キルニズム
パトロン達の古き悪き思想は、利権者である彼らの中だけに留まることはなく、ゆっくりとそして確実に芸術家たちの家-"アトリエ"を蝕んでゆく。滲み出たその不純物は時間をかけて形を成し、腐食を加速させ何れアトリエの全てを飲み込むのだろう。
それでも我々は彼らに対してプラカードを掲げ、抗議の意を示す訳でもなければレジスタンスを結成して労基に駆け込む訳でもない。
ただ自身が持っている才能を盾に、ある程度の社会的地位を保証してくれるだろうという、当たり障りのない一輪の希望だけを燈として歩むだけだ。彼らは悪き者なのだ、と。
それは一部分に照らされた虚像の成り掛け。そして、その燈を持っているものしか理解し得ない。
だが我々もまた、その光に照らされた場所以外を見ることを放棄しているに過ぎない。
彼らを全体で見れば善人の集団なのだ。それどころか我々が本来手に入らないまま終わる筈だった余生に火を灯し、光で道を作り、苦悩と煩悩の影で芽吹く事ができずにいた才能を探し当ててくれたのだ。アトリエも彼らがいなければ今頃は、世捨人共の溜まり場になっていた。
彼らがしてきた事を我々は、いや私は感化する事ができない。スラムの連中の居場所を潰し、奴隷として彼らを作り変えるような連中、それがマエストロ・フランジュールが創り上げた地獄でありパトロンなのだ。
私は彼らの観葉植物などでは無い。
私の才能を隠していた"影"は彼らによって取り払われた。そして、私の才能の苗は世捨人の溜まり場から彼らの眼の届く鉢に移された。
華は、咲き誇る為にあるとその頃は本気で信じていた私にとって、輝く為のその取引は心から惹かれた。
そんな虚像で薄く固められた盲目的な信仰心はマエストロを崇める材料に十分になり得る。
鉢の土は奴隷達の骨で埋め立てられ、肥料は肉片、そしてかけられる水は赤黒く濁っていた。
時折才能の枝から滴り落ちる深紅の雫は水面に私の行末を鮮明に映すのだ。
筆を持つ腕は不気味な程に貧弱で、顔は屍の如く黒ずんでいる。
結局、私はただ育てられているだけだ。
肥沃な肉をつけ終え、後は萎んでゆくだけの私を後はパトロンが調理して食べてくれる筈だ。どうだろうか、アトリエを蝕み、飲み込み、潰し、我々の帰る場所を消したあと、どこかの裏街にでも売り飛ばされるのだろうか。金を生み出さない画家に裏街で価値があるのか知らないが。
私達には時間がない。
我々の才能が社会的な地位を保護しても、上層の連中はより付加価値の高い芽を探しに行くだけだ。他人が命をかけて作るものも彼らからすれば、より高い利益を孕むかどうかだけが重要なのだから。
近々、新しいアトリエがこの第32街に造られる。そこには、首都から才能が身体から溢れ出る様な異端者から、通俗的な天才画家まで来るとの事だ。
我々の命の喉笛はもう既に締め上げられているようなものだ。
今、それを行わなければいけないという感情を支える材料はもう余るほどに揃っている。
仕事仲間のジョニーレもハヴァも、2ヶ月前から評議会に作品を持ちこみにいって以来アトリエに顔を出していない。
行く前に、彼らの見せた笑顔は、口元は引き攣っているかの様に不気味な口角の上げ方であり、目の下には黒いヴェールがかけられていた。
「じゃあ、いってくる」
そう言いながら、か細い腕をひらひらと動かしていた。要するにあれは遺言だったのだろう。
もう限界なのだ。
今はもう、収穫の時に入りかけている。
