第十四話 「その花の名前は「アリウム」。花言葉は「無限の悲しみ」」
その日の夜。
星が空気を冷やしていく中。
震える肩に薄手の羽織をかけて、アガベは自室の中を歩き回っていた。
「あまり私を不愉快にさせない事ですな。……優秀なアガベ令嬢なら、おわかりでしょう?」
フルール侯爵の言葉が、ずっと頭の中で回っている。
(どうすれば、シャガを手放さなくて済むかしら)
最初は、そう考えていた。
だが、気が付けば、「家族を救う為にも、シャガを素直に差し出すべきかしら」に変わり始めている。
アガベは首を振った。
(ダメ。シャガは教授と再会しても、喜んでいなかった)
教授と出会ったシャガは、手負いの小鹿のように怯えていた。
アガベの直感が告げる。
教授にシャガを渡してはいけない!
シャガは大事なメイドだ。独りぼっちになってしまったアガベが、彼女の存在にどれだけ救われた事か。
だが、そのシャガを守ると、家族が破滅する……。
家族をとるか。シャガをとるか。
残酷な選択を迫られる事になってしまった。
出口の見えない悩みに、アガベが悶々と苦しんでいるところに、扉をノックする音がする。
「アガベ様」
シャガだ。
先ほどよりは顔色は良い。
だが、絶望で押しつぶされそうな表情をしている事には変わりなかった。
アガベの胸が苦しくなる。
「シャガ。どうしたの? 湯浴みをして、もう休みなさい」
これから冬が来る。寒さが増してくるだろう。
羽織の上から自分の腕をこすりながら、アガベは薄すぎるメイド服を見つめた。
(今度、冬用のメイド服を頼まないと……)
そんな事を考えると、何だか切なくなってしまう。
三日後には、いなくなってしまうかもしれないのに。
「あの……お願いがあって参りました」
「ん?」
「アガベ様、お願いです。私を、デルフィニウム教授の元に譲らないでください! ずっとアガベ様のお傍にいさせてください!!」
「シャガ……」
いつも冷静なシャガが感情を荒げて、懇願している。
膝を曲げ、手を床につき、アガベに頭を下げた。
土下座なんて、子どものする事ではない。
すぐにアガベはシャガの細い肩に触れた。
「シャガ、頭を上げて」
「もう教授の元に戻りたくはありません。あの人のそばは地獄です。……お願いです……お願いですから……」
一重の瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。
教授の元に帰るのが、本当に嫌なのだろう。
アガベは立ち上がり、自分の胸の気持ちを正直に打ち明けた。
「私も、あなたをそばに置いておきたい。でも、ごめんなさい。正直、どうしたらいいのか……自分でもわからなくて……」
「アガベ様、失礼します」
突然、シャガはメイド服を脱ぎ始めた。
ヘッドドレスを取り、肩にかかったエプロンを外す。そして、上のブラウスのボタンにも手をかけ始めた。
「ちょ、ちょっと何をして……」
ブラウスから腕を抜き、シャガの背中が露わになる。
アガベは言葉を詰まらせた。
「っ!」
その背中には、いたる所に深い傷が刻まれていた。肉体を抉った、痛々しい傷だ。子供が背負う傷にしては酷すぎる。
どれだけ痛かっただろう、どれだけ辛かっただろう。
それを想像するだけで、涙が出そうになった。
「最初、私が湯浴みを嫌がった理由です。これを……見られたくなかった」
「シャガ……」
あまりの衝撃に、アガベの手は震える。
幼い子供に誰がこんな事をしたのか。
どう考えても一人しかいない。
デルフィニウム教授だ。あの上品な物腰で、品性のある言葉で、この子を傷つけたのかと思うと、言葉が出てこなかった。
「私に湯浴みをした村の女達は、この傷に驚いたようでしたが、何も聞かず、背中を洗ってくれました。ただ、「優しく洗うよ」「染みたら言うんだよ」って……」
シャガの言葉は涙で霞み、聞き取れなくなっていった。
傷だらけの背中に温かい言葉は、シャガの心を救ったに違いない。だから、あれからシャガは湯浴みをするようになった。
「ごめんなさい。私、何も知らなくて……」
シャガから話さなければ、アガベは知る術はない。
それでも、アガベは謝らずにはいられなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ブラウスを彼女の肩にかけ、そのままシャガの身体を抱き寄せた。
今ならわかる。
なぜ、彼女が貴族を嫌いうのか。
なぜ、最初、言葉すら発しなかったのか。
こんな事をされて、信頼なんか出来るはずがない。貴族に嫌悪感を抱くのも当然だ。
アガベはしばらくの間、「ごめんなさい」「ごめんなさい」と繰り返し、詫び言を述べた。
貴族である自分だからこそ、シャガに謝りたかった。
そして、心を決めた。




