ペーパーロール
ドタバタと廊下を走る音を聞きながらローテーブルの下に転がした赤ペンを拾って顔をあげようとした瞬間に部屋のドアがバンと開いて「このバカ遙香!」と大声で怒鳴られたのに驚いて頭をゴンッッッ。
「あああ、ぜんぶ忘却したあああ」
「安心しなさい。あなたは頭をぶつけなくても万物を忘れているわ」
月奈ちゃんはバゴンバゴンとスリッパで床を叩きながら私の対面にドシッと座ってドカっとガラスのローテーブルに肘を打ち下ろし夏休みの宿題であるテキストとプリントとノートをドザザザザと奈落に落とした。
「運命を疑うわ。わたしは人の家でトイレットペーパーを交換するために生まれてきたのかしら」
「言ってくれたら私が交換したのに」
「わたしは、そのとき、パンツを下ろしています!」
「はあ」
「トイレットペーパー! パンツ!」
小学生のときから『霊感がある』とか『体調によって気圧がわかる』とか『世界の真実を知る者はつねに孤高である』なんて言って美しいロングヘアをかきあげながら孤立していた月奈ちゃんはパンツパンツと鳴いた挙げ句にぷいとそっぽを向いた。
「宿題をやる気勢を殺がれたわ。あなたがすべてやりなさい。わたしはその解答を写すから」
「そんなのだめだよ。月奈ちゃんは数学で、私が国語の分担だったでしょ」
親しい人間がそばにいないときは凜とした表情でカチコチに固まっているだけの月奈ちゃんは運動が苦手で歌や絵が下手なほかに勉強ができない弱点を抱えている。だから私が全部やってあげたほうがラクに終わるかもしれない。でもそれじゃあ月奈ちゃんがクールなわりにおバカなままだ!
「ふたりで役割分担したほうが絶対に効率がいいって。早く終わらせて一緒にゲームで遊ぼうよ」
「――――本当にそうかしら?」
溜めて反論するようなことかしら? 月奈ちゃんは目を細めて「トイレットペーパーを……」この子ったらトイレットペーパーの話ばかり!
「あなたのおうちにあるトイレットペーパーを製造している会社が買収されたとしましょう」
「だからどうした!」
「そう思うわよね。そんなの消費者には関係ないと」
「まあ会社の経営方針が変わって急にゴッワゴワッになったら違うメーカーの製品にすると思うよ」
「メーカーが変わらなくてもトイレットペーパーがゴッワゴワッになるなら買わなくなる?」
トイレットペーパーなんてお母さんやお父さんが仕事帰りに買っているから私に聞かれてもお客さま困りますぅと思いつつ頷くと、月奈ちゃんはにやりとした。
「ね、わかったでしょう。わたしたちは機能や性能を期待しているのであって、どこの会社のどこの社員がどういう思いでトイレットペーパーを製造しているのかなんてどうでもいいの」
「トイレットペーパーを製造しているのは社員じゃなくて下請けの人たちでしょ」
「それって人間関係も同じだとは思わない?」
孤独が月奈ちゃんの脳を萎縮させてしまったのだろうか。来年は同じクラスになれますように。
「あなたの家族が家族としての役割を放棄し、そのかわりにまったく知らない人たちが家族の役割を果たしたら、まったく知らない人たちがあなたの家族になる」
「なるわけないよお」
「二クラス合同体育の時間、あなたはクラスのお友達とずいぶん仲良くストレッチしているわね」
「仲良くするに決まってるよ! だってストレッチ中にギスギスしてたら相手に殺意を抱かれてボキられるよ。それにクラスの女子の数が偶数だから月奈ちゃんみたいに教師とペアを組めないし」
「その友達があなたとペアを組まないと言ったらどうする?」
もしかして月奈ちゃん、私に思考実験をさせまくって本当に宿題をやらない気なんじゃ……。回答に悩んでいるふりをしながら床に落ちていた月奈ちゃんの宿題をこっそり拾い上げたら肘鉄によってバサササササと落下した。月奈ちゃんは本気だ。
「ペアを組まないって? 音楽性の違いで嫌いになったってこと?」
「いいえ、その子はあなたのことが好きだし、友達のつもりでいる。だけどあなたがペンを忘れたときに貸してくれないし、お金も貸してくれないし、水筒のお茶もくれない」
「私の人生にも与える側面はあるよ!」
