容疑者
紺色の作務衣の上から使い古された前掛けをした亀井は、有田の顔を見てあからさまに眉根を寄せると、しかめ面のまま店内に消えた。普通の人間はアリバイなど尋ねられることはないから、容疑者みたいな聞き込みをされた時点で警察嫌いになるらしい。
そんなこととは知らないホームズは、颯爽と暖簾をくぐって店内に入った。
「もう、やってますか」
亀井が答えるより早くダウンジャケットを脱いで、カウンター席に座ろうとしている。
続いて入った有田が、ホームズの横に腰を下ろすと、
「この女は刑事さんの連れか? まだ何か用があるのか」
亀井は、しかめ面をさらに渋くしている。
「私は警察じゃないですよ。一杯飲みたいなと思っていたら美味しそうな焼き鳥屋さんがあったので、是非食べたいと有田刑事におねだりしたんです。いいでしょ?」
大きな丸い眼鏡が野暮ったいとはいえ人懐っこい笑顔を向けられて、亀井は断る言い訳を思いつかないという顔をしている。
聞き込みの最中とはいえ今日は非番だし、よくよく考えたら今日はベイカー街のコーヒーしか胃に収めていない。店内に染み込んだ焼き鳥の香ばしい香りの誘惑に勝てるはずもなく、お互いのコップにビールを注いだ。
ホームズは乾杯をした後、眼鏡を外してケープの端でレンズを拭いている。
「なあホームズ、その丸いアラレちゃん風の眼鏡が探偵のトレードマークなのかい? もう少しおしゃれな眼鏡もたくさんあるんじゃないのか」
「アラレちゃんとはずいぶん失礼ね。未明君は『シャーロック・ホームズ』って映画を見てないの?」
「ああ、イギリスとアメリカ合作のアクションものなら見たよ。以前に敵同士だった美人泥棒からの依頼で危険に巻き込まれるんだよな」
「やっぱり未明君は、美形のレイチェル・マクアダムスが印象に残ってるのね。私はなんてったって主演のロバート・ダウニー・Jrね。プライベートでのサングラス姿が大好きなの。私にサングラスは似合わないけど、同じ形のこれなら似合うでしょ?」
ホームズは右手をフレームに当てて、少し斜め上にすまし顔を決めた。自分では気に入っているようだ。
ビールを二本と焼き鳥を数本ずつ堪能してほろ酔いになったホームズが、いつの間にかしかめ面ではなくなっている亀井に声をかけた。
「大将は二週間前に亡くなった早苗さんと以前トラブルになったことがあるんですってね」
ホームズのストレートな質問には慣れているはずの有田も少し焦る。。
「トラブルだなんて……あれは、タチの悪いお客がウチの看板を蹴倒してそのまま行ったもんだから追いかけただけだ。たまたまそいつがさなえに入っていったんで、あの店の中で言い争いになったけど、もう随分昔の話だよ。しかも、そのとき女将は一生懸命謝ってくれたんだ。トラブルになっただなんてとんでもない。近所のよしみで惣菜をおすそ分けしてくれたり、俺も焼き鳥を差し入れたりしていたんだ。あんないい人を誰が殺したんだよマッタク……。それを俺が殺したんじゃないかみたいな聞き方する刑事がいるから頭にくるよ」
不満を愚痴りながら、有田の顔をジロリと見た。
ホームズは有田に向かって軽く両肩を上げると話題を変えた。
「この辺りは人通りが少ないんですね」
暖簾を出して一時間近くになるのに、この店に入って来る客はおろか前の路地を通る人影もない。
「そうだな……日曜日ってのもあるけど最近はめっきり不景気で、裏通りの飲み屋としては上がったりだ」
亀井の表情が曇り、本当に厳しいという顔つきをしている。
「でも、亡くなった早苗さんのお店は儲かってたんじゃないんですか」
聞きにくいことをさらっと聞けるのがホームズらしい。
「そうかな……あそこに入る客はここから丸見えなんだ。朝方までやってるから深夜になってもひとりふたりの客はいたようだけど、常連が四時間も五時間も居座っていて、そんなに儲かってたわけじゃないと思うぜ。ま、ウチも余所のことをとやかく言える状況じゃないけどな」
「事件の夜はお休みだったんですよね」
「そうなんだ。俺が居れば犯人をとっ捕まえてやったのによ」
亀井は背負い投げのゼスチャーをして悦に入っている。確かに、この店の入り口は引き戸になっていて上半分が透明なガラスなので、のれんの合間からさなえに向かう客がよく見える。亀井に捕まえられたかはわからないが、有力な目撃者になっていた可能性は大きい。
「そうですよね。ところでこのネギマ、とっても美味しいですね。写真を撮ってもいいですか」
ホームズがやや大げさに感動したが、鶏の柔らかさとネギの焼き加減が絶妙で、本当に美味しかった。
「ああいいよ。そんなもの撮ってどうするんだい?」
料理を誉められた亀井は嬉しそうに破顔した。
「SNSに写真をアップさせてください。ここの串はどれも若い人の好みに合いそうですよ」
亀井にSNSは理解できていないようだったが、見るからに上機嫌な顔になっていた。
「当たり前よ。ひとつひとつ素材にこだわって串の打ち方を変えているんだぜ。でもな……昔は、つくねとか赤バラなんていうのを注文する客も多かったのに、最近はおたくらみたいに安いネギマや皮しか出なくなってね……」
ホームズの話術に馴染んできた亀井から皮肉っぽい台詞まで飛び出した。
「そうそう……さっきからメニューを見ていて気になってたんですけど、この『赤バラ』とか『白バラ』って何ですか? 薔薇の花じゃないですよね」
「赤バラってのは牛のバラ肉のことで、白バラってのは豚バラ肉だよ。東京じゃ珍しいけど、俺の育った九州じゃ焼き鳥屋で牛や豚の串焼きがあるのは当たり前だったさ」
「あ、そういえば私も九州を旅行していた時に焼き鳥屋さんで『バラ』を食べたことありますよ。その時は『バラ』って一種類しかなくって、豚肉だったですけどね。そっかあ、焼いたら白くなるから豚肉を白バラって呼ぶんですね」
「お、あんた九州に行ったことあるのかい。いいトコだろう……」
このままだと捜査から大脱線しそうな気配を察した有田が、話を適当に遮って店を出ることにした。
次に、真鍋が経営する品川の運送会社に向かった。田端から品川へ行くのに、内回りか外回りかを確かめるために路線図を見ると、ほぼ反対側に位置している。電車で三十分とは、かなり遠くまでわざわざ飲みに来ていたことを再認識した有田だった。
真鍋の会社も経営が思わしくないのだろう。午後八時を過ぎて従業員がいなくなった事務所内で、ひとり書類の整理をしていた。
「こんばんは」
有田がガラス戸を押して、にこやかに声をかけた。
「ああ、刑事さんか。まだ何かあるのかい」
真鍋は有田をチラッと見ただけで無愛想に返事をすると、また下を向いた。
「もう一度事件の日のことをおうかがいしたくて……」
「何度も話しているけど、俺はあの日飲みすぎていて、電車に乗ったトコまでは覚えているが、その後屋台に寄ったことすら覚えていないんだ。勘弁してくれよ。屋台の親父さんが証言してくれなかったら、俺のアリバイなんか自分でも説明できなくて、危うく殺人犯にされちまうトコだった。もう疑いは晴れたんじゃなかったのか」
真鍋は下を向いたまま不満をまくしたてた。これでは表情が読めない。
「いや、真鍋さんに犯行が無理だということは、警察としても理解しています。今日は、さなえに居たときの事をもう少し……」
有田の言葉を引き継ぐように、ホームズが口を開いた。
「安岡早苗さんとは昔からの知り合いだったんですか」
「いや……最近になって通い始めたばかりだったんだ」
真鍋が顔を上げながら答えて、初めてホームズに目を向けた。
「誰だ? あんた」
「有田刑事の知り合いの私立探偵です。ホームズっていいます」
「探偵? あんたなんかが殺人事件に首を突っ込んで大丈夫なのか」
真鍋が不思議に思うのも無理はない。ホームズは女性の中でも小柄な方なので、探偵みたいなタフなことをしているようには見えない。しかもさっきまで飲んでいたビールが効いて、ほんのり桜色の頬をしているし、ダウンジャケットとジーンズ姿とくれば、とても捜査に同行しているように見えないだろう。
「大丈夫です。こう見えて私、頑丈なんですよ」
ホームズがいろんな意味で頑丈だと有田は知っているが、真鍋は首を傾げたままだ。
「真鍋さんって、随分遠くまで飲みに出かけているから、てっきり昔からの知り合いかと思っちゃいました」
あっけらかんとした口調だが核心の疑問をぶつけている。
「そんなことないよ。半年くらい前に取引先の社長に連れられて行っただけだよ。そんなに親しくしちゃいない」
暖房が効いているとも思えないのに、真鍋は汗ばんでいた。
「真鍋さんがお店にいたのは二時間くらいなんですよね。その間、早苗さんの様子に変わったことは見られませんでしたか」
「別に……普段から明るい女将だったからな。ただあの日はいつもより、ちいっとばかり上機嫌だったようだけど、ビールを飲みすぎていたんじゃないのか」
ホームズの質問テクニックによるものなのか、真鍋は真面目に答えている。
「そうなんですか……早苗さんは、近々お店をリフォームする気だったみたいですね。お客さんは多くなかったようですけど、どこからかまとまった収入の予定でもあったんですかねえ……」
ホームズがひとり言のように呟いて、真鍋の反応を見ていた。
「それはないんじゃないか。ずっとリフォームしたいとは聞いていたけど、夢物語を話しているんだと思っていたよ。あそこは狭いけど満席になることはなかったし、ゆっくりできて良かったんだ。安く飲めるからたまに行く常連でも長居できる気楽な店だったよ。だけど、とてもリフォームできるほど儲けていたとは思えないな…………」
そこまで話して口を閉ざした真鍋の微妙な目の動きを、有田もホームズも見逃してはいなかった。
「ずっと前から早苗さんは、そんなことを話していたんですね」
ホームズが感心するように念を押すと、真鍋は慌てて額の汗を拭った。
「いや……もちろん半年前からのことさ」
「真鍋さんは信頼されていたんですね。常連になったばかりの人に、なかなかそこまで話しませんよね」
ホームズがおだてるように話を繋ごうとしたが、真鍋は汗を拭うと冷静になっていた。
「もう勘弁してくれよ。俺だって忙しいんだ。帰ってくれないか」
忙しそうに書類に向かったが、集中して仕事をしているようには見えなかった。
「最後にあとひとつだけ教えてください。さなえの『キノコスープ』って美味しかったですか? 私、キノコ大好きだから一度いただいてみたかったなあ」
ホームズはニコニコしながら無邪気そうに尋ねたが、『キノコスープ』という言葉を聞いた途端に真鍋の顔色が変わった。
「知らん! 俺はキノコが大嫌いだからな!」
先ほどまでとは別人のように大きな声だった。
「それに、俺は女将から『大物になれない人は嫌い』ってフラれたくらいの下っ端だからな。これ以上俺に聞いても無駄だ。帰ってくれ!」
真鍋は、大きく肩で呼吸をしていた。
「フラれたってことは…………」
なおもホームズが食い下がろうとしたとき、事務所の電話が鳴った。
渡りに船とばかりに表情を社長の顔に戻して、真鍋は受話器を取った。どうやら取引先からのようで長引きそうだ。真鍋はふたりを見ると、「まだ居たのか」という顔をして、追い出すように手を払った。
「何かを隠しているとしか思えないわね……」
真鍋の会社を後にしたホームズが呟いた。
「そうなんだ。最初の聞き込みのときから、捜査本部でも『何かを隠している』と睨んでいるんだが、それが事件に関係するのかわからないから、それだけで引っ張ってくるわけにもいかないんだよ」
事情聴取の際に怪しい態度をとるのは、犯人だけでなく普通の人間にも見られることなので、それだけで容疑者になることはない。実際に真鍋を任意同行できるだけの材料はなかった。
「それよりホームズ……さっき『さなえにリフォームの予定がある』って話を真鍋にしていたよな。その前の鳥やすでも『儲けていたのでは?』なんてカマをかけていたようだけど、何か気になることがあるのかい?」
「さなえに改装関係の雑誌が不自然に多いなって思ったの。それにカウンターの横に張り付けられていた名刺で、リフォーム会社の人の二枚の名刺だけ、他のに比べて新しかったのよ。だから近々リフォームする計画があったんだろうなって思ったの」
「じゃあ、さっき真鍋が顔色を変えるくらいに反応した『キノコスープ』ってのは、いったい何だ?」
「それも、さなえの店内に貼ってあったでしょ。『キノコスープ復活しました』って……。そのメニューの紙もまだ白かったから、ここ一年くらいの間に再開したものでしょうね。それも『復活』っていうくらいだから、昔の看板メニューだったとか……」
そういえば有田も、店内に整然と貼られていたメニューの中で、一枚だけ色褪せていないメニューがあったことを思い出した。
ホームズの事務所に戻り、これからの捜査方針を打ち合わせることにした。有田としては、所轄の捜査本部よりここで考えを整理する方が落ち着く。
ホームズはパソコンにスマホで撮影した写真を取り込みつつメモを加えて整理している。いつの間に撮ったのか、真鍋の会社の事務所内を撮影した写真もあった。
「今日の聞き込みで収穫はあったかい?」
「そうね。亀井さんも真鍋さんも、私の質問に必然的な行動を取ってくれたわ。亀井さんは完全にシロと思って間違いないでしょう。事件が解決したらまた美味しい焼き鳥を食べに行きたいわ。次は是非赤バラを、食べてみないとね」
相変わらず独特な思考回路だ。こんなとき有田は、ホームズの頭の中を解剖して仕組みを見てみたいと思うのだ。
「怪しいのは真鍋さんね。早苗さんと出会ったのは、何年も前だと思うわ。キノコスープのことも絶対に何かを隠しているわね」
「参考人として呼べそうかな」
「それはまだ無理でしょうね。何が怪しいのかもわからないもの」
「明日の捜査会議で、真鍋に張り込みをつけてはどうか提案してみよう」
「私ももう一度真鍋さんと話ができれば、何を隠しているのか核心を探ることができると思うわ。それと、さなえのキノコスープがいつ頃のメニューにあったのかがわかるといいわね。そして、復活したのはいつからなのか……」
「わかった。そっちの方は、もう一度常連にあたって調べてみるよ」
ホームズとの合同捜査初日はここまでで解散することとなった。