第八章 時の布の工房(旧街区)
旧街区は道がせまく、屋根どうしがほとんど手をつなぐほど近い。糸屋と革屋の間、細い暖簾の向こうに仕立屋の作業台があった。のりの匂いと、布を切るしゃりっという音。水車の回る音が遠くでゆっくり鳴っている。
「工房で使える形にしよう」仕立屋は笑って、白い布と糸を出した。「まずは手首の紐。出立前のハイタッチ(雪巴の工房だけの合図)の前に、きゅっと結んで合図にする」
糸をとおし、三分結びを見せる。小さな輪を作り、くるりと回して軽く留める。心の中で三つ数えて、端を引くとするりとほどける。「結ぶ→三つ数える→ほどく。切り替えの合図だ。固くしすぎないこと」
つづいて、細い刻針で紐の内側に小さな点を三つ打つ。「ここまで進めたら一息戻る、の印。今日は三つまで。全部やろうとしない」
「持ち歩き用の道具も欲しいです」
「用意しよう」
仕立屋は小さな板を二枚(片手大)と、赤いもどる矢印の札を十枚、布の袋に入れてくれた。板の端には○△×の小さな刻み。袋の口には、調律中の小札を結べるように細い糸が通してある。
雪巴は手首に紐を巻き、三分結びを軽く締めた。深呼吸をひとつ。輪のゆるみが、胸のゆるみと同じ速さでほどけていく。店の外で手を合わせ、音を短く「パン」。
「明日から、その合図で始めな」仕立屋はうなずく。「困ったら、三つ戻ってからまた進めばいい」
帰り道、雪巴はノートに一行で書いた。〈道具を軽く、小さく。合図を短く〉。袋は思ったより軽い。工房の扉までの坂を上りながら、雪巴は三つ数えた。数字と一行で道は開く。
・出立前のハイタッチ……雪巴の工房だけの内作法。心をそろえる合図(外では使わない)。
・携帯セット……片手大の板2枚/赤いもどる矢印の札/小札「調律中」。