「周囲に誤解されたときもかばってくれないし、困っていても助けてくれないし、トイレにも一緒に行ってくれないし、遊びに誘ったって来ないし、遊びにも誘って来ない」
「それは友だちなの?」
「あなたがそう疑うのは、ないものこそが友達の本質だと思っているからよ」
うわあ。
「洗濯はママとパパのどちらがしているの? 体操服を洗濯してくれなくなったらどう思う? 朝食の用意は? 明日から朝食がなくなったら? 生活費は? 昨日と引き続き、同じ感性を持ち、同じ記憶を持ち、同じ愛情を持っている人間でも、あなたにとって急に役立たずになったら、それは家族じゃないでしょう」
「い、いや、家族は家族だよ。役所で申請したら証明書を発行してもらえるだろうし。友だちは発行してもらえないかもしれないけど友だちだし、月奈ちゃん……そんなさびしいことばかり考えているからクラスでお友だちができないんだよ」
月奈ちゃんは頬杖をついた。こちらの表情を下から覗きこむように上目遣いをする。まつげが、とても、ながい。
「小学生のときから考えていたわ。わたしは周囲の人間が役割を果たすことを期待しているのであって、その人間が別人にかわっても支障はないだろうって」
「小学生のときから私しか友だちがいなかったよね」
「恋人がえっちなことをいやがるために――」
恋人がえっちなことをいやがるために、恋人がえっちなことを、恋人がえっち、えっち。え? 今、月奈ちゃんがえっちって言わなかった? えっ? えっ? えっっっっっっ。
「――別れる話はまさにそうではなくて? 相手はそっくりそのまま同じなはずなのに、期待を裏切られたら不要になって期待を実現できる相手で代用する。相手そのものではなく相手がこなす役割を愛しているのよ」
「れ、れ、恋愛なんてしたことないくせに」
「お互いさまでしょう」
したことないんだ!
「子どもができないから別れる、お金がないから結婚しない。その条件こそが相手を欲する本当の目的なのよ。だから付き合ったり別れたりをくりかえせる。役割を果たしてくれるなら誰でもよいから」
「や、でも恋人に振られて死ぬ人だっているでしょ。もし役割を果たしてくれるなら他の人でもよかったはずだよ。だけどそうじゃないから思い詰めて死んでしまうわけで」
「その人は頭が悪かったのよ。代替できる存在のために死ぬなんてばかげた話だわ。お気に入りのトイレットペーパーが在庫切れになって死ぬようなもの」
それはすごいばかだけど。
そのたとえもすごいばかっぽいけど。
長くて小さいあくび。月奈ちゃんは頬杖をついていた腕をずるずると横に滑らせ、今にもテーブルに突っ伏して眠ろうとしていた。
グーで月奈ちゃんの無防備な肩をパンチしまくった甲斐があって、月奈ちゃんはふたたび顔をあげた。ふてくされた面持ちだ。
「で、人間がだいたい代替できるトイレットペーパーだから何なの? 宿題をやりなよ!」
「つまりね、わたしが言いたいのはこういうことよ――あなたが宿題をやりなさい」
「わっけわかんないよ。代わりに宿題をやる役割を果たさなければ絶好して宿題をやってくれる友だちを探すって脅し?」
きれいなことだけが取り柄な月奈ちゃんは今にも口から苦い汁を吐き出しそうな顔をした。見ているこっちも苦くなる。
「人の話を聞いてたのかしら?」
「正直、何を言ってるのかよくわからなかったよ」
月奈ちゃんは「敗北者」と私を罵倒して無い胸を張った。
「資源が有限にもかかわらず、なぜ多くの人間が生かされてきたのか。それは役割を分担したほうが効率のよい時代があったからだわ。一人が一日にできる仕事の最大の量は決まっているし、生まれ持った能力によって得意なことも出来ることも変わってくる。だから資源を分け合ってでも多くの人間を生かして役割を分担して仕事をさせていたのよ。でも人員を確保するために必要とされただけで、多くの人間は代替できる存在なの」
「社会の歯車的な?」
「機械が導入されてからは歯車そのものを減らしても社会が回るようになっている。誰でも同じ手順を踏めば同じ結果が出せるように、手続きを簡略化して、属人化を解消しようとしている。物事がシンプルになればなるほど機械は強いわ。最終的に、人間はそんなに必要じゃなくなると思うの。多くの人間は人工物に置き換えられ、少数の人間が限られた資源を独占する」