我々の才能は上層部が小汚い商売をする為に利用するものでないと証明するのだ。
私は今ここで、この芽を摘まなければならない。
彼らに使い潰され、枯れる前に。
彼らが我々に与えた燈を業火に変える時が来たのだ。
「ソロント?」
アトリエの個室の扉を閉め忘れたのだろう。
後ろにはエミリーが立っていた。
2年前の凍てつく冬、若き天才画家として名を密かに挙げていた彼女は首都からアトリエにやってきた。
今は彼女の功績がこのアトリエを支えていると言っても過言ではない。
だが、私にとってはもはやどうでもいい事だ。
「ああ…君か。何か用だったかな?」
「うん!丁度いい知らせが届いたの!」
そう問うと、彼女は嬉しそうな表情を滲ませた
そして、斜め掛けのポーチの中から1通の封筒を取り出した。
「ソロントみたいにさ、私は熱心じゃないから評議会に絵を出すスパンもあんまり短くないんだ。だから、たまには真面目に書いてみようと思って」
天才画家である彼女がこんなアトリエを選んだのは、首都の息苦しい成果主義が理由だというのをハヴァから前に聞いた事があった。
それでも、私は彼女を前にして思うのだ。
彼女のように自分自身で才能を掘り起こせる様な人間は、下衆共に頭を垂れる必要がない。なのに、彼女は純粋な理由でこの場所にきた。
先の見えない成果主義と、帰り道がないアトリエ。
一体どちらが地獄だろうか。
「そしたらさ、見てこれ!オーギュストン伯爵からの招待状が来たの!凄くない!?宮廷内の壁面の臨時のデザイン技師になってくれって!」
「…ああ、君は凄いね」
「でしょでしょ?いつかソロントとも一緒に大舞台で合作を描いてみたいなぁ」
ああ、君のような才能が皆にもあればどれほど自由に生きていけただろうか。
その才能の葉が一輪でもあれば、故郷の仲間達は4年間は毎日暖かいポタージュと、腕よりも太いバタールが何本も買えたというのに。
「それとね、これも…んあれ、引っかかって…」
彼女は有り余る勢いで、封筒からもう1枚の紙を取り出す。
それはびっしりと何かが書かれた文書であった。
今まで私は幾度となく天才の画家たちに、自らが育て上げたツギハギの技術を壊されてきた。
その"天才"の中にはエミリーもいた。
彼女の芸術家としての才能は私の様な凡才の胸にはよく刺さるものだ。
それでも、私は彼女が私のもとで長らく"アシスタント"としている事を許可していたのは、彼女自身の性格がそれを中和していたからだ。
純粋さを彼女は恐ろしい才能と共に持ち合わせていた。
だからこそ、私はその性格すらもいつか鋭利な刃物となり私の胸に突き刺さる日が来るのだろうと、幾度も考えていた。
「パトロンの参加権利書!これで私もあの人たちみたいになれるんだ!」
それが、今なのだ。
分かっていた、分かりきっていた。きっとこうなる事は予感していたのだ。
「そうか」
エミリーほどの華のある人間はそちら側に行く方がいいのだ。そんな事は、ずっと前から、彼女を絵を見たときから分かっていたじゃないか。
そうだ。
だから、私は今こうしてシリンダーに弾を2発詰め込んでいるんだろう?
1発は憎むべき私の雇い主の為に
もう1発は私を好む天才の為に
その号砲は、何の記念だ?
薬莢が落ちる音がする。
彼女が下衆に成り下がった事への祝砲か?
何かが割れる音がする。
それとも、自分自身が歴史的な事件の犯人に、いや芸術界の革命家に成り上がった事への祝砲か?
それとも
どちらにせよ、もういい。
もうこれ以上、耐えられるのだ。
そうだ、絵を描こう。
私は、長らく楽しみながら絵を描けずにいた。
インクなら目の前に余るほど滴り落ちているのだからそれを使えばいい。
そして美しい蕾の絵を描こう。
それを評議会に持っていけば私はまた画伯に戻れる。
そしたら私は私の故郷に資金援助をするんだ。
誰かの為にお金を使うことはステファンなんかに出来やしない。
見返してやろう、そうと決まればまずはキャンバスだ。キャンバスがいるんだ。キャンバスが
「……え?……」
「血が……あ…うそ………」
頭から自分が今まで溜め込んだ叡智、そしてそれ以上に溜まり過ぎたドス黒い何かが流れていく。
赤い水溜りには幾つもの感情が見える。
悔いか嫉妬か。
或いは自分なりにケジメをつけた事への安堵だろうか。
ただ血溜まりが映す表情は、幸せのひと時を過ごす人間そのものだ。
朗報なのだ、これは。
1人の殺人未遂犯の悪行の芽が刈り取られたんだ。
それは素晴らしく良い事ではないか。
白く美しいアトリエが血で染まる。ガラス窓から差し込む陽光が、水面に映る引き攣った笑顔を照らしている。意外にも、赤というよりか黒に近い色具合だなと感じた。
そうか、完成したんだ。
今、まさに出来上がったんだ。
私は、私の生涯を費やして、私自身を作品に昇華させたのか。
膝に力が抜け、どさりと倒れる。
視界は徐々に狭搾していく。
作者本人が作品を見れないというのはなんともおかしい話だ。
かの有名なオーギュストン伯爵は病で倒れようとも、自らの作品を最高傑作と判別できる時間が与えられたというのに。
どうやら、私の様な凡才は与える権利しか持つ事が許されていないようだ。
全ては、俯瞰している者の為に。
私は作品の一部なのだ。
そうか、ジョニーレ達も自らを作品に仕立て上げたのか。
私は私自身の生に幕を引く事で漸く作品に混ざれるのだ。
光は消えてしまったが、もういい十分だ。
十分じゃないか、どうして
どうして君は涙を流している、エミリー。
そうか、美しさに打ち震えているんだ。
それほどの作品を私は遂に作り上げたんだ。
ああ
なんて美しいんだろうか。
「ええ、残念ながら。裏街で臓器くらいは売れます?はい、全部バラバラで解体という事で。あー…クリーニング代くらい経費でどうにかできません?」
1歩、また1歩と近づく。
重苦しい扉についている錠前から会話が水の様に漏れ、耳に入ってくる。
威圧感のあるその扉に書かれた名前を確認し、一つ息を吐く。
コツコツ と扉を叩く
「あー…はいはい、誰ですか?」
ガチャリ と扉を開ける
「ああ、君か。あの書類の事なら期限はまだ来週だからじっくり考えて…」
ズドン と引き金を引く
残された1発の弾丸は、本当の不純物を貫く。
「あ、あ………あ…?…いだ…」
手から万年筆が転げ落ちる。
弾丸により開いた蕾は血で白い服を赤く染め上げていく。
苦悶の表情を浮かべながら、傷口を押さえているようだったが、殆ど意味がない様に見えた。現に、液体は机に滴り落ちて、床に赤い模様を作り上げていく。
「やめ」
赤く染まり尽くしたキャンバスの中心部に、机に転がり血が着いた金色の万年筆を突き刺す。
ガタガタと揺れる身体は暫くしてぐったりと項垂れた。
ステファン=フランジュールの何か生み出す才能はもう当の昔に失われてしまっているだろう。
だから彼が今唯一持ち合わせているであろう遺言なんて心の底からどうでもいいと思った。
今そこ残っているのは利益に溺れた1人の汚いマエストロの…画伯だった者の屍だ。
出来あがった光景を私は俯瞰する。
あの人の様に美しい死に様じゃない、無様で醜悪な死。
「…ボツかなぁ。」
自分が作品になる自覚を持っていないから、碌なものをこの世界に残す事ができないのだろう。
そうだ、オーギュストン伯爵ならどうだろう。確かもう生い先長くはない老体のはず。
それに彼は一度生死の境目を彷徨ったんだ。
そんな自分の存在が希薄になる瞬間に立ち会わせることができた人間の本当の死は如何程美しいものだろうか。もしかしたら彼なら私の、いや私たちの作品になり得るかもしれない。
身を捨てて生み出したあの人の芸術は大空に解き放つべきだ。
あんな狭く利権に溺れたアトリエの中で終わらせていいものじゃない。
広めよう。そして、伝導しよう。
きっと皆んな分かってくれるはずだ。
この芸術を。
いや、思想を。