第二十章 過去の自分に
夜更け、工房に人影はない。窓を少し開けると、港から月白の風が入ってきた。机には『時衣手引き』の最終版。表紙の帯には白と黒の糸。今日は正式採用の印も受けた。アジェルは書式を直しながら小さく「……仕方ねーな」と言い、灯を落として帰っていった。砂時計を返し、紫の砂の細い糸を見ながら三つ数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。
むかしのわたしへ。こわい夜は、まず三つ数える。言葉を急がず、目と耳でようすを見る。見えたことを一行で書き、次にやることを一つだけ決める。それだけで、道は開く。
道具のことも書く。指で押すとゆっくり元にもどる布は、息をそろえるための印。赤いもどる矢印は退き道の目印だ。危ないときは矢印まで一歩さがり、ひとつ前の手順や安全な場所に戻って仕切り直す。板の印は○△×。事前相談は増えれば○。中断と再作業は減れば○。外では鐘を二回鳴らす。うちの工房では、出立の前に手首の紐をきゅっと結ぶ。通路は二歩ぶん。近すぎず、遠すぎず。迷ったら退き道へ戻り、点検三分をしてからまた進む。戻る自由が先にあるから、前にも出られる。
断絶の儀を済ませて、時間の台帳は自分の手に戻った。離れてから出会えた“境界線を守る人”は、距離の設計を教えてくれた。「君の戻りの速さは君が決めていい」。覚えておいて。君の五分は君のもの。余白は浪費じゃなくて燃料。世界は敵ばかりじゃない。課題は相手になり、やがて味方にもなる。だから、諦めないで。
砂が落ちきる前に封をした。蝋をひと押しし、手首の紐をそっと結び直し、窓の風を一口だけ吸う。廊下の空気はほの白い。三分で戻る。三分で進む。大丈夫。歩き出すのに、ちょうどいい。