「高度に発達した社会に必要とされなくたって、多くの人間サイドは社会を必要としているし、人は簡単には死んではくれないよ」
「永遠の命を手に入れられると誘惑して、人体を機械に改造し、遠隔で機能を停止すればいいのよ」
「そんな技術があるなら遠隔で機械のからだを操作して無限に働かせればいいじゃん」
月奈ちゃんは目を見開いたあと、ふふふと笑った。
「あなた、残酷な発想をするわね」
「現代の現在の現時点では人間はまだまだ必要だし、役割とか云々抜きに恋とか愛とか情とか友情とかあるし、月奈ちゃんが妄想しているような世界には永劫なりっこないよ。ね、今ある目の前の現実を見ようよ。宿題を拾おう」
「人間なんていらない」
じゃあ月奈ちゃんが爆発して死んじゃえ。すぐ近くで巻きこまれて一緒に死ぬからさ。なんて言わなかったのに、月奈ちゃんはおもしろがるような顔付きで私を見た。
「ほかのやつらなんていらない。あなただけがいればいい。友達の役割もパパの役割もママの役割も恋人の役割も子供の役割も先生の役割も政治家の役割も宿題を終わらせる役割もすべてあなたが担うの。わたしはあなたさえいれば生きていけるから、友達もパパもママも恋人も子供も先生も政治家もいらないし、わたしは宿題なんてやらなくていい」
顔が熱くなってきた。月奈ちゃんとのおしゃべりのせいで水分補給が足りていないんだ。あるいは冷房の調子が悪いんだ。または冷房の風に当たりすぎたからだ。もしくは季節外れの風邪だ。
だから私はもうむちゃくちゃだ。
「わ、私がやった宿題をそのまま丸写ししても月奈ちゃんのためにならないし、先生もすぐに見抜いてカンカンに怒っちゃうから」
「先生はあなただから大丈夫」
「先生は私じゃありません!」
「あなたはママでもあるから先生はママでもあるわね」
「先生はお母さんじゃありません!」
私とは対照的に月奈ちゃんは涼しい顔をしている。このままでは、また、いつものように――。
「宿題なんて誰がやっても同じだわ。空欄が埋まっていれば宿題をやったことになる。誰がやっても構わないのなら、一人が責任を持って宿題をやり、その宿題をもう一人が写したほうが効率がいいでしょう」
「夏休みのあいだに月奈ちゃんみたいなアホの子が勉強にさらに遅れないように宿題が出されているんだよおおおおお」
「わたし、ばかでもいいわ。あなた以外の人間には顔がないもの。歯車に見下されても自尊心は傷つけられないでしょ」
「月奈ちゃんが赤点を取ったら、私が腹を抱えて笑っちゃうからね!」
「あなたにばかにされる分には腹が立たないわ」
――負けてしまう。
私は先ほど月奈ちゃんがバッサリ落とした宿題を拾って、すでに開いていた自分の宿題の上に置いた。ニタニタする月奈ちゃんを牽制する咳払い。
「で、でも、私が全部やる分、ゲームだって一緒に遊べないかもなんだからね」
「あら、わたしはあなたが宿題をやっている姿を眺めているだけで十分に楽しいから、どうぞお気遣いなく」
なんて、ぺらぺらの意志なんだろう。この世には大勢の人間がいるのに、クラスだけでも何十人もいるのに、もっと素晴らしい友だちを持つことができたのに、可能性は無限にあったはずなのに、世界がふたりで完結してしまう。めんどくさくてありえなくてやりたくない役割を押しつけられながら、その役割を果たせるのは自分しかいない――だから相手には自分しかいないという確信が、常識を揺るがしてしまう。
本当はその都合のよさを期待されているだけかもしれないのに。
手が止まっていた私をとがめるように、月奈ちゃんが宿題を覗きこんで、鼻で笑った。
「こんな簡単な問題に悩むなんて、あなたらしいわね」
その無邪気さと残酷さは唯一無二で、役割さえ果たせば代替できるなんて嘘っぱちで、華麗な反論で打ち負かせるはずなのに、その瞬間に私はゴッワゴワッのトイレットペーパーに変身してしまうのではないか、思い詰めて、ためらってしまう、ぺらぺらの……友情。