何がわからない」
背後から聞こえた言葉に二人は同時に振り返る。
何の気配も感じなかった。だけど、一度目にしてみればその存在感から目を離せない。
そこに静かに佇んでいたのは一人の男。まるで闇そのものを形にしたような装いを身にまとうその男を見て二人は一瞬で理解した。これは人間ではないと。
むしろ、これが人間の姿をしていることのほうが不思議に思えるくらいだ。
シンは、アイシスをかばうように半歩だけ前に出る。
「……何者だ」
尋ねると男はしばらくシンを見つめた後、視線をぐるりと巡らせる。それはなんと答えるべきか迷っているように見えた。
やがて、その視線が横たわる狼にたどり着くと、男はなるほどと小さく頷く。
「そうだな。ハデス……いや、プルート、とでも名乗っておこう」
男がそう名乗ると、シンは不快そうに目を細める。
その名前くらいはシンも聞いたことがある。
「神だとでも言うのか?」
「神、か。どうだろうな。そのような定義に大した意味があるとは思えないが」
「……それで、俺たちに何の用だ?」
シンは警戒をあらわにすると、何が起こってもいいようにと身構える。
一方のプルートはそんなシンの素振りを気に留める様子もなく、ふわりと軽く手を振る。すると、横たわっていた狼がのっそりと起き上がり、プルートの元へとゆっくりと歩いてくる。
狼はプルートの隣まで来ると、まるで子犬のように伏せる。
プルートはそんな狼を表情を変えることもなく一瞥だけすると、もう一度シンに視線を戻す。
「用はない。見に来ただけだ」
不思議なことにその言葉には全く裏がないように聞こえた。本当にそれだけ。気が向いたから来てみただけだとでもいうように。
むしろなぜそんなことを尋ねるのかとでも言うようなその瞳を見て、シンは逆にたじろいでしまう。
「あなたならわかるのか? ……俺がなぜここを通れないのか」
「なぜ、とは?」
シンが尋ねると、プルートは何が疑問なのかわからないと首を小さく傾げる。
そして、シンの瞳を覗き込むと、理解したというように何度か頷いた。
「そうか。そういうものだったな。人間というものは」
「何の話だ」
「人間とはいつだってそういうものだ。見えないものを見えた気になり、見えるはずのものを見ようとしない」
「だから、どういうことだ!」
その迂遠な言葉にシンは苛立ったように声を荒げる。
だけど、プルートはそんなシンにも特に反応を示すこともなくじっとその眼を見つめる。
やがてシンはそれに耐えられなくなり視線を逸らす。
「そう、そしてそれをわからないふりをするのも人間というものだ」
プルートが言っているのはとても簡単なこと。
「―――汝はもうわかっているのだろう。その答えを。汝の真実を」
シンは視線を落とす。それは無言の肯定だった。
思い当たる状況はいくつもあった。
重苦しく不気味なこの世界。
極めて有名な三つ首の狼。
そして、眼前の男の名前。
いや、違う。本当はここに来る前からなんとなくシンの頭の片隅にはそれが思い浮かんでいた。最初から思っていた。そうかもしれないと。
「俺は……もう死んでいるのか」
「……え?」
その言葉の意味がアイシスにはわからなかった。
何を言っているのか。
だけど、シンの横顔はそれを事実だと受け入れていた。諦めるように。
「どういう、こと? だってシンは、ここにいるのに!」
その言葉はそれを受け入れたくないという部分もあったが、それだけではなく、本当にわからないという意味もあった。
実際、死んでいると言われてもシンはここにいるのだから。
「この男はあちらの世界で死に、そして汝のいた世界に渡ってきたのだ」
「そんな、こと。どうやって……」
「そこに意味はない。偶然、事故、あるいは奇跡。好きなように名付ければいい。稀に起こるただの事象にすぎないのだから」
それはたまたま起こっただけのこと。そこに何者かの意思が介入したわけでもない。
本当に、それだけのことなのだ。
「ただ、疑問ではあるな。そういった場合、大抵は自分の死を自覚しているものなのだが。さて……」
そう言うと、プルートはシンの眼を覗き込む。何かを探り当てるように。そしてしばらく覗くと、なるほどと頷く。
「そういうことか。それで覚えていないのだな」
「……あなたにはわかるのか。どうして……いや、俺の記憶が欠けている理由が」
ずっと気になっていた。
シンはある種の記憶喪失だ。だけど、それが日々の生活に困ることはない。基本的なことはすべて覚えている。両親のこと、家のこと、学校や友人のこと。
ほとんどのことは覚えているはずだ。にもかかわらず、部分的に全く思い出せないところもある。
部分的な欠落。
なぜそんなことになっているのか、これまでずっとわからなかった。そして、自分が死んでいると告げられた今になってもその意味はわからずにいる。
「記憶、か。……まぁいいだろう」
このプルートという男は、そのシンの疑問の答えを持っているようだった。
「そういった記憶の欠落自体は珍しいものではない。汝のように死の記憶を持たないものもいる。だが、そういったものは忌まわしい死に魅入られたものがほとんどだ」
記憶の欠落、それは強い感情によってもたらされるものだ。その事象に関する強烈な忌避感。
だからこそ死の自覚がないものはいないわけではない。苦しい死、たとえば悲惨な死を迎えたものにとってそれは耐え難い苦痛の記憶となる。ゆえにその部分の記憶が抜け落ちることもあるのだ。
忌まわしい死の記憶、それは当人にとっては必要のないものだ。だけどそれを知らないゆえに自身の状況を理解できないことにもなる。
自身の死を認識できないのだ。
今のシンと同じように。
「そんな……」
アイシスはシンを案じるようにその眼を見つめる。
シンにもそれを忘れなければならないほど悲惨な死が訪れたのだろうかと。その苦しみを思い、アイシスは顔を歪める。
だけど、シンにはその記憶もなく、なんと言ってよいかわからず苦笑を浮かべることしかできなかった。
「そうではない」
意外にも、というべきか、プルートはそんなアイシスを気遣うように否定する。
「死である以上、それが良きものだとは言わないが、この男に訪れた死はどこにでもある普通の死だ」
そのなんとも言えない表現にシンは口元を歪める。それをどう判断していいものか理解が及ばないのだ。プルートの物言いから考えると、病気などの類ではなく、おそらくは突発的な事故のようなものかもしれないと予想はできるが、だから良かったと言う気にもなれなかった。
ただ、そこまで悲観するようなものではないのだろうとは思えた。
「……じゃあ、なぜシンは、それを覚えていないのですか?」
「ふむ、それを聞きたいと? ……まぁそれも良いだろう。知りたい、それもまた人間か。では語ろう。かつてあちらの世界で生きていた、シンという男のことを―――」
ここまで読んでいただいてありがとうございました。楽しかったと思ってもらえたなら幸いです。
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