第十六話 「その花の名前は「デルフィニウム」。花言葉は「傲慢」」
「デル! ここから出よう! ここにいても、あんたは幸せになれない!」
手を差し出してくれた少女の手に向かって、俺は腕を伸ばした。
「行く! シャガとならどこでも行くよ!」
俺の手を、彼女は温かい手で受け取ってくれた。
自由で、天真爛漫で、明るかったシャガ。
いつも目がキラキラ輝いて、どんな絶望に襲われても希望を捨てなかった。
俺は、そんなシャガが大好きだった。
元々、俺は自分の生まれた環境に疑問を持っていた。
物心ついた時から聞かされた言葉がある。
「あなたは貴族だから」
その後に続く言葉は、いつも己を縛る言葉ばかり。
「成績は優秀でなくてはいけない」
「魔力は強くなくてはいけない」
「伝統を重んじなくてはいけない」
「だって、貴族の人間だから」
だから……、何だよ?
別に、「貴族がいい」と望んで生まれたわけじゃない。
自分の知らないところで、自分の生きる道が決まっている。
幼心に、「なんてつまらない人生だ」と思った。
その気持ちを隠せるような大人でもなかった子供は、親・親族から疎まれた。
「この役ただず!」
「我が家の面汚しだ!」
「死ね! お前なんぞ生きる価値も無い!」
何度も床に叩きつけられ、何度も殴られた。
「悪魔がとり憑いている!」とか、鞭で背中を打たれた事もある。
ますます嫌になった。
国民から尊敬されるべき、雲の上の存在である筆頭公爵の人間が、そこらへんのゴロツキとやっている事が変わらないのだから。
顔や体に生傷が絶えなくなってきた頃、邸宅の裏庭でその少女と出会った。
「あんた、その傷、どうしたの?」
その子はポケットいっぱいに食べ物を詰めていた。
ボサボサの黒い髪に、一重の目を持っていた女の子。年は俺と同じくらいで、雑巾のような衣服に身を包んでいた。
両親に知らせる気はなかった。
それくらいの食べ物を盗まれたくらいで困るような家でもない。逆に、泥棒に侵入された事で慌てふためく奴らの顔が見たかった。
「母上にやられた」
ぶっきらぼうに答えれば、少女は俺に近づいて、衣服の端で俺の傷口をそっと拭いた。
「痛いかい?」
「……」
奇妙な感覚だった。
心に何かが満たされていくような気がした。今まで自分は空っぽだなんて、思いも寄らなかった。
「……痛い」
汚れという汚れを吸い上げてそうな不衛生な布なのに、不思議と嫌な気分にはならなかった。
むしろ、ずっと続いて欲しいとさえ願った。
「水で洗いなよ。あんたのとこの水、綺麗なんだろう?」
どういう意味なのか、当時は分からなかった。
「水は透明で綺麗なもの」しか見た事がない。外の世界を知らな過ぎた。
「……?」
よくわからないまま、俺は首肯する。
ふと、誰かがこっちに近寄って来る気配がした。
すぐに、少女はその場から立ち去ろうと駆け出した。
「じゃあね。身体に気をつけて」
「あ、また来るか?」
思わず俺は、彼女に声をかける。
なぜか離れたくなかった。また会いたかった。
「俺はデルフィニウム。お前は?」
名前を告げると、少女は振り向きざまに優しく微笑んだ。
誰の笑顔を見ても何も思わなかったが、この少女の笑顔だけは心を動かされた。
綺麗だ……。
「シャガ」
その美しい名前を言うと、塀の外へと消えていった。
それから、俺とシャガはよく裏庭で出会った。
何をするわけでもない。
ただ、よくおしゃべりをした。
俺の知らない世界を教えてくれるシャガの話は、とても興味深く面白かった。
例えば、シャガはいつも帰り際に「身体に気をつけて」と言う。
「なんで、言うのか?」と尋ねれば、シャガはこう答えた。
「身体が動けなかったら、何も出来ないじゃないか。生活する事も、夢を追う事も出来ない」
もし、身体が動けなくても、執事やメイドがいるだろうと考えていた自分は、ハッとさせられた。
そうか。それは貴族だけの特権なのだ。
食べ物がいつもあるのも、貴族だけ。
その証拠に、シャガのポケットにはいつも食べ物がいっぱい詰まっていた。
親の稼ぎだけでは、兄弟、祖母を食わせていけないらしい。
俺は気にしなかった。
むしろ、誇りに思ったくらいだ。
最近になって、台所から食料が消えている事に、やっと厨房にいる奴らは気づいたらしい。「泥棒が入っているかもしれない」「いや、ネズミか野犬か」と憶測が飛び交う。俺の両親までもが不安と怒りで焦っているのだから、笑いが止まらなかった。
「お前はすごい奴だ」
シャガに会う事自体が、嬉しくなってきた頃。
尊敬と感謝の意味を込めて、俺はシャガを褒めた。
しかし、シャガは首を振る。
「そんな事ない。泥棒なんて褒められる事じゃない」
「でも、自由だ。俺は羨ましい」
「……」
思い詰まった目をして、シャガは俺の額の傷に手を触れた。
昨日、父上に殴られた痕だ。少し傷むがシャガが触れれば、天国に来たかのように、心地が良かった。
「ねえ、デル。ここから出よう」
突然、シャガは俺の手を握った。
夢心地から現実に引きずり戻される。
ここから……出る……?
「このままじゃ、あんたは幸せになれないよ」
手を差し出すシャガに、俺は意味をやっと理解する。
ここから出て、ツヴィトークを捨てて、自由に生きる!
俺は思いも寄らぬ申し出に、手を握り返した。
「行く! シャガとならどこでも行く!」
俺達はしっかりと手を握り、笑みを交わした。
外の世界に詳しくはない。
でも、シャガと一緒なら、どこでも行けるし、何でも乗り越えられるような気がした。
気がした……だけだった。
「やっと見つけた、ドブネズミ」
前兆も無く。
頭上から嫌な声がした。
冷たくて、甲高い、嫌味な声。
母上の声だ。
その瞬間。
何かが俺の後頭部を強く叩いた。
「っ!」
あまりの痛さに悲鳴すら上げられず。
俺は意識を失った。
気が付けば。
いつもの天井の下で、俺は寝かされていた。
「くっ……」
頭が痛い。
視界が歪む。
気持ちが悪い。
重たい体を引きずって、すぐに母上の元へと向かった。
なぜ、自分はベッドにいるのだ?
シャガが目の前にいたと思ったが、夢だったのだろうか?
母上は自室で、新しいドレスを新調する為、仕立屋が持ってきた生地を見ていた。
「母上……」
「やっと起きたのね」
俺の方をチラッと見ただけで、母上は再び生地の山に視線を戻した。
「変なネズミを連れてこないで頂戴。仕事が増えて、大変だったのよ」
「シャガはどこですか……?」
「感謝の一つも言えないの? 本当に嫌だ、こんなのがツヴィトーク家の跡を継ぐなん……」
「うるせぇ!!」
俺は咆哮し、気が付けば、母親の胸倉を掴んでいた。
「ひいっ!」
母上の顔は恐怖と痛さで歪んでいた。
さんざん俺を殴ってきた母親の震える姿は、最高に愉快だった。
「いいから、教えろ! ババア!」
「誰か……!」
「教えろって言っているんだ!!」
母上が座っている革張りのソファを乱暴に蹴る。
振動が母上の肝をつぶし、彼女はすくみ上った。
「街はずれの絞首台……に……」
絞首台!?
俺は屋敷を飛び出した。
俺の領土では見せしめの為、犯罪者を公衆の面前で絞首刑にする。
そして、一日、放置するのだ。
そこに、シャガが連れて行かれた!
平民が筆頭公爵の家に何度も盗みを働いた。死刑になってもおかしくない。
頭が痛い事も、けだるい事も忘れて、ただひたすら走った。
「シャガ……シャガ……」
嫌な予感を押しのけるように、シャガに対する想いが膨れ上がる。
会いたい、会いたい、会いたい。
シャガに会いたい。
もう頭の中は、それしかなかった。
絞首台に到着した。
人が集まっている。
刑が執行される前に間に合ったか……!?
「シャガ!」
シャガに会えた。
やっと会えた。
「あ……」
首がぶら下がった状態で。
二度と笑わない、二度としゃべらないシャガが……そこにいた。
吸い寄せられるように、俺は絞首台の下に歩み寄った。
「何だ!? お前は!」
見張りの兵が俺を制する。
俺の姿を見て、違う兵がそれを止めた。
「やめろ。デルフィニウム様だ」
「え。あ、あのツヴィトーク家の跡継ぎ……」
兵達の戸惑う言葉を聞き流しながら、俺はシャガを見上げた。
「シャガ……」
ぶら下がる足を優しく撫で、その指先にキスを落とした。
唇から伝わる体温はまだ温かった。
少し遅かった。
もっと早く起きていれば助かったかもしれないのに……!
「……シャガ……シャガァァァァ!!!」
大衆の面前で、俺はただひたすらシャガの足に抱きつき、泣き続けた。
ツヴィトークの人間が迎えに来ても、その場から離れようとしなかった。
無理矢理、引き離されるまで、俺はずっとシャガの傍にいた。
「……」
目が覚める。
空に浮かぶ月は、まだ高い。
朝はまだ遠いようだ。
ベッドのそばには、床でナニカが寝ていた。
月明りに照らされ、その黒髪が照らされる。
「……」
なんで拾ったのだろう?
俺は頭を抱えた。
黒髪に一重の目。
それだけの理由で、この子を拾ってしまった。
しかも、「シャガ」なんて名前を付けて。
「ハハハ……。馬鹿ですね、私は」
あれから何十年も経つのに、俺はまだシャガの面影を追いかけている。
おかげで、成人しても誰も愛する事も触れる事も出来ない。
「シャガ」と名付けた少女を大切にすれば、心の隙間が埋められると思った。あの時、満ちた心を再び取り戻したかった。
だが、無理だった。
そもそも、他人を大切にするという事が分からない。
親から愛されていなかった。
シャガといた期間も短かった。
気が付けば、俺は憎い両親と同じことを少女にしていた。
少しでも失敗すれば、この子を殴り、言葉で傷つけ、不愉快な思いをした時は蹴り飛ばした。
「シャガ……」
子どもを傷つけているなんて、きっとシャガは軽蔑するだろう。嫌がるだろう。悲しむだろう。
それでも。
それでも、俺は俺を止められなかった。
愛し方を知らないのに、このシャガを手放せない自分がいる。
でも、もう他に、孤独を埋める方法が分からなかった。